二階建てアパートの住人は学生が多い。中でも隣に住むソーソーくんとは入学以来の付き合いだ。ソーソーくんは留学生だ。髪が長い。背中の真ん中まである。それを一つに束ねている。後ろから見たらキレイなオネエサンだ。友人の民也はおれとソーソーくんがスーパーで一緒に買い物しているところを見かけた翌日の授業中「紹介しろよ」と小腹をぐりぐり押してきた。念のため「男だけど」と前置きして二人を会わせた。いつもは愛想の良いソーソーくんは民也に対して素っ気無かった。いきなり会わせたのがまずかったのだろうか。その日はおれとソーソーくんの二人で素麺を食べる予定だった。ソーソーくんはすごい勢いで素麺を食べた。空腹に耐えかねた子犬みたいだった。黒い目が時々民也を睨みつけた。そんな目をすることもあるのだと初めて知った。おれはそんな目で見上げられたことは一度も無い。一方の民也はソーソーくんの視線に困ったような顔をしていた。その視線が落ち着かなかった。顔色がいつもと違って見えた。
 もうこの二人が会うことは無いだろう。
 生姜の浮いた汁を見ながらおれは、確信していた。

 その夜、コンビニに行くついでに民也と歩いた。ソーソーくんは素麺の後片付けをするなり試験勉強があるとかで自室へ戻ってしまっていた。試験勉強というのが口実だなとは分かったけれど勉強はしているだろう。ソーソーくんは学生なら誰もが見習うべき勤勉家だ。
「今日、どうだった?」。
 半歩遅れの民也の影に語りかけるようにおれは口を開いた。
 影でならおれは民也より長身になれる。小学校からの幼馴染だが民也がおれより低かったことは無い。これからも無さそうだ。
「・・・・・・いいかも、と思った」。
 おれは思わず民也を見上げた。
 その横顔が赤く見えるのは夕陽が大きいからというそれだけじゃない。第一、逆光だ。
 おれは民也の予想外の反応に思わず首を傾げる。民也と一緒にいるとおれはしょっちゅう首を傾げる。そういった意味でこいつは予想を裏切っても期待を裏切らない。
「はあ、何て?」。
「うん、いいかも」。
 民也はどうやら本気だった。
 コンビニに着くと民也も一緒に入った。おれは雑誌とジュースを買った。民也はフライドチキンを買った。外に出ると早速かじりついた。そのかじりつき方が空腹に耐えかねた狼みたいだった。だけど売ってある肉しか食べることができない、自分では狩りができない、どこか間抜けな狼だ。
「男、だけど」。
 おれは念のために念を押す。
 民也は「うん、知ってる」と頷いた。
 まあ、いいか。

「葉月の父親ってどんな男アルか」
 ベタだ。
 そうつっこみたくなる気持ちにはもう慣れた。ソーソーくんのような語尾を使う人間をおれは現実で初めて見た。漫画等ではたまに見かけるけど。ソーソーくんは「方言みたいなものアル」と云っていた。そんなものなのだろうか。だけどおれはソーソーくんがおれ以外の人間、たとえばアパートの大家さんだとか、相手には普通に話しているところを何度も目撃している。どうやらおれに対してだけ発動する「方言」らしい。特に支障や害は無いし、何だかかわいいのでそのままにさせておく。ちなみに民也に云うと彼は「えっ何それすげえ羨ましいんだけど! うっわ、おれもソーソーくんにアルアル云われてえ!」と叫んでいた。ソーソーくんに会ってからというもの民也は発狂しやすくなった。やたらとおれの部屋で勉強したがるようにもなった。隣人の気配を察知しようと耳を済ませるからおれの勉強ははかどる。一方の民也の手は止まりっぱなしだ。云わずもがな。
 さてさて民也が念願の「アル」を使ってもらえる日は来るのだろうか。
 そういえば素麺会でもソーソーくんは普通に喋っていた。イントネーションはネイティブのようにいかないものの「方言」は一度も出てこなかった。
 そんなこんなで民也は最近おれにライバル意識を持っている。そんなんじゃ、絶対、ないのに。
「うーん。どんな男って、そうだな、一言で云えばバカかな」
「父親に向かってバカ云うなアル」
「でもあいつ父親って気がしないんだよね」
 ソーソーくんの部屋にはクーラーが無い。扇風機から吹いてくる風がソーソーくんの髪の毛をなびかせた。確かに綺麗な髪だ。顔立ちが涼やかなことも関係あるのだろうけど、長くても全然うっとうしくない。
 ふと、人を恋に落とすものって何だろうかと思う。民也を見ているとうざい半面、羨ましくもある。望みの少ないことにも夢中になれることは素晴らしいことだ。駆り立てるものは何だろう。
 それから、人を恋に落とさせないことって何だろうかとも思う。おれは民也がソーソーくんに一目惚れしたことを察知した時「男だけど」と念を押した。一度以上押した。あの行為は何だったのだろう。あの警告の根拠は何だったのだろう。男同士だと不都合だろうと余計な世話を焼いたのだろうか。真っ先に性別を意識するおれは不純なんだろうか。いや、違う。常識的に考えて、だ。だけどその常識って誰のものだろう。どこに明記されているんだろう。数だろうか。数で決まるんだろうか。仮に明文されていたとして、それに従う必要は無いのに。
「・・・・・・何じろじろ見てるアル」
 ソーソーくんが不審がっている。
 おれは慌てて首を横に振った。
「民也のことどう思う?」
「急に何アルか。民也ってあの、あいつだよな。素麺のつゆを飲み干すやつだよな」
「うん」
「あいつ、ちょっときらいアル」
「かっこいいよ? 優しいし面白いし、女の子からは結構人気だったりするんだけど」
 嘘じゃない。
 民也は昔からモテた。成績が良いわけじゃない。運動も得意じゃない。どちらかと云えばおれのほうが得意だったくらいだ。おれだってそんなに自慢できるほどじゃないけど。
 それでも民也はモテた。
 おれはその理由を真剣に分析してみたことがある。時代は満ち足りたものよりも欠けたものを求め始めたのか、とか、民也の場合に限りその容姿が手伝って成績不良なのも運動オンチなのも「謙遜」として捕らえられているのか、あるいは顔か。あの顔か。幼馴染で友人のおれが云うと欲目だとか麻痺だとか思われるかも知れないが民也はかっこいい。どうして自分がああいう顔に産まれなかったか運命を呪った時期さえある。
「おれのことじろじろ見てくるアル。変態アル」
 しかしソーソーくんは容赦ない。おれは民也のことを悪く云う人間にあまり出会ったことが無かったからソーソーくんの意見は新鮮だった。
「じゃあ、おれも変態?」
「え?」
「さっきソーソーくんにじろじろ見るなって怒られた」
「・・・・・・怒ったわけではないアル」
「おれ、変態?」
「う・・・・・・」
「ねえ、おれ変態かな?」
 ねえおれ変態、と訊ねているおれは傍から見ればまさしく変態だろう。
 ソーソーくんが珍しく口ごもっている。少し俯いた顔が赤い。
 やばい。おかしな状況を作り出してしまった。
 おれがそのことに気づいて、さてどうしようか、と思っているところへ、ベランダから琥珀さんがやって来た。
「あ、琥珀」
 ソーソーくんの表情がやわらぐ。さすが琥珀さん。
「今日も麗しいね」
 おれの気障な台詞にも琥珀さんは動じなかった。おれとソーソーくんの間に入ってくると寝転がってお腹を見せる。ソーソーくんが撫でる。琥珀さんは気持ち良さそうに目を細めた。この場に民也がいたら猫耳を付けて寝転がりかねない。
「どこ行って来たの」
 ソーソーくんは琥珀さんにも「方言」を使わない。やっぱりあれはおれだけに向けられた、何らかのメッセージらしい。
「琥珀には親がいないアル」
 語尾でそれがおれに向けられた台詞だと知る。
 ソーソーくんの視線は相変わらず琥珀さんの白い腹にあり、指先では額の真ん中をさするように撫でている。
「琥珀はおれと同じアル」
 ソーソーくんの家族。
 離れた場所で暮らしてる彼らのことをおれは何も知らない。何と呼び合うのか。どんな人達なのか。何をしているのか。何も。
「琥珀はおれの家族アル」
 もしソーソーくんが日本へ来なかったら、琥珀には名前も無かった。そしてソーソーくんが家族と呼べる存在は何も無かった。
 おれは一人と一匹の、こじつけのような関係を自分のもののように大切に思う。
「だから、父親のことバカって云うなアル」
「うん。・・・・・・ごめん」
 おれは月山にという気持ちではなくソーソーくんに対して謝った。
「琥珀はきっとおれより早く死ぬアル」
 ソーソーくんが淡々と云う。寿命で云えばそうなのだろうと思う。琥珀さんの寿命はおれやソーソーくんの何分の一だろう。少なくとも七十年生きる猫とは見たことも聞いたこともない。
「おれは、そんなやつにバカって云わないアル」
 うう。おれは項垂れた。
 琥珀さんが体を返しておれの手を舐めた。彼女は本当に優しい。適度に優しい。闇雲じゃない。ココが琥珀さんがおれにとって史上最強理想の猫様たるポイントだ。
「父親と葉月は似てるアルか」
「いや、おれはどっちかっていうと母さん似らしいから。目の形とか髪の色とかね」
「ふうん。今度アパートに連れて来いアル」
 ソーソーくんは時々、命令口調になる。
「たまに勝手に来てるみたいだけどね」
「そうアルか?」
「こないだも早朝、部屋の鍵が開いててさ、あいつ・・・・・・月山からの置手紙があった。合鍵渡した記憶は無いから、自分の掛け忘れだと思うんだけど・・・・・・どうもそうとも違う気がしてる・・・・・・だってこれが最初じゃない。以前にもこんなことあったしな」
 おれは急に黙りこくったソーソーくんの顔を覗き込んだ。
「まさか」「あいつが」「いやでも兄とか云ってたアル」などと気になるワードをぶつぶつ呟いている。
「ソーソーくん。もしかして心当たりがあるのかな?」
「お、おれは悪くないアル! 巧妙だったアル!」
「心当たりのあることは否定しなかったね。悪いか悪くないかはおれが判断するよ?」
 さあ、と慣れない笑顔を浮かべるとソーソーくんが身を強張らせたのが分かった。
 琥珀さんが宥めるようにおれの膝に乗る。
(あ、くそっ、琥珀さんかわいい・・・・・)。
 その隙にソーソーくんは「コンビニ!」と逃げた。
 十分後、ソーソーくんが買ってきたカキ氷アイスを一緒に食べた。琥珀さんも膝の上に乗ってぺろぺろ舐めた。至福だった。おれは明日死ぬのかもと思った。

 ソーソーくんは琥珀さんを家族だと呼んだ。
 おれが月山を家族と呼ぶのよりずっと自然に。
 そのことが少し羨ましい夏の夕暮れだった。
 どこからか太鼓の音が聞こえてくる。