注文したランチプレートを待ちながらフリードリンクのジャスミンティー(念願のホット!)に口をつけたおれは、向かいに座ったオージくんが緊張したように体を強張らせているのを見るとはなしに見ていた。
 黒くて大きな瞳がサイドのメニューを凝視しているかと思ったら、突然せわしなく瞬きする。音が、出そう。素晴らしい猫目だ。理想的な子猫目だ。おれはつい一時間ほど前に別れた月山がいとも簡単に手懐けた白と黒のまだらの猫に手を触れることができなかった口惜しさからうっかりオージくんに視線を固定してしまっていたのだろう。ただし思考のほうは月山と別れてからずっと漂流している。遭難している。本島へは帰りたくないし離島に寄るの面倒だってとこか。ああ、それじゃ遭難じゃないか。流浪だ。
 日曜のファミレスは家族連れが多い。
 おれの右隣の民也は、通路を挟んだ向こうのシートの子どもと仲良く遊んでいる。
 おれの左隣、窓際席のひめかわくんはオージくんに話しかけているがほぼスルーされている。すごいのは全然めげていないことだ。彼はそもそもスルーされていることに気づいているのだろうか。それとも彼にしか分からないがオージくんはちゃんと聞いているのかも知れない。このコンビはなんだかんだで丸くまとまっているから癒される。ちぐはぐに見えて、とても噛み合っている気がする。一見、そうは見えないけど。ひめかわくんにはオージくんしかありえない気がするしオージくんにはひめかわくんしかありえない気がする。おれが二人を見る目は、民也に告白されて以来少し変わったかも知れない。ちなみに民也はあれからというものまるで吹っ切れたように冗談とも本気ともつかないちょっかいを仕掛けてくる。ハニーと呼んでみたりダーリンと呼ばせようとしてみたりといったソフトなものから、一歩間違うと被害届出すからなというハードなものまで、果敢といえば果敢、無謀といえば無謀、厚顔無恥といえば厚顔無恥。大学生になって初めておれの貞操はしばしば危険に晒される。民也のやつ。そしておれは自分が当事者であることを除いて考えた時、そんな新装民也を少しだけ羨ましいと思っている。新しく夢中になれるもん見つけたお前が正直羨ましい、と。惚気と思われては困る。当事者であることを除いた場合に限るとさっき云ったはずだ。
 そして、おれの真向かい、オージくんの隣を陣取る信哉はファミレスの安っぽいオレンジ色のシートが王座に見えてしまうという神々しいほどのオーラを漂わせて民也のほうを見ていたが、ふとその視線を、ギンっ、おれに向けるとテーブル越しに伸ばした手でおれの顔を自分へと向かせた。
「おい、葉月」。
 感情の読めない信哉の声に、幼児レベルで遊んでいた民也が、ぴくん、と反応する。もっとも、信哉がその表情にも声にも不機嫌以外の感情を露骨に出さないことは、傍らに喜怒哀楽の権化のようなひめかわくんを感じている今のおれにとっては真理だ。
「見るならおれを見ていろ」。
 ひめかわくんと民也が同時に呆気にとられたのを気配で感じた。ちょうど脇を通った女性店員があからさまにこちらのテーブルを振り返る。
「な、そうしろ?」。
 信哉だけが周囲の気配に無頓着で念を押すようにおれの顎を揺する。静かだが有無を云わせない響き。数日や数ヶ月で身につくものではない。信哉はずっとこうやって周囲の人間を従えてきたのだろう。と考えるのは穿ち過ぎだろうか。とも限らない。もっとも、諾するほうに不思議と敵意や憎悪を抱かせなかっただろう。純粋な日本人には出ないような明るい琥珀の瞳。金髪は地毛だ。もうこのまま海外ブランドの紳士服だとかの広告にでも出れば良い。出てしまえ。背景はファミレスのソファだが。
 幼馴染の民也が決して不細工ではない分、少なからぬ免疫はできていたものの、種類が違う。まして鏡の中の自分自身はどんなに細工を施してもこうはなれないだろう。それに、最近になって気づいたことだが、信哉は時々、沈んだような目をする。不穏で、凶悪で、そして。寂しい。オージくんにも同じ陰があることにおれは気づいている。触れてはいけないもののような、特有の、共有の、それはきっと哀しい哀しい過去なんだろう。おれは観察眼だけは優れていると自負している。もっとも表面的にしか把握できてはいないんだけど。現にタナカさんが祖父であることに、あれほど近くにいながら今日の今日まで気づくことがなかった。思い出して内心肩を落とす。そうしながら、目の前の実像に視線を合わせた。
「は、はい。分かりました」。
 何故か敬語になってしまうおれ。ならいい、と云いたげに素直に信哉の指が離れていく。心臓がばくばくしていて、ようやくおれの漂流、いや遭難、いや流浪していた魂もとい思考が平時の状態に限りなく近付く。つまりは我に返った。
「あまり見ていると、オージが戸惑う」。
 おれにと云うより、民也に教えるように信哉が説明する。それでおれは、ああ凝視しちゃってたからな、とようやく理解。ひめかわくんが嬉しそうにおれを見上げる。
「えへ。分かります、その気持ち。オージかわいいから」。
 平和な子だよ、きみはまったく。ひめかわくん。
「……バカじゃねえの」。
 オージくんがひめかわくんの足をテーブル下で蹴ったようだがひめかわくんは平気そうだ。慣れているのだろうか。慣れていそうだ。
(どうして信哉はオージくん相手に過保護なんだろうな)。
 おれはまたもオージくんを眺めそうになって慌てて信哉に目を戻す。オージくんと違って人からの視線に何の興味も無さそうに信哉はゆったりと瞬きをしていた。眠そうだ。寝ていないのかも知れない。本を読んでいたのかも知れない。
 そもそも。そもそもおれは民也とだけ昼食の予定だった。
『あれ、葉月から誘ってくるの珍しいじゃん。今日も図書館バイトじゃなかったっけ?』。
 質問には適当に答えた。民也は特に追及しなかった。おれは一人で自宅に帰る気がしなかった。月山と鉢合わせになるのは目に見えていたし。おれは月山に、あの部屋を出て行く猶予を与えるのだ。きちんと話し合うべきことはある気もするし、無い気もする。話し合うったって何を話し合うんだ。不明瞭な部分をはっきりさせる? それは良策か? わからない。今は、何も知らなかった自分のふりをしていたい。今日一日ですでに遠い過去になってしまった、何も知らなかった自分の。
 ファミレスで合流したおれと民也はそこで偶然にも信哉達三人と遭遇したのだ。信哉の髪色は遠くからでもすぐに分かる。さらにそこだけ空気が違うのだ。最初にこちらに気づいたのはひめかわくんだった。
「あっ、お久しぶりです!」。
 相変わらず人懐こい彼はおれと民也を当然のようにシートに座らせ、「ランチタイム間に合って良かったですねっ」とメニューを差し出してきた。オージくんを見ると無言で会釈してきた。なかなか慣れてはくれないが猫のような姿があいかわらずで目尻が下がるのをどうしようもない。一方の民也は信哉の姿を見つけて以来、呼吸が荒くなってきていたので落ち着くよう促した。当人にはすでに気づかれていそうだが、咎められずに済んだ。内心どう思われてるかまでは恐くて考えを及ばせられないのが事実。
 信哉とは図書室や大学で会うがひめかわくんとオージくんとは夏ぶりの再会ということになる。受験生のオージくんは以前より髪が短くなっていた。身長も少し伸びた気がする。が、それでも小さい方であることに変わりはないから身長の話題には触れないでおこうと思った。いやもしかすると背筋が伸びたのかも知れない。オージくんは成長することを望んでいるように見えた。理由や経緯は分からないけど、そういうふうに見受けられた。そしてひめかわくんは輝いていた。なんか、もう、そうとしか表現できない。命の輝きというか若さというか、とにかくきらきらしていた。平和とか光とか愛とか、この世の偉大な要素すべて携えたような青年だった。おれはもし生まれ変わるとしたらひめかわくんのようになりたい。外見にも内面にもコンプレックスだらけのおれは、悩み事もコンプレックスも無いように見えるひめかわくんを、年下だけど尊敬する。
(毎日楽しそうだよなあ、ひめかわくんは)。
 おれには見つめることを許さなかった信哉が、ひめかわくんの視線にオージくんを晒すことにはさほど抵抗を抱いていないことは、たぶん、遮られたおれだけが気づいてる。
(さすがだよなあ、ひめかわくんは)。
 妙に感心しているところへ料理が運ばれてくる。
 ハンバーグの香りで己の空腹を知る。そういえば朝から何も食べていない。あ、予想外のサイダーは飲んだか。
「あっ、好き嫌いしたらいけないんだっ」。
 ひめかわくんの声がしてそちらを見ると、オージくんが皿の端に避けたのはブロッコリーだ。
「好き嫌いしてると大きくなれないんだよ、オージっ」。
 注意するひめかわくんの言葉に、
「いいさ、大きくなんかならなくても。オージは生きてるだけで良いんだ」。
 さらりとすごいことを云ってのけ、ブロッコリーをフォークで刺したのは信哉だ。
「でもな、バランスは大切だ」と一個だけ残すあたり、ひめかわくんも納得している。信哉の云うことならば素直に聞くオージくんはおとなしくブロッコリーを咀嚼している。
「だとさ」。
 おれは隣でブロッコリーを仕分けていた民也に声を掛ける。
「お前はちゃんと食えよ。もらってやんねえから」。
「ひどっ。今日の葉月くん、冷たっ」。
「いつもだろ」。
「いや、いつもよりとげとげしい」。
 そうだ。そもそも今日は民也に打ち明けるつもりで食事に誘ったんだ。それが予想外の再会があり、とげとげしさだけが残った点、おれは民也に申し訳無く思うべきなのだろうが、何故か申し訳無さが湧いてこないのは、それほど民也が気を遣ってくれているからなのかも知れない、という考え方をできてしまう今日のおれはしおらしい。
「そういや信哉とオージくんって兄弟なんだろ? でも全然似てないね」。
 うおいっ。
 おれは思わず民也をどついた。
「何だよ、話題に事欠いてるから気になったこと云っただけじゃん」。
「お、お前、人には人の事情ってもんがあってだな」、おれがしどろもどろする理由は二つ。一つ、この兄弟が異父兄弟であることを以前信哉から聞いておれは(おれだけは?)知っている。二つ、今のおれに家族ネタがつらい。
「父親が違うからな」。
 いつかのおれへの返事と同じことを信哉は繰り返す。気を悪くした様子は無い。オージくんは信哉を見上げた後、おれを見て、小さく頷いた。
「あ、だよねえ。やっぱりねえ。髪の色とか明らかに違うし。他人同士みたい」
 のん気な民也の隣でおれの顔は引き攣っているだろう。悪気が無いからかえって恐ろしい。
「でも、兄弟って、良いよね」。
 おれは思わず顔を上げる。そっか。おれもそうだけど、民也も、一人っ子なんだもんな。
 信哉はおれと民也の顔を比較するみたいに交互に見ていたけれど、ふいと肩を竦めて云った。
「ああ、兄弟ってのは良いもんだぞ」。
 お、解けた。おれは思った。信哉の警戒が、ほろっと解けた。
「実はもう一人、弟がいるんだが」。
「えっ、信哉達、三人兄弟なんだ。かっこいい? やっぱ超かっこいいでしょ? それとも美人系?」。
 どこに喰らいつく、民也よ。
「いや、あいつはクソだ」。
 信哉の真面目な返答に吹き出したのはひめかわくんだった。
「嘘ですよ。光さんは、かっこいいです。うちの高校にもファンがいるくらいで。あ、ファンといえば信哉さんの人気も凄まじかったですけど。バレンタインの日とか、チョコレートが、ぶわあっと。サンタクロースみたいに。ね、オージ、すごかったねっ」。
 ひめかわくんがことさらチョコレートを強調するとオージくんが小さく頷く。
「おれの在学中、オージには、苦労をかけたな」。
 信哉が心から申し訳無さそうな表情を浮かべるとオージくんが首を横に振った。
「お……おれも、信哉さんには、たくさん迷惑かけたし、おれのほうが……すごく」。
 ひめかわくん相手の時と違ってえらく素直なオージくんの頬は少し赤い。苦手なブロッコリーを飲み込んだ後だからなんだろう。
「そう云うひめかわくんだってチョコレートがサンタクロースだろ、どうせ」。
「お、おれは、そんなにっ。あっ、大丈夫だから、オージ、ごめんねっ」。
「は? ……どうしておれに謝んだよ」。
 半目になったオージくんから目を離してひめかわくんはおれ越しに「民也さんこそ多いんでしょっ」と何故か語気を荒げる。
(うわあ、この会話、おれ、入れねえわあ……つか消えたい)。
 消えることができないので空気になることに徹したおれに信哉が話しかけてくる。
「葉月は?」。
「お、おれは……こんな見た目だからそんなに多くないっていうか……」。
 っていうか母親から以外で貰ったことないんですけど。
 こんなところで見栄を張っても仕方無いとは思うものの、ゼロとイチの差ってのはイチとニの差より大きいことを知っているおれはやはり見栄を張ってしまう。おそるそおそる見上げると信哉が不可解そうにしていた。
「兄か、弟か?」。
「あ、そっち!」。
「……どっちだ」。
「いや、あの。ごめん。別の話題かと思ってて。おれと民也は、兄弟いない」。
「あ、おれんとこもですよ」。
 ひめかわくんが「同じ、同じ」と嬉しそうに自分を指す。
「えええ。いるっぽいけどな。男兄弟」。
 民也の発言におれも同意して頷く。
「はい、いますよ」。
「どっち!」。
「血は繋がってないんですけど、親の再婚で兄ちゃんができました! いえい!」。
 おおなるほど。おれと民也は意を得て頷く。
「途中から兄貴面が入ってくるってどんな感じ? 喧嘩とかすんの?」。
「まあ、少しは。でも湊が、あ、おれの兄のことですけど、湊が落ち着いてるんでほとんど引いてくれてたっていうのを最近気づきました」。
「大人なんだねえ、湊くんってのは」。
 その言葉に大きく頷いたのはひめかわくんよりもむしろオージくんだった。
「うん。湊さんは、大人だ。うん」。
 くっきりはっきりそこだけ繰り返さないでなんか傷つくっ、とひめかわくんがしょげるが三秒後にはもう生気を取り戻し「自慢の兄ですっ」と胸を張る。
「ふうん。そっか。ひめかわくんみたいな弟がいたらなんか楽しそうだなあ」。
 民也がしみじみと云う。
「オージくんと信哉と、えと、光、だっけ? 三人も親の再婚で兄弟に?」。
 うおおおい民也っ。
 おれはひょいひょい爆弾を投下してくれる隣人にひやひやしながらも好奇心には打ち勝てず、白飯を口に運ぶ信哉の顔色を盗み見た。
 絶対アウトだろ……。
 だがおれの心配をよそに信哉は平然と味噌汁の椀を持ち上げる。和と洋のコラボレーション! 民也の「今日のおれ、あえて空気読みません」っぷりに動揺したおれは、信哉と味噌汁という組み合わせに感動してみる。逃げだ。これは。
「いや、おれと光は愛人の子。オージだけが本家だ」。
 本家。まさかオージくんは本当に王子だったんでは……。
 耳慣れない言葉におれの妄想は跳躍するが、言葉のあやだろう。
 まだ何か質問しかねない民也の袖をテーブルの下で引いたおれが「おい、もう」とたしなめようとした時、オージくんが口を開いた。
「……でも、おれと光さんと信哉さんは、本当に、家族、だから」。
 信哉の動きが止まる。
 民也も止まる。
 おれも止まる。
 信哉の手から箸が落ちる。ぽとっ。
 ひめかわくんだけは皿のコーンをつかまえることに熱中していた。
「……信哉さん?」。
 オージくんの黒い、真っ黒い、瞳の中にある底知れない虚しさのような鈍い輝きは、色調こそ違うものの信哉の瞳の底にも確かに存在していて、その二つは同じものに向き合ったことにより植え付けられた、一生消えることのない絆に今はなっていて、だからおれが何かを羨んだり、例えばこの兄弟のことや、ひめかわくんの気楽さや、輝きっぷりを羨んでも、おれの知らないところで彼らは絶対何かに泣いたし憤ったし苦しんだってことは当たり前で、でも、そのうわべだけに安易に魅了された自分の迂闊さに、おれは、いっそ人間として人間の希望を見た気がする。どう足掻いても覆せないものも、消せないものも、ずっと持っていかなきゃなんないけど、それでも、騙されてくれるやつがいる。新しく、良い面だけを見て、羨んだり、欲しがったりしてくれるやつがいる。彼らに引け目を感じたおれみたいに。そういうことが起こりうるなら、全然生きてける、死なない、てか全然余裕じゃん何おれ、って思えたんだ。そしてこの考え方は、おれが今日公園で一人で採択しようとしていた、存在を宇宙規模に考えることで悩みを小さくとらえてしまおうとする方法よりも、ずっと、前向きで、実用的で、何よりおれに沿っているように感じたんだ。
 このことだけでもおれは密かに勇気づけられていたのに、オージくんの視線を受け止めた信哉が、びっくりするほど簡単にあの仏頂面を崩して、びっくりするほど綺麗に笑って、
「……ああ。違いないな、オージ」、
 オージくんの頬に唇を落とした時、おれはいっそ恍惚として、

びゃあああああっ!

 ひめかわくんの突発的絶叫におれと民也は飛び上がる。
「ど、どうした、ひめっ」。
 正直、おれも民也も信哉のあまりにさりげないチッスには度肝を抜かれる通り越して「うわあ、すっげ自然だわあ……絵にはなるけど参考にはなんねえわあ……」なんて二人して感心していたのだけど、ついさっきまでコーンを摘むことに集中力を注いでいたひめかわくんだけががばっと勢い良く身を乗り出して、かと思うとナメタケのようにぬめぬめと窓際に身を寄せぬめぬめし始めた時には、ああそうかそういう反応もあるよな、と同情さえ覚えたんだった。真冬のファミレスに桃色ばらまくくらいにオージくんのこと大好きだんな、そうもなるか、そうもなるよな。うんうん。仕方が無い。
「ソースが付いていたんだから仕方無い」。
 顔を上げた信哉は明らかに挑発と分かる目でひめかわくんを見下ろしている。もしかするとこの方はどエスもドエスのすごい嗜虐思考の持ち主なんでは。
 ぞわっ。
 おれの生物としての本能が何か感じたのか脇腹にまで鳥肌が立つ。
 ぎゅっと目を瞑ったおれが意を決し改めて見上げると、信哉の口元は微笑んでいたがその目は据わっていた。ここはシベリアかと問いたい。
「そ、それならソースおれもここに付けますからっ。その口でおれにもチュウしてくださいっ」。
 朦朧としたひめかわくんがフォークを頬にぺたぺた当て始める。その目が、クレヨンで描いたぐるぐるみたいに潤んでいる。
「そしたらオージからチュウされたことになりますよねっ。早く、信哉さん、ここっ」。
「ひめかわくんよ、それは倒錯だ」。
 おれは久々にまともなつっこみができた気がする。
 あ、元気出たかも。
 
 救世主のような三人と別れた帰り道、民也と歩きながら、その時世界は桃色に見えていた。見えていたばかりでなく、夕焼けが実にピンクだった。洋服や持ち物はモノトーンを好む我ながら、ピンクって色も悪くない、と心から思って歩いていた。
「けどびっくりしたなあ。あの後、葉月が月山のこと告白した時。タナカさんっての、じいちゃんなんだってな」。
 そう、あの後、おれはなんだか聞いて欲しくなって、タナカさんのこと、月山のこと、月山がタナカさんに云いつけられておれの前から姿を消していたこと、それを今日知って驚いたこと、頭が真っ白になったこと、でも体の中は黒く、ぷすぷすしていた感触のあったことや、だけどこれまでにもタナカさんや月山からは事実をにおわせるようなヒントが転がり出ていたこと、気づかなかったおれはすげえ鈍感で、鈍感だからこそこれからも平気で生きていけて、てかこんなことは全然生死を左右しない、おれは明日もきっとバイトに行けるし、月山が泊まりに来たいと云えば受け容れてやるくらいの心構えはある、っていうようなことを、実は口にしながらその場その場で決めていった。でも後悔なんかしてない。ひめかわくんとこや、オージくんと信哉達のとこみたいに、家族っていろんな形があって良いし、おれと民也だって家族みたいなもんだし、知らないでいた間にできていたことを知った途端にやめたり変えたり嫌悪したり恥じたり憂えたりすることはないんだってことを、分かった気がする。気持ちはすぐに追いつかないかもしれなくて、ぎこちない日が続くかも知れないけど、頭で分かっていることがあるなら、噛み合わなさにぎくしゃくしたりしながらも、なんとかなるんじゃないかなっと思ったんだった。
「まあ、いいんじゃない。いざとなればおれんとこに嫁いでくるってのもアリだし。選択肢結構あるって、今のお前」。
「はあ、どうも」。
「う……素直に礼を云われるとそれはそれで困る」。
「はっ、民也らしくねえな」。
 民也は、優しい。
「はいはいどーせおれはひねくれたお前のほうが好きですよー」と、これまたおれが元気に反論できる云い方をしてくるものだから望まれたようにしてやるんだ、望んだように。
「だけどさ、信哉ってほんと過保護だよなあ。あー、羨ましい」。
「何。束縛されたいわけ」。
「まあ、ちょっとはねえ」。
 おれはぽたぽた歩く。
 影が伸びる。
 ピンクい影。
 明日に向かって長く伸びるよ。
「……分かった。努力、してみる」。
「え、まじ?」。
 おれの背後で民也が息を呑む。
 う。
 やべえ。
 何云ってんだおれは。
 明日になれば明日のおれは今日のおれを殺したいほど憎むだろう。
 桃色なんかに騙されやがって、と。
 にくむだろう。



「う」。
「お」。
 アパートの前に辿り着いたおれと民也は揃って足を止めた。玄関前で誰かが蹲っている。月山だ。傍らには荷物の詰まったボストンバッグがあるがまだ出発していなかったか。そしてその隣にソーソーくん。と、琥珀さん。
「めそめそすんなアル。葉月は戻って来るヨ!」。
「戻ってきちゃだめえ……だって葉月くんはおれを嫌ってるう……」。
「じゃあさっさとどっか避難するアル。もうこれ何回繰り返したやり取りアルか!」。
「でも最後に一目だけでも葉月くんに会いたいいい……」。
「みゃううう……」。
「ほら、琥珀ももらい泣きするアルから、めそめそすんなってアル。いい加減にしないと殴るアルよ?」。
 ちくしょう。
 琥珀さんを困らせやがって、あの、男。
 あと、ソーソーくん。その男、ソーソーくんの手を痛める価値も無いよ。
「どうするよ葉月、あれ」。
 民也としては、憎き(?)月山がめそめそしている風景はさぞかし胸踊るだろう。が、それでも民也なりに抑えているつもりらしい。笑いを堪えた口元が不自然に歪んでいる。余計やなやつになってるぞ。
「ったく……どうするもこうするも」。
「葉月くんの、ご決断は?」。
 おれはぎゅっと眉間に力を込め、思いっきり不機嫌な表情を作る。
「家に入れてやるしかねえだろ、あのままじゃ近所迷惑なんだから」。
「……ぶっ。素直じゃないねえ」。
 歩き出したおれの背後で民也が吹き出すのが聞こえた。
 ああ、話し合うことがいっぱいある。積もる話がいっぱいある。
 その前に、腹減った。
「民也。お前、一緒にうちに来てカレー作れ。材料あるから」。
「あいあい」。
「……ほんといいやつだな」。
「何か云った?」。
「云わねえ」。

 それからつかつか歩んでいって、おれは乱暴に月山の名前を呼ぶ。
 月山がはっと顔を上げる。
 いつもと全然違ってその顔はぐしゃぐしゃに汚くて、おれは、あの時おれを公園に迎えに来てくれた若き日の月山の気持ちを、少し知ることができた気になるんだ。