土曜の昨夜は大学のサークルメンバーと飲み明かした。
 今日は昼から市立図書館でタグ貼りのバイトがある。寝て、シャワー浴びて、ご飯を食べて。おれは時間配分を考えながらポケットから家の鍵を取り出した。まだ酔いがさめていないのかうまく鍵穴に宛がえず、落としてしまう。拾い上げるために腰を屈めたおれは、新聞受けに何も挟まっていないことに気づいた。
(休刊、かな)。
 おれは、その日の朝刊の話をふってくることが多い、タナカさんの顔を思い浮かべる。ベテラン司書だ。ワイシャツには染みも皺も無い。毎朝奥さんにアイロンをかけてもらっているのだろう。(タナカさんのプライベートはほとんど聞いたことがないけど)。両腕には紺色のアームカバー。こちらは長いこと使っているらしく、色がすすけているように見える。もとはもう少し鮮やかな藍色をしていたのだろう。
「葉月くん」。タナカさんはおれのことを先生みたいにそう呼ぶ。
 もっとも、彼のように穏やかな先生に当たったことはこれまでになかったから、それはおれの中の、単なる理想なのかも知れないんだけど。

 おれの名前は月山葉月。
 月が二つも入ってる。
 バランスが良いようで悪いこの名前。
 おれはあまり、好きではない。
 
 二十五時間ぶりくらいに入った自分の部屋の中は、何かが変化していた。
 おれはリビングの手前で立ち止まって腕組みをした。犯行現場で慎重になる刑事みたいに。
 大きな変化は三つ見つかった。
 まず、カーテンが開いていた。出かける時は帰りが明け方になることを見越してカーテンをぴっちり閉めて出たはずだ。
 次に、リモコンの位置。おれはテーブルじゃなくてソファベッドに置く。
 そして、最後に。
 おれは首を右に回して、キッチンの流しに使い終わった茶碗が伏せてあるのを見つける。
「・・・・・・バレバレなんだよ、あの野郎」
 新聞はラックの上に置いてあった。読みやがった。おれは一日の楽しみが一つ減ったことを憂えた。インクの香りは真っ先に嗅ぎたいほうだ。
 腹癒せに、ばっ、と勢いよく新聞を開いたおれの足元に紙片が落ちた。拾い上げると手書きのメモだ。

早く戻ってきてほしいです
さあさあはやく
はやくはやくはやく
おれは
きみの味噌汁が飲みたい。


 おれは「ありえねえ」と呟いてソファベッドに身を沈めた。ありえているからあえて呟いてみた。
 クーラーのリモコンを捜して、それがいつもの位置に無いことを知る。あいつは。
 電話口で怒鳴りつけてやりたかった。だけどそのために睡眠時間を減らすのも、声を絞るのも、気を荒げるのも、もったいない。次に会った時で良いだろう。次がいつになるかは分からないけど。第一、朝からあいつの声を聞きたくない。メモの内容からするに、自炊にも限界が来ているのだろう。

きみの みそしる が のみたい。

 出汁の取り方は、母さんに教わった。
 母さんは近所の公民館で主婦相手に料理の講師をしていた。母さんは小さい頃からバレエを習っていたが、中学二年の夏休み、交通事故に遭った。命には別状が無かったけれど、バレエは続けられなくなった。母さんは今でもお風呂上りのストレッチは欠かさない。きっと、欠かして、ない。確信を持って云えないのは、母さんは五年前に、つまりおれが中学二年生だった夏に、家を出て行ったからだ。理由は「恋をしているの」。だ、そうだ。「その人と暮らさなければ死んでしまうかも知れないの」。だ、そうだ。「じゃ、この家には戻ってこないの?」。おれはテレビを見ていた。野球中継だ。バッターが逆転ホームランを打つ。スタンドがどっと沸く。母さんの声が聞き取れなかった。おれは「そっか。分かった」とだけ云った。母さんは安心したようだった。笑い声と溜息が一緒に聞こえたから。じゃあ、スーパーに買い物に行ってくるわね。あの日母さんは一体どこのスーパーまで出掛けて行ったのだろう。五年経った今も、母さんは家に帰って来ない。その代わり、母さんが出て行った翌日から、一人の男がおれと母さんの家にやって来た。
「葉月くん、おかえりっ」。
 いつもより遅く学校から帰ったおれは、玄関先で靴を脱ぐなり、見知らぬ若い男に抱き締められた。
「・・・・・・はあ。ただいまです」。
 おれは直立したまま、相手のなすがままだった。手から学校指定の黒鞄が落ちた。
「帰りが遅いから心配したんだよ。いつも、これくらいなの?」。
 男は体を離すと髪を撫で撫でした。おれのことを犬か猫と間違ってんじゃないだろうか。
「あの、どちら様ですか?」。
 おれの質問に男ははっとした顔をした。
「あ、遅れてごめん。おれ、葉月くんの父親なんだ」
「・・・・・・どちらの、葉月くんですか」
 嫌な予感しかしないおれが訊ねると、男が答えた。
「目の前にいる、葉月くん」

拝啓、母上様。
おれも恋をしていいですか。
あなたは恋をしたから家を出て行くと云いました。
じゃあおれも恋をしたいです。
どこか遠くへ買い物に行きたいです。


 男は月山と名乗った。せいぜい二十代半ばにしか見えなかった月山は正確には三十四才だった。母さんの「最初の」結婚相手らしい。間におれが産まれた。おれが幼稚園に上がる前、母さんはおれを連れて今の家に引っ越した。それから今に至るまで一度も、月山はここを訪れていない。月山はバカだったのだ。「葉月くんと一緒にスーパーに買い物に行ってくるわね」。母さんはその時も同じ手口を使った。それきり月山の元には戻らなかった。月山は母さんの言葉を信じていたから、ずっと待っていた。不安になったことは一度も無かったという。それから十年近くの月日が流れ、母さんの帰りを待ち続ける月山に連絡が入った。内容は「葉月くんのこと、よろしくね」だった。母さんはその時初めて月山に住所を教えた。「分かった。任せて」。月山は元気良く返事した。十年もの間離れ離れに暮らしていた父子は、そして再び出会った。

「葉月くん、美人になったねえ」。
 月山の手料理は壊滅状態だったのでその夜は出前を取った。
 よりによって親子丼だ。
「・・・・・・褒め言葉にならないですけど」。
 月山は「はっはっは」と笑った。おれは笑わなかった。

 おれには父親がいないんだと思ってた。
 母さんは自分の無責任な発言が息子の成長にその後どのような影響を及ぼすことになろうかは心配していなかったようだ。
 保健の授業で正しいことを習うまでおれは、赤ちゃんは雲が運んでくるのだと信じて疑わなかっていなかった。
(だから、雲が多い日はお空に気をつけないと駄目よ)。
(落っこちてきた赤ちゃんがいたら、キャッチしてあげるのよ)。
(あたしが葉月くんをキャッチしたみたいにね、そっと、そっとなのよ)。
 母さんは結構長いこと「うふふ」「うふふ」と笑っていた。今思えば息子に嘘を教えて楽しんでいたのかも知れない。
 そう。
 大好きだったバレエをやめざるを得なくなって、料理の道を究めて、おれを産んだ母さんは、いつだって嘘吐きで、いつだって明るくて、いつだって頬が桃色の女性だった。

「母さんのこと、ムカつかないんですか」。
 月山との生活もひと月が経過したある日のこと、夕食の席で、おれは日頃の疑問を口にした。
「うん、ムカつくよねえ、彼女」。
 言葉とは裏腹にその声色は穏やかだ。
「でも、それは葉月くんだって同じじゃない。ムカつかない? ムカつくでしょ。でも、嫌いじゃない。好きなんだ。彼女を、これからも、ずっと。そうだろ」。
「・・・・・・。じゃ、おれのことはムカつかないんですか」。
 月山は「何で」といった具合に首を傾げた。
 その仕草に違和感の無いところが違和感だ。
「葉月くんみたいな子が自分の息子で、何にムカつくの」。
 この時以来、おれはこの議題を話題にしないことにした。

 おれは学校での出来事をたまに話した。月山は「うんうん」と頷いて聞いてくれた。
 おれは想像する。月山と母さんが恋人同士だったということを想像する。その二人が夫婦になったということを想像する。悪くない。お似合いだ。絶対に、そうなのに。
(なのにどうして一緒にいないんだろう)。
 その日の晩御飯はおれの担当だった。月山の料理の腕は上達しなかった。おれは母さんの子どもだけど、母さんがこの男を最初に選んだ理由はどうも理解できなかった。その内に理解しようとすることを放棄した。だって意味が無いのだ、そんなことに。
「葉月くんっ!」。
「・・・・・・え、あ、はい。何?」。
「この味噌汁はきみが作ったの?」。
「・・・・・・見てたでしょ。おれでしょ」。
 月山は「そうだった。葉月くんだった」と強く頷くと再び食事に戻っていった。途中で何度か顔を上げておれのほうを見てくるのが不思議だった。再び目を伏せる時、どこか恍惚としたような溜息を吐くのも不思議だった。不思議だったし、若干、不気味でもあった。
 そういえばこいつがおれの父親だっていう物証は何も無いんだよな。
 などとぐるぐる考えている間に、食事の時間は過ぎていった。
「葉月くん。おれは今夜の味噌汁を死ぬまで忘れないと思う」。
「・・・・・・ふうん」。
「どうしてか分かる?」。
「・・・・・・べつに知りたくな、」
「今まで食べた物の中で、一番、美味しかったから」。
 月山がおれの返事にかぶせて答えを云ってしまう。その目は真剣だ。きりっ。としている。こいつ、黙ってりゃそこそこ良いのに。
「・・・・・・いやいや、こんな素人料理より美味いもんは世の中いくらでも存在し、」
「ないね」。
 月山はまたもおれの言葉にかぶせて断言した。
「・・・・・・まあ、あんたがそう思ってんならそれでも良いけど」。
 おれは茶碗を重ねると流しに立った。月山が「そこはおれが」と後片付けを申し出る。おれは手伝ってもらうことにした。食器洗いくらいはまともにできるだろう。
 と、甘く見たのが、いけなかった。
 自分の部屋で勉強机に向かった時、陶器の割れる音がした。それも一枚や二枚じゃない。おれは額に手をあて、プラスチック製の食器って大人サイズでも売ってあんのかな、と思う。
 月山は今までどんな生活を送ってきたんだろう。

 こうして突然にスタートした男二人の共同生活は、おれが高校を卒業する四年後まで続いた。