バイトも用事も無いある日のこと、おれは実家の玄関前に立ち尽くしていた。
 ドアの横にある、音符のマークが付いたチャイム。自分の家の壁に付いているこんなものをまじまじと眺めたのは初めてだ。押すべきか押さざるべきか。そんなことで迷うのも初めてだ。
 実家なのだから堂々と入っていけば良い。押すか否か迷う必要性すら無い。そうだ、何を躊躇することがある。ここはずっとおれの家だったし、今だってそうだ。分かってる。間違ってない。正当。問題無し。
 ・・・・・・。
 それなのにおれは迷っている。一人暮らしのアパートに帰ってしまおうか、とも思う。そんなことをしたら、久々の休日、炎天下の中、何しにここまで来たのか分からなくなるけど。
 蝉が飛んできて月山と書かれた表札に止まった。驚くほど大きい。見上げていると、ジジジ、と鳴き出した。ボリュームはじょじょに上がってくる。
 ジジジジジ、ジジジジリリリリ・・・・・・。
 その鳴き声は辺りの空気を震わせるほどに大きい。いつまでも頭上でやられたらかなわない。思い切ってドアに手を掛けたその時、おれは後ろから呼ばれる。
「あ、葉月くん」。
 振り返ると両手にスーパーのビニール袋を提げた月山が立っていた。英字がプリントされた黒地のティーシャツに緩めのデニム。髪の毛はもとが明るい色をしている。瞳と同じ茶色だ。どちらも真っ黒のおれとは違う。はねた毛先はわざとか寝癖か。あまりにアシンメトリーだから寝癖なんだろう。笑うと目が細くなる。月山は歯並びまでもが整っていた。
 まさに模範的。
 笑顔を笑顔と呼ぶための試験があるのなら間違いなく月山は一発合格するだろう。
「葉月くん、おかえり」
「・・・・・・ん、ああ。ただいま」
 月山の外見は若々しい。何も知らない人が相手ならば年の離れた兄弟と紹介しても十分に通じそうだ。下手するとおれのほうが「兄」だと思われるかも知れない。
 おれには月山のような、黙っていても周囲に存在を認識させるような明るさが無い。
 小学校からの幼なじみである友人の民也には「葉月って時代で云うと昭和だよな」と云われた。人の顔を時代にあてはめるなと抗議した。まあ、云いたいことは分からないでも無い。
 おれの顔は印象が薄い。目は細いし目つきは悪いしその上、愛想笑いをほとんどしないもんだから、冷めた性格だと思われがちだ。まあ、そこはだいたい合ってるけど。
 肌もあまり焼けない。本は好きだけど部屋にこもってばかりいるわけじゃない。基本的な移動手段は自転車だし大学近くの野球場で高校生の練習試合を眺めるのも好きだ。それなのに焼けない。小学生だった頃は二学期の始業式で自分だけ色白であるのがなんだか恥ずかしくて、夏休みの間中、とにかく外を歩きまくった記憶がある。特に用が無くても外へ。太陽が照れば外へ。気温が三十五度を越える真昼に帽子もかぶらなかった夜には体調を崩した。
 女子からは羨ましがられることもあるが、持ち主自身がメリットを実感できない。確かにおれが女だったら、焼いても焼けない肌も寝癖のつかない黒髪もひそかな自慢くらいになったかも知れない。だがおれは男だ。民也に「薄幸の佳人」呼ばわりされれば苛立ちしか感じない。月山だって同じだ。息子に対して「美人になった」は無いだろう。あの発言は後からじわじわ効いてきた。第一おれは美しくなんかない。無愛想な三白眼だ。民也はこうも云った。「葉月は猫だね、猫。飼い慣らされない猫って顔してる」。どんな顔だ。調子の良い時は「超絶おれのタイプ」とまで云われる。そんな時おれは大抵、民也の、自らの容貌に関してはほとんど苦労を知らないであろう顔に据わった視線を送る。それで大抵は黙らせることができる。月山にはまだ、試したことが無い。

「なんとなく葉月くんが帰ってくるんじゃないかなって思って、買い込んじゃった。えへっ」
 月山はそう云ってビニール袋を軽く持ち上げて見せる。
「・・・・・・帰って来なかったら腐ってただろうな」
「いや意地でも食べたと思う。寂しいじゃん。捨てるとか。葉月くんにフラれたみたいで」
 遠慮せず入って入って、と月山に促され、おれの家だけど、と呟いてみる。どう都合よく受け取ったか、月山は「そうだね。ここは葉月くんの家だ」と、にこにこしている。「同時に、ぼくの家でもある」と、にこにこしている。
 玄関に入ると、想像していた以上に部屋の中が片付いていることが分かった。ごみ屋敷か廃墟にでも成り果てた姿を想像していた。実はバッグにゴム手袋を忍ばせてきた。使う場面は無さそうだ。今のところ。それともこいつ、もしかして一人のほうがかえって自立できるタイプだったのか。あの置き手紙は単なる嫌がらせ。いや、あるいは。
「女、できた?」
 おれの言葉に月山は「あはは、そうきた」と笑った。笑って、おしまい。結局どっちなのか分からない。特に興味も無くて追及しなかった。
「仕事、ちゃんと探してるか」
 廊下、トイレ、お風呂、リビング。一通りチェックしてみたがどこもかしこも手入れが行き届いている。狐につままれたような気分だ。
「まあまあ、葉月くん。長旅ご苦労様。お茶でも一杯」
 電車を乗り継いでやって来たおれのことを労わるように月山はリビングのソファへ誘った。
 ソファ。
 ん・・・・・・ソファ?
「て、おい。金はどうした」
 革張り。
 おれには特に家具を見る目があるわけじゃない。それでも、この座り心地からするに安くはない買い物だったろう。そもそも働いていないこの男のどこにソファを買うだけの経済力が残っていたというのか。
「・・・・・・まさか、変なことに手染めたりしてねえだろうな・・・・・・」
 おれは頭を抱える。キッチンから「あっはは、そうきた」と笑い声が聞こえてくる。どこまでも軽く。どこまでも能天気。四十を目前に無職の父。就職活動に励んでいる様子も見られない。今の生活に反省が見られない。これで金癖が悪ければ救いようが無い。救うつもりもさらさら無いけど。
「心配してくれてありがとう。葉月くんは優しいね」
「心配とかじゃなく、て・・・・・・?」
 前にコップが置かれた。コップの中身に気づいたおれは、はっとした。月山がおれを見下ろして「ふふん」と得意げに笑っていたように見えた。女なら。女なら今の表情にどきっとしたりするのかも知れないが、仮にも月山だ。男だ。ニートだ。父親だ。ぞわっとした。以上。
「お金の心配ならしなくて良いよ。こう見えてお金には困っていないからな。もっとも、葉月くんからの愛には飢えてるかな、っと!」
 へえ、ふうん、そうなんだ。
 大学生になったおれはスルースキルを取得済みだ。

 死にゆく蝉の声。
 夏の終わりのかくれんぼ。
 ゾウさんのお腹に隠れていたんだ。一緒に遊んでいた子たちが次々と見つけられていく。おれはなかなか見つからないことに得意になっていた。おれの選んだこの場所は誰からも見つからないんだぞ。だけどそんな気持ちも次第に小さく萎んでいった。見つかった子たちが、おしゃべりしながら笑っていた。何を話しているんだろう。早くおれを見つけろよ。やがて日が暮れて、母親たちが迎えに来た。一人、また一人、減っていく。鬼の子も母親に連れられて行った。おれはゾウさんのお腹を上っていった。誰もいなくなった公園の真ん中で、独り占めした長い滑り台を滑った。真ん中にいるのにおれは一人ぼっちだった。真ん中にいるのに誰もおれを見つけられなかった。おれは母さんを待った。母さんを待って何度も滑り台を滑った。さながら修行だった。それでも誰も来なかった。おれは泣いていた。顔をぐしゃぐしゃにして、声を出さずに泣いていた。その時だった。「葉月くん」。ようやく誰かがおれの名前を呼んだ。「おかあさん?」。おれは顔を上げた。公園の入口に人が立っていた。涙で視界がぼやけて見えなかった。影の招待は母さんじゃなかった。
「はーづーきーくんっ。みいつけたっ」。
 月山だった。近所にはおれたちを年の離れた兄弟だと思っている老夫婦がいた。分からないでもなかった。月山は今だって二十代後半くらいにしか見えない。当時はもっと若かった。
「おうちに着くまで、これ飲んでような」。
 月山はおれの前にしゃがむと魔法瓶を傾けた。どうしておれが咽喉を乾かしているだろうと思ったのだろう。そしてどうしてここにいることが分かったのだろう。あの頃は、そんなこと、考えもしなかったけど。
 差し出されたコップを受け取ると、涙が抜けて干乾びていた体に甘い潤いが溢れた。

 テーブルに置かれたコップを手に取る。斜め上から月山の視線を感じる。気づかないふりをした。一気に飲み干す。一番大きな氷が、こつん、と前歯に当たって、口の端からカルピスが零れた。
「おお、いい飲みっぷり」
 月山が拍手する。おれは手の甲で口元をぬぐった。
「今、思い出した。あんたにも得意料理、あったんだっけ」
「まあ、カルピスには失敗が無いからねえ」
 月山が笑う。それは、あの日とまったく同じ笑顔だった。おれは四才。こいつが二十四才の頃の事だ。もう、十五年も前の昔話。よくおれはそれを覚えていたな、と思った。たった今思い出すまで、ちゃんとどこかに隠れてたんだろう。あの日のおれみたいに。そして、いつかは見つかってしまう。月山が見つけた、おれみたいに。
「・・・・・・葉月くん、味噌汁」
「あ?」
「味噌汁作ってよ」
「ああん?」
「作って・・・・・・くださいな?」
「よし」。おれは無言で頷くとソファから立ち上がった。後ろで月山のはしゃぐ声が聞こえる。自分で承諾しておきながらなんだけど、悔しい。ああ、くやしい。
 ただ、あの日の借りは返さないとな。
 おれは今、都合の良いいいわけを思いついたんだ。カルピスの恩返しだ。
「具は何が良いんだ?」
「オーソドックスに豆腐とわかめ。買ってきてる」
 月山は箸を握って食卓についた。
「そんなすぐは出てこないから」
「待ってる間が楽しいんだよ」
「あ、そう」
「うん、そ」
 なんだかんだで月山の思い通りにおれと世界は回ってる。
 ような気がしていたら味噌汁が煮立ってしまった。
 自分自身を裏切るかのように、月山のために味噌汁を作ってる時間は短かった。