おや、と思った。おやや、おやおや? 意識したことは無かったが、その時おれはふと「真実」に気づき、首をかしげる仕草でとぼけ方を自作自演し自分自身を騙そうとしたのだけどそんなことに結局意味は無かったし時間稼ぎにもならないしだいたい時間を稼いだところで真実が変形するわけでもないしましてや無かったことになるわけでもないし、さて一瞬おれは「どうしようか」と迷ったんだ確かに。迷ったというのは自意識をどうするかって問題ではすでに無くて、そんなことではありえなくて、ただ、真実を問い合わせることのできる相手に問い合わせるべきなのかどうかってこと。でもおれはほぼ直感的にそれを真実だと知って、そう、云うならば、ビンっと電圧を流されたように体感してしまったわけであって、そうすると今までやり過ごしてきた日々の中の些細な小波だとか記憶の中で鮮やかに切り取られて保管されている部分なんかも色調を反転された画像みたいに別物になってしまって、途方に暮れるというにはおれは少し冷静に過ぎて、まあもともと感情の起伏は激しくない方だったし、ってのは置いておくにしても、今の気持ちを一言で表すならば「タナカさん……」だった。うん、何も表せていないね。オーライ、それくらい、わかっているさ。
「すいません、体調が優れないみたいなので」。
 と云ってバイトを早退する大学生。いつ切られてもおかしくはないだろう。
 駅までの道をふらふら歩きながら、このまま家に帰ってもな、という思いからかおれの足は西へ東へ右往左往した。ひとりぶらり旅。迷える。今日なら、超、迷える。
 ふと「一生こんな生き方できないかなあ」って空を見上げた。都会といえども高いビルに囲まれてるばっかじゃない。おれが足を踏み入れた地区はどちらかと云えば民家が多く、まあ住宅街ね。こんなところを休日の真昼間からあてどなく彷徨う三白眼はいつ通報されるか分かったもんじゃないが、肥えたセンチメンタリズムは「いいって、それくらい。ほっつき歩いてただけで通報? 上等! おれにはこの界隈を虚ろな目をして歩く権利があるんだよ」なんて誰に訊かれてもいないうちからいいわけめいたものを用意しておきながら果たしてこれが有効で効果的ないいわけになりうるかっつうとそうはなりえない代物でだがかえって危ぶまれて逃げられるかも知れないとなるとそれは望んだ結果なわけであって、あ、でも今誰かに近付いて遠ざかられるっていう一連の動作をされるとこの傷心取り返しつかないことになるかもな。
(うわ、おれのやつ、混乱してやんの)。
 やがて意図せずおれは黄色い鳥のビヨンビヨン(正式名称が分からない)が片隅に置いてある公園に辿り着き、持ち合わせの小銭を自販機に投入しホットのジャスミンティーを買ったつもりが取り出し口に突っ込んだ手が握ったものがクールのサイダーだったから死ぬまで無神論を貫き通すんだぜ。
「なあ、ひよこちゃんよ」。
 おれは黄色いビヨンビヨンに跨って体を上下左右に揺らした。足がついているからたやすい。いや、むしろ足を上げた方がもっと楽しいかも知れない。だけどいつ通行人に見られるか分からないから足はつけておくべきだ。おれはこんな時でさえ無駄に冷静さを残してしまう。果たしてこれが冷静と呼べる思考が編み出した論理かどうかはさしおいても。バカになりきれない。
(こんなところ、民也に見られたら恥だな、恥)。
 どうして今あいつの名前であいつの顔であいつなのか。思い出すべきは嫌味なほど完璧なあの幼馴染のことなんかじゃないだろうに。ああ、逃げてんだ。おれ。
 呷ったサイダーの気泡でむせる。缶を砂場に放り投げ、頭を抱える。やべえポイ捨てちゃったよ。自棄を起こしてこの程度の男だよ、どうせ。
 マフラーを巻き直して、深呼吸する。冬のにおいがして、もうすぐ今年も終わりだ、と思考は飛躍する。
 そう、スケールをでっかくするんだ。
 一つ、いたたまれない衝撃があったら、自分のレンズの倍率下げて、ちっぽけ具合を強調する。すると自分という存在がいかに特別じゃなく、唯一じゃなく、埋もれていて、ありきたりで、くだらなくて、どうだってよくて、そんなおれという肉体の器におさまっている、鳥の糞みたいな脳味噌の中にさらにおさまっている、最終マトリョーシカ、煩悩とか欲求だとかと押し合いながら存在している、悩み、なんて、あるかないかわかんないものだろう。
 と、納得できたらどんなにか楽だろう。
「なあ、おれの推理、当たってんのか?」。
 だけど現実におれはその鳥のクソみたいな脳味噌で世界をとらえてるわけで、生きているわけで、それが宇宙規模の視点から見てどんなにちっちゃかろうと無に等しかろうと、等身大であることに変わらないんだ。
「月山……、なあ、こたえろよ」。
 おれは、もっとも憎い男の名前を呼んで顔を覆った。
 公園に来るとおれはよく泣く。あの時もそうだった。かくれんぼをしていて、置いてけぼりにされて、待つ人は来なくて、だけど動くことができなくて。自分から動き出したら認めたことになるから。おれを迎えに来る大人はいなくてだからおれは子どもだけどひとりで帰らなきゃいけないんだってことを認めることになるから。まだ、認めたくなかったんだろう。
 揺らしていないはずのビヨンビヨンがいつまでも揺れていて、おれは目の縁が熱くなるのを感じる。ポケットの中で携帯がぶるぶる鳴っているのを知るが出るわけがない。確認もしない。おれは誰とも繋がりたくない。繋がっていたくない。
「……き、くん」。
 ああ、もう。今。
「……うっせ、ばか」。
 来るな。
「……葉月くん」。
 うるさい。どうして。今。
「……話しかけんじゃねえよ」。
 誰だよ。呼ぶなよ。気が散る。
「葉月くん!」。
「えっ?」。
 おれは顔から手を離し、おそるおそる見渡す。誰もいない。ビヨンビヨンは揺れ続けている。何この怪奇現象。ぶるぶる。ビヨンビヨン。
「はっづきくうんっ」。
 鳥の頭の下から、にゅっと顔を出してきたのは、
「何でおまえがここにいるんだよ」。
 おれは腹の底から低い声を出した。マフラーで目の下まで覆う。本当はすべて覆いたいところだが、それだと余計に惨めだ。十分惨めな痴態をさらしておきながらまだ何かに抵抗したがる部分におれはなけなしの自尊心が残っていることを感じ取り、みっともないなりにほっとする。
 猫なら。
 せめて見知らぬ野良猫なら撫でてやらんこともなかった。
 だが、ビヨンビヨン鳥の頭を抱えるようにしておれを見上げているのは四十間近とは思えない若造りでニートでおれの父親で月山で殴りたい。
「え、だって葉月くんさっき呼んだでしょ」。
 だから参上したのに何がおかしいの、って逆におかしくないところが無いだろう。お前はおれのヒーローかっ。ぺちっ。おれの気まぐれで頭を叩かれた月山はどっちが子どもか分からないような仕草でおれを睨んだ後、まあこの際どっちも子どもではないんだが、自分の登場の方法による謎は決して解明せず、おれの顔を見上げてただにこにこしているから、戦闘意識は削がれて、父子揃ってビヨンビヨンしていた。
「……葉月くん、えろいね」。
「……何が」。
 あ、返答次第でぼこるけど。
 と付け足してやったのが慈悲であるにも関わらず月山は眉尻を下げ、
「泣きながら跨ってビヨンビヨンしてるのってなんか騎乗、い……ったあ。痛い! 痛いじゃないか、葉月くん!」。
「ああ、自覚おめでとう。お前は痛い男だよ……」。
 ベンチへ場所を移したおれはビヨンビヨンに跨った月山を見て「そうか、お前もそれに乗りたかったんだな」と確認した。月山は、えっへん、と笑った。
 そうやってバカ晒すのも無防備にアホなのも、ああそっか全部、ずっと、おれ誤解してたんだ。
「……遊んでないで職安行けよ」。
「日曜日だもん」。
「ああ、そうだったな」。
 おれは前屈みになると膝の間の地面を見つめた。そう、暗示。
「聞け、月山。おれは今から大地に話しかける。だからお前もそのビヨンビヨン鳥に話しかけろ。いいか、月山。おれとお前は会話してない。会話なんかしていないんだからな」。
 話の途中で月山が「お、猫」と声を上げたので「じゃ、その猫に話しかけろ」と云った。うん、と承諾の返答があり、おれは早速地面に話しかける。月山が早くも手懐けているのか猫の、にゃうううん、と甘えた鳴き声がする。ごろごろ。おれは心を鋼鉄にして顔を上げないように努める。
「お前、知ってたんだな」。
「うん」。
「……即答って。何を知ってたのかって質問だよって訊かないのかよ」。
「だって、おれ、はづ、じゃない、きみにたくさん嘘吐いてるから」。
 その猫は月山を不思議そうに見上げているだろう。
「母さんとの結婚のこと、ずっと反対されてたのか」。
「人に嫌われたことあんま無かったからね、びっくりしたけど、そうだよ。おれまだ学生だったし。卒業したらちゃんと働いて養っていくつもりであることを伝えたんだけど、無計画に見えたみたいね」。
 あっはは無理も無いよね、と月山は笑った。おれは反応しなかった。何故なら月山が話しているのは猫であっておれじゃないからだ。おれは引き続き大地に話しかける。
「そういうとこがいけないんじゃねえの。重要なとこで笑うじゃん、お前。不真面目ってか不謹慎なんだよ。云っとくけど損してるからな、それ。だから十年も息子に会わせてもらえねえんだよ」。
 話しながらおれは苛立ってくる。何に。誰に。月山に。
 どうして重要なとこで不器用なんだよ。ちゃんとしねえんだよ。そこはうまくやれよ。そここそうまくやれよ。できんだろ。へたれてんなよ。背負ってんじゃねえよ。余裕じゃねえだろ。
「……おれさあ。タナカさん、のこと、理想の父親だなって思ってた。まさか実の祖父とは思ってなかったけどな」。
「ああ、なら見る目あると思うよ。おれみたいなだらしのない男をさ、大事な一人娘からちゃんと遠ざけていたんだから」。
 ふざけんじゃねえよ。
 大人ぶんじゃねえよ。
 何もうまくできねえくせに。
 おれはいくつも言葉を飲み込む。祖父、のくだりには言及が無かった。認めたも同然だった。
 タナカさんはおれの祖父だった。それはつまりタナカさんがおれの母さんの父親だってことだ。血が繋がってるんだ。憧れてたんだ。ずっと近くにいたんだ。月山とおれを十年間、遠ざけていた人が。タナカさんの言葉が蘇る。折を見て懺悔していたんだ。おれを見る目は孫を見る目だった。おれを通じて行方の知れない、けれども大切な娘を見ていたんだ。母さんはどこだろう。きっとどこかで幸せだろう。少女みたいな人だから。愛されることは容易いだろう。彼女にとっては、おれや月山だけが世界じゃない。そういう、人だった。憎まれずに、恐れずに、そんな自分で生きていける人だった。
 おれは知らなかった。ずっと何も知らなかった。
 俯いて、足の間の砂を睨みながら、両膝の上で握った拳が震えていた。
「……だったらどうして会いに来た。あの日。いきなり」。
「きみ、ひとりぼっちになったじゃん、あの日。ひとりは、さみしいでしょ」。
「……じゃあどうしてお前はずっとひとりだったんだよ。おれがさみしいことは無視できないくせに、自分がさみしいことは無視してて良かったのかよ!」。
 おれは顔を上げた。月山の体がこっちを向いていたから驚いた。それよりも驚いたのは、月山が笑っていなかったこと。真剣だったこと。知らない月山だったこと。おれは一度も見たことがなかったこと。黄色い鳥はもう揺れていなかった。
「出かけてくる」。
 おれは声を落として呟いた。呟きながら、ここが家みたいじゃん今の発言、とおかしく思う。笑えないけど。笑えることなんか何一つねえよ。
「おれが戻ってきた時、あの部屋からいなくなっててくれ、頼むから」。
 ふいと顔を背けたおれは月山がどんな表情でおれを見たか知らない。知ることはなかった。
 視界の端で何かがぼやけた。
 月山が手懐けた猫は、白と黒のまだらだった。