四百字詰め原稿用紙を前にしておれは腕組みしていた。
 テーマは「わたしのかぞく」。
 周囲から筆記の音が聞こえてくる。みんな家族について何を書いているんだろう。隣の生徒の書きかけを覗き込むと「ぼくは休みの日にお父さんと、」という部分が見えた。そうか、休日のことを書けば良いのか。おれは腕組みを解くと机の上に転がしたままのシャーペンを握り締めた。ところが困ったことに、さて休日のこと、と待ってみても特に書くような思い出が出てこない。母さんはどこぞへ出かけて家に居ないことが多い。おれは図書館で一人、本を読むのが常だ。図書館は良い。何が良いかって一人でいることが当たり前なところが良い。もちろん、連れ立ってくる人もある。親子や友人同士、おしゃべりをしていることもある。だけど図書館は基本的に一人になる場所であり、一人にならなければならない場所であり、たとえおれみたいな子どもであっても一人であることが「正しい」のだ。誰も怪しまない。声を掛けてこない。心配されない。放っておいてもらえる。教室とは違う。家とも違う。家は、まあ、近いかも知れないけどそれでもやっぱり違う。家は一人でいる場所ではないからだ。(と、少なくとも当時のおれにはそのような認識があっただろう)。
 よく本を読むようになったのは本が好きだったからじゃない。嫌いか好きかで問われれば好きだけど、でもやっぱりそれは本を純粋に好きなんじゃない。おれが好きだったのは、本のある場所だ。本のある場所にいると、一人でいることが許される気がする。一人という状態こそが正当で、多数で、連れ立ったり群がったりすることはかえって奇妙なのだ。だからおれは本を読むことよりも本と一緒にいることが好きだった。一人になっている人が集まるその場所にはいつも本があったから。
 今思えば、おれは何て寂しい小学生だったんだろう。
 結局その日の作文には母さんのことを書いた。ような気がする。違ったかな。あまり覚えていない。覚えていることと云えば、夏休み明けでどうもまだ体がだるかったのと、窓の外を見ると恐いほどに膨らんだ入道雲が浮かんでいたのと、斜め前の民也がすでに書き終えた原稿用紙を裏返してシャーペンを指で回していたその姿くらいだ。
(あいつかっこいいな)。
 褒めてるつもりも惚れてるつもりもない。
 赤い花を見て「赤いな」と思うように、夏になって「暑いな」と感じるように、オリンピックの金メダリストを「すごいな」と賞賛するように、ただ、そう思ったのだ。
 おれの視線に気づいた民也が振り返る。頬杖をついたまま、にっこり笑った。
「お・・・・・・」
 つい動揺してしまうおれの後ろで女子生徒が二人、小声で何事かはしゃいでいる様子だった。
(何だ、あっちか)。
 おれは溜息を吐くと、まだ一マスも埋っていない白紙に視線を落とした。急な眠気に襲われてあくびを漏らす。昨夜は今日の放課後に返す予定の本に読みふけってしまった。延長貸し出しは認められるけど、それだとなんだか損をした気分になるのだ。当初の返却予定日にはどうしても新たに別の本を借りたかった。
 目を開けると視界がぼやけていた。あくびをした際、下瞼の縁に涙が溜まった。それを零さないようぎりぎりの位置で眼球を潤わせながら、おれは、刻々と時間が過ぎることに無頓着だった。
 女子生徒へのアピールにばかり余念が無い民也がそんな自分を見ていたことに、うつらうつら頭を揺らし始めたおれはまったく気づいていなかった。
 そういえば蝉の鳴き声がしないな、とどうでもいいことで緩やかに怠惰していた午後の授業だった。



「なあ、葉月。おれが家に行っても出ない時って月山と会ってんの?」
 市立図書館からの帰りだった。数日ぶりに会ったタナカさんの相変わらず穏やかな雰囲気に癒されてほっこりした気持ちで帰途を歩いていたおれは背後から通り魔的に囁かれて飛び上がった。
「なんだ、民也かよ」
「何だとは何だ」
「買い出しか?」
「付き合え」
 まったく、強引だ。それでもおれがおとなしく付き合うのは、こういった場合、民也が大抵夕食をふるまってくれるからである。ちなみに民也も一人暮らしの身分だが、住んでいるアパートはおれのところとは比べ物にならないくらいすごい。どうすごいかと云うと住人のほとんどが家族だっていうくらいだ。もともと一人暮らしの学生が住めるような場所じゃない。だけどおれは初めて民也の家に行った人間ほどは驚かない。何故なら民也の家が裕福であることをおれは昔から知っているからだ。育ちの良い人間は型を崩してみてもやっぱり育ちの良さが拭えない。例えば今だって民也はジャージにサンダル姿だが腕時計が庶民じゃない。もしかするとジャージもサンダルも高価な物かも知れない。きっとそうだろう。およそ民也の身に着けているもので今のおれが手に入れられる物など無いに等しいだろう。容姿だってそうだ。期待した成長期、ついに追い越すことはできなかった長身を恨めしく見上げる。
「そう見つめんなって」
 ふいに立ち止まった民也がおれの顔の前で手のひらを広げる。避ける暇も無く、ほっぺたをふにふにされた。
「おお、伸びる伸びる」
 民也が楽しそうにおれの顔面を揉む。犬の散歩をしていた婦人が笑いながら通り過ぎていった。おれの顔と無関係だと信じたい。
「ひゃなへよ」
 おれは不自由な口で訴えた。
「離さないよ? だって葉月、おれの話聞いてなかったもん」
「ひゃんとひひまふ」
「ほんとに?」
「ほんほ」
「なら、良いぜ」
 民也の指が頬を離れる。おれは顔をさすりながら「痛えよ」「バカ」「死ね」と呟いた。民也は聞こえないふりをする。
「で。葉月。月山と、会ってんの?」
 月山。おれがあいつのことをそう呼び捨てるのは分かる。だが何故こいつまで月山を月山呼ばわりするのか。最初からそうだった。月山がおれの前から姿を消す前、おれと民也はまだ知り合っていなかった。月山がおれの前に再び姿を現した時、おれと民也はおれと月山が一緒にいた時間より長く一緒にいた。民也からしてみればそんないい加減な男をどうして冷静に受け容れることができるのか、不思議なのかも知れない。もっともおれには受け容れているという自覚は無い。ただ、積極的に徹底的に何かを拒否するということが面倒なだけだ。その分、むやみに懐いてもいないつもりだったが、民也の目にどう映っているか知らない。
(それにしても、仮にも人の父親を呼び捨てにするとは)。
 弁護する相手でも無いのでつっこまないけど、今日の呼び方には特に棘が含まれている気がして引っかかった。
「もう許してんの? 会いに行ったりしちゃうわけ? それって違わねえ? 甘やかし過ぎじゃねえ?」
 間違いない。現在、民也は苛立っている。
 何故か。
 おれが月山と会ったからか。
 おれが月山と会うことによりその日、民也と会えなかったからか。
 おれが民也と会えないことにより民也がおれの部屋に入れなかったからか。
 おれの部屋に入れないことにより民也はソーソーくんの気配を察知することのできる機会を減らしてしまったからか。
 あ、そっか。
「ソーソーくんなら元気だから心配すんな」
 おれの唐突な報告に民也は「は?」と振り返って首をかしげた。おれの額に手を当てるとさらに首をかしげる。
「・・・・・・お前は何も分かってねえのな」。
 そう云った時どうして民也が一瞬でも悲しそうに見えたのか、おれには分からなかった。だから民也にそんなことを云われるのだ。何も分かってないと愚痴られるのだ。
「うん、ごめん」
 謝ってみたけど、何か違うな、と思った。
 民也はもう月山の名前を出さなかった。
 二人で再び歩き出した時、スーパーの看板はすでに見えていた。

 民也の家のリビングで、空になったカレー皿に静かにスプーンを置いた時、おれの心はすでに決まっていた。
「うん。結婚しようか、民也」
 この時ばかりは月山がおれを味噌汁のために呼び戻そうとした気持ちが分からないでもない。食に関する依存ほど人を突き動かすのに適当な物は無い。ことにそれが自分の力では決して手に入れることのできない内容だったりすると。
「葉月と結婚しておれ様に何のメリットが?」
 カレー皿が下げられ、食後のデザートが出される。
「はい、マシュマログルトを召し上がれ」
 マシュマロにプレーンヨーグルトをかけ、一晩寝かせたものだそうだ。色どりにカットフルーツがのっている。もともと今晩はカレーの予定だったのか。この計画性が素晴らしい。おれは素直に招待してくれた礼を云う。民也は「どういたしまして」と執事みたいなお辞儀をして向かいの椅子に座り直した。
「メリット? そうだな。えーと、あー、お前が浮気しても気にしないでいられる、かな」
 それを聞いた民也が肩を落とした。
「まじ傷つくわ」
「え、それくらいでちょうど良いんじゃない?」
「葉月おれのことどんな男だと思ってるわけ」
「良いほうと悪いほう、どっちから聞きたい?」
「・・・・・・えーと、数が少ないほうから」
「ああ、じゃ、良いほうな」
 今度こそ民也は項垂れた。
 おれは気にせずデザートをかき混ぜた。
「でも民也って残念で良かったよな」
「どういう意味だ」
「揃い過ぎてたらかえって嫌味だし」
「喜んで良いのか」
「一応、褒めたつもり」
「それは、どうも」
 ようやく顔を上げた民也はスプーンを持った手をおれのほうへ伸ばしてきた。
「あ、ごめん。おれが来るの予定外だったもんな」
 そうか。デザートは民也の分しか無かったんだ。
 おれは慌ててマシュマログルトを民也の方へ押しやる。
「良いって。おれ一口で良いから、葉月が食えよ。マシュマロ好きだろ?」
「そう、だっけ」
「自分の好物忘れるとかありえるか」
「いや、そうじゃなくて。民也にわざわざそれ云ったことあったかな、と思って」
「あのね。何年一緒にやってきたと思ってんの」
 ここでおれはふとさっきの民也を思い出した。スーパーに向かう途中、一瞬だけ悲しそうに見えた民也を。
 だけどその意味を考えないことにした。考えたところで正解とは限らないからだ。
 その後、おれと民也は新婚のように睦まじくじゃれ合ったり熟年のように嫌味を垂れ流したりしながら夜まで過ごした。
 時々、おれの家族って民也なんじゃないか、と思うことがある。
 血の繋がりなんて無いけど、法的に証明するものは何も無いけど、母さんよりも月山よりもよっぽど長く一緒にいた。おれにもし兄弟がいればそいつが家族らしい家族になっていたかも知れないが、生憎とおれは一人息子だ。もっともどこか他所に異父もしくは異母の兄弟姉妹がいないとは断定できない。今までその可能性について考えたことは無かったけど。これからも考えることは無さそうだ。特には。血は同じでも赤の他人だ。
「なあ、民也」
 食後はソファに移動して寝そべっていた。おれは民也の部屋に来ることとリゾート地に行くことを同義のように考えている節がある。何て自分はスケールの捕らえ方がめでたいのか。しかし身の丈に合ったこの思考のおかげでおれは色々なことに耐えられている。民也と友人でいられるのも一つにはこの性格のお陰だろう。
「家族って何だ?」
 キッチンで後片付けをしている民也には聞き取れなかったようで「何?」と声だけ飛んできた。
「家族ってどういうもんだ?」
 おれは少し質問を変える。蛇口を止める音がして、スリッパの音が近付いてきた。お、と顔を上げると民也がおれをさかさまに覗き込んでいる。その両手には泡を付けたゴム手袋がはめられたままで、オペ開始前の執刀医のように指先を天井に向けているものだから、おれは思わず唾を飲んだ。
「もう一回云ってみろ」
「や、あの、家族ってどういうものか、と・・・・・・」
 おれがしどろもどろになっていると民也が覆いかぶさってきた。
 さて。
 どうしたものか。
 おれは、くん、と鼻を鳴らしてみた。
 民也のにおいがした。今まで何人の女がこのにおいを嗅いでこのにおいから離れてっただろう。
 おれはどうも状況からかけ離れたことを考える癖がある。
「葉月」
「あ?」
「小学生の時、作文の時間ってあったじゃん」
「ああ、あったな」
「家族について書かされた時、あったじゃん」
「そうだっけ」
「どうして嘘書いたの」
 おれは答えられなかった。覚えていたからじゃない。何も覚えていなかったから。おれは家族についての作文の時間、嘘を書いたのか。そうなのか。そうだったのか。そして民也がそれを知っているのはどうしてだろう。そのことと今のこの体勢とに何か関連はあるのだろうか。ソーソーくんが見たらどうするだろう。民也はソーソーくんに見られたらどうするだろう。いやいや、どうするだろうって何がどうするだろうなんだろう。琥珀さん助けて。おれを、この、友人相手にわけもなく泣きつきたがっているおれから、いつものうわべだけで受け流せるおれを守って。
「今日さ、琥珀さんの擬人化を見た」
 おれは唐突に語りだしていた。
「は?」
 民也の反応はもっともだと云える。確かに意味不明だ。
 おれは構わず続けた。
「うちの大学に、今年入ってきた生徒で。琥珀色っていうの、金っていうの、髪の毛が、っていうか、ほら、全体的に外人みたいなやつがいんの。男で」
 民也はおれの言葉に「あ、あー」と思い当たったような返事をした。
「で?」
「どっかの王子かと思うじゃん?」
「いや普通は思わねえけど」
「おれは思ったの」
「あ、そう」
「おれその人のこと心の中で勝手に琥珀さんって呼んでるんだよね。ほら、琥珀さんって腹は白いじゃん。その生徒も色が白いからさ。なんとなく似てんの」
 民也はおれの話をふむふむ聞いている。
「そんだけ。べつにオチは無いけどな」
「あ、でもおれも知ってる。ひびきしんや、だっけ? 名前は普通に日本だろ。ハーフなんじゃないのか」
「だと思う」
「んじゃ闘志燃やすことにするわ」
「格が違ったっての」
「ねえ、おれ泣くよ?」
 民也の返事が本当に情けなく聞こえて、おれは笑った。
 
 本に書かれているような『平凡な日常』と違って、リアルの『平凡な日常』は、なんと本当に平凡であることだろう。おれは発言の取り消せなさ、無駄の多いこの有様をこそ本物だと思う。だから本物は弱い。推敲された跡が無いから。矛盾も曖昧さもたくさん孕んでる。そのまま相手に曝け出される。

 おれは民也の体を押し返す。
「いい加減、濡れるから」と云って押し返す。
 一瞬きょとんとした表情を浮かべた民也が何かに気づいたように「やっだ、葉月くん、やっらしいの」と口元を緩める。
「違えよバカ、お前の手だ、手。後片付けに戻れっ」
 おれに命令された民也はだらしない返事を残してキッチンへ戻っていった。何が「へいへい、御亭主様」だ。おれは大きく息を吐くとソファの上で寝返りを打つ(なんとこのソファは寝返りが打てる!)。
 眠くないけど目を瞑っていると本当に眠くなってきた。
 今日一日の出来事が回想される。タナカさんがアルバイトに誘ってくれた。夏休みが終わっても来てくれないか、と。おれはその場で承諾した。願ってもいないことだ。月山から携帯にメールが届いた。朝顔の写真付きだった。そういえば実家の庭に鉢植えがあった。育てていたのか。道を歩いていると民也に声を掛けられた。買い物に付き合った。夕飯をごちそうになった。おいしいカレーライスだった。マシュマログルトも気に入った。
 明日は何があるだろう。明日は誰と会うだろう。
 今日は出会わなかった誰かに、明日は会えるだろうか。
 今日出会った誰かと、明日もまた会えるだろうか。

 うとうとしていると誰かが傍に立った気配がした。
「ねえ、泊まんの?」
 おれは黙っている。
「歯、磨いてから寝ろよ」
 民也はそれだけだった。どうやら泊めてくれるらしい。
(ああ、そうか。そうだった)。
 小学生の頃に書いた作文の内容を思い出して、おれは半分の意識で苦笑した。
 恐いほどの入道雲。
 文字を書かないシャーペン。
 振り返って笑う視線。
 聞こえない蝉の声。
 あの時からずっと、民也はおれの家族だったんだ。
 そんな嘘を、おれはずっと吐いてた。