夏は人間が増える。
 それはもう、わかめのように増える。
 おれのバイト先である市立図書館の来館者数の話だ。

 学生達は読書感想文の宿題があるのか、おすすめの本を訊ねてくることがある。おれは、教科書に載っていてもおかしくないだろうと思われる、当たり障りの無い本をすすめておく。
 図書館でバイトを始めるまでおれは本を人にすすめたことがなかった。その本を面白いと思うかどうかはその人次第だし、おれが面白かったからと云ってすすめられた相手もまた気に入るとは限らない。場合によっては迷惑にもあたるだろうからだ。まあ、おれの周りに読書を好む人種があまりいなかったことも大いに関係あろうが。
 そしておれは人からすすめられた本を読んだこともない。すすめられた本には先入観が入る。どうしても構える。そういう、予め何かを期待して読み進める姿勢もあることはあるんだろうが、そういった面において神経質というか潔癖なおれには好ましくない。だから人と本の話をあまりしたくない。
 また、本のあらすじを人に説明するのも苦手だ。当然のことだがあらすじは「粗い筋」、つまり要約だ。本編に比較して短い。重みを与えられた紙の束、そこに書かれた文字を凝縮してしまうと、それはまるで別物のようになってしまう。陳腐な形になってしまう。気にしすぎだと云われればそれまでだが、作品独自の時間の流れや、作者が人物の心情などをせっかくの技巧を凝らして暗にほのめかした部分でさえも明言しなければならなくなる、あの瞬間が苦手だ。いっそ嫌いだ。おれは本に対してある種の畏怖の念を抱いている。崇拝と云ってもいいかも知れない。古い本なら尚更だ。
 本が長生きすることは人が長生きすることより尊い。と、思う。端が黄ばんだページや、糸のほつれさえ見える背表紙を眺めていると、そしてその本を手に取り視線で撫でてきた何人の読者が世界に思いを馳せ、あるいは寝る間を惜しみ、体力を削り、最後の一行まで辿り着いただろうかと、考えただけでなんだか泣きたくなってしまう。本を手離せない人間に。人間から手離されることのない本の、本のある風景の、静かな佇まないに。何も云わない。何も訊かない。それなのに自らは何も隠さない。誰も拒まない。世界を押し付けない。何年でも何十年でも、黙って、吸収されるのを待つだけ。このいじらしさ、潔さ、美しさ! どんな人間の命だってかなわないとまで思ってしまう、それなのに、恐ろしいことに、本を生み出すものは人間の命なのだ。魂なのだ。本は人を孤独にする。しかし本から離れられない自分は、やはり人間からも離れられないのだ。矛盾に呻く。不快だと思う。孤独とはもっと形の無いことを云う。それなのに本は確かに存在する。重たい。決して軽いものでは、ない。それなのに、それほどのものであるのに、どうして一言で語れよう。どうして出会って数分と経たない相手にその魅力をわずかでも正確に伝えることができよう!

 などとおれが悶々としているところへタナカさんがやって来て、これを新刊コーナーにおねがいネ、と本の山を抱えてきたので受け取った。

「ネ、が似合うの、あの年じゃタナカさんくらいだよな……」。
 おれの知る限り。
 ようやく我に返ったおれは、入口付近にある新刊コーナーに向かった。
 そこでふと知っている姿がドアの向こうに見えた。
「あ。ひびきしんや、だ」。
 その男を初めて見たのは大学の図書館だった。
 書架と書架の間から西日が射し込む時刻、彼は頭より高い位置にある本を眺めていた。
 ようやく目当てのものが見つかったのか、体の横に垂らしていた腕がすっと持ち上がった。抜き取った一冊をその場で開くと目次を立ち読みしている。
 横から見たその立ち姿が綺麗だと思ったのを覚えている。
 ふいに本を閉じた彼の体はおれのほうを向いた。凝視し過ぎたか、と焦るおれの傍らをしかしただ静かに通り過ぎていった。おれのことはまったく気にしていない様子だった。
 足音が微かになる気配を待っておれは溜めていた息を吐いた。
「琥珀さんだった……」。
 おれの様子は無視しながらもおれの存在は確かに認識して、すれ違う際に僅かに体を傾けて通過した、あの感じ。
 あれだ。あれがいかにも琥珀さんだったのだ。
 おれは本が好きだ。ぶっちゃけ人間より好きだ。
 だけど本と同じくらい好きなものがある。
 猫だ。
 猫の中でも、琥珀さんは最高だ。
 その琥珀さんに似ている人間がいた。
 どうしてこれを気にならないなんて云いのける芸当が可能だろう?
 むりだ。



「へえ、へえ、へえ」。
 不自然な相槌が三回続いた時点で「聞いてねえなこいつ」と向かいの民也を見据えた。不遜な態度で頬杖をついている幼馴染はおれが黙ったのを見はからって「で?」と首をかしげた。
「帰ってやろうと思う」
 おれが云うと民也は、ふうん、と鼻を鳴らした。
 喫茶店の女性店員がおれの前にオレンジジュース、民也の前にアイスコーヒーを置いて去る。去り際に視線が民也へ流れるのはいつものことだ。もう、慣れた。慣れたと云いながら「またか」と思う、おれはなんだか女々しい。
「一週間ってさあ、葉月ちゃん。その間、バイトはどうすんの」
 さっきの店員が置き間違えていったドリンクを並び替えて民也はオレンジジュースのストローに口をつけた。余談だがこいつは100パーセントじゃないと飲まない。
「バイトって云っても毎週じゃないし。休みも割りと自由、だし。タナカさんには話してあるし」
 何故かいいわけをしているような気持ちになってくる。
 おれは何も悪くない。
 ストローから口を離した民也が目を細めた。
「月山から電話がありました。寂しいから帰って来られないだろうか。一度は断りました。食い下がられました。承諾しました。要求を呑んでやることにしました。明日から一週間、帰省します。って。……なあ、葉月。云っとくがな、おれはお前をそんな尻軽に育てた覚えは無いんだぞ!」
 思わずコーヒーを噴出してしまった。
「育てられた覚えも、尻軽でもねえよ!」
 つられて反論してしまったおれは周囲の視線に気づいて声を落とした。
 おれと民也が大学に入ってからというもの週一のペースで訪れるこの喫茶店の雰囲気にはふさわしくないワードが、うっかりとは云え口から出してしまったことを悔やむ。
「育てられた覚えも?」
 民也の表情が微かに翳る。
 おれは、う、と詰まった。
「育てられた、覚えも無い?」
 う。
 うう。
 ううう。
「……それは、ちょっと、ある、かも」
 おれが認めると民也はやっと笑顔を見せた。この瞬間は間違いなくうざいが、ここで否定を続ければ過去の恥ずかしいエピソードを聞かせられることが目に見えていた。こいつと幼馴染であることのデメリットの一つだ。
「だっよねえ、葉月ちゃん」
「うっぜえんだよ、くそ民也が」
 一度機嫌を取り戻してしまえば後はどんな罵詈雑言にも耐えうる竹輪の民也だ、おれもようやくいつもの調子を取り戻せる。
 気を取り直してアイスコーヒーにシロップを入れる。
「民也はさ、どうして月山のこと嫌うんだよ。おれが嫌ってんなら分かるけど。お前は直接何かされたわけじゃないだろ。まあ、おれも直接何かされたってわけじゃないけど、ただ放置されてただけっていうか……」
「すいませーん」
 おれが喋っているにも関わらず民也が手を挙げる。カウンタ内で待機していたさっきの女性店員が嬉しそうにテーブルへやって来た。高校生くらいだろうか。夏になってから見かけるようになった。春はまだいなかった。ぱっちりした目にストレートのセミロング。結構、かわいい。思うに、間違いなく民也に気がある。並べばお似合いだろう。って、おれは何を姑みたいに。
「ケーキプレートください。あ、ケーキ、この中から二つ選べんだ? じゃあおれはシフォンとブルーベリーのタルト。葉月は?」
「えっ、おれのも? あ、えっと……」
「あー、こいつもおれと同じので良いや」
 セミロングの彼女が初めておれを見た。睨まれた、と感じたのは思い過ごしだと信じたい。
「唐突にスイーツ注文すんな」
「え、だってこれから甘い話をしようと思ったんだもん」
「甘い話い?」
 おれは嫌な予感がして両腕をさする仕草をして見せた。
 そんなおれに構わず民也が話し始めた。
「あるところにAとBがおりました。二人はとっても仲良しです」
「クイズか?」
「そうだから黙って聞け。BにはCという家族がいました。二人は離れて暮らしています。ある日、AとBが仲良く遊んでいるところへ突然Cが現れてBを連れて行こうとしました。Bは簡単に連れて行かれようとしています。それまでCが自分を放っておいたことなど忘れてしまったかのようです。さてこの時Aはどんな気持ちになるでしょう」
 いきなり鼻先に人差し指を突きつけられたおれは仰け反った。
「はあ?」
「Aは、どんな気持ちに、なるでしょう」
「何云ってんだ、民也?」
 おれがいつまでも解せない顔をしていたので民也が肩を落とした。
 静かに、一言。
「にぶちん」
「何でだよ」
「何ででも」
「……なあ、どうしたんだよ。民也」
「お前がどうした」
 民也が情緒不安定だ。いつものことだが種類が違う。おれはにぶちんなりになんとなくこれはおれが帰省することと関係あるのだろうと推測し、次のような提案をしてみた。
「逆に、呼んでみるか?」。
 それは民也にとっては思いがけない展開だったようだ。そっぽを向いていた顔がおれに向き直る。
「おれが帰るんじゃなくて、あいつを呼んでみようか、って。おれのアパートに」
 これでどうだ、と顎をしゃくって見せると民也はやっぱり肩を落として呻いた。
「やっぱ、にぶちんだ……」
「これでもまだ駄目かよ」
 おれも一緒になって肩を落とした。
 二人して不器用だなと、こんな時、思う。
 ケーキプレートを持って来た女性店員が不思議そうに民也とおれを見比べていた。
「そうだ。ソーソーくん元気?」
 いつまでも気落ちしているわけにもいかないと気づいたか、話題を変えたのは民也のほうだった。
「うん、元気。ってか最近あんまり会ってないけど」
「そうか。あまり会ってないか!」
 民也の表情が明るくなった。こいつはおれに関して誤解が多い。
「最近会ったといえば、今日図書館で琥珀さんを見た」
「人間の?」
「うん」
「図書館で?」
「うん」
「本、読むんだな」
「大学のが休館期間に入ったからだろう」
「勉強熱心だな」
「読書イコール勉学とは限らない」
 本を読まない民也の頭にはその点、ステレオタイプな部分があるようだ。
 その時、店のドアが開いた。気温が暑いからか、冷房の効いた場所に立ち寄る人間が多い。図書館も喫茶店も同じみたいだ。
 いらっしゃいませ。
 カウンタ内から民也に視線を送っていた女性店員の目が入口へ向かう。その顔が一瞬、驚いたように見えた。何とはなしに視線の先を辿ってみると、
「あ、琥珀さんっ」
 おれは思わず声に出してしまった。しかしその声は幸い、かろうじて民也に聞こえるくらいのもので、当の本人に気づかれることはなかった。
「あれが本物か……」
 民也に至っては口からフォークをぶら下げたまま見入っている。
 琥珀さん、じゃ、なかった、響信哉は奥の席に座ると本を広げた。今日借りていったものに間違いない。最初は手で支えて読んでいたのだが、重くなってきたのか、テーブルに載せて読み始めた。
「なあ。声掛けてきて良い?」
 見ると、民也が体をもぞもぞさせている。
「いきなり何でだよ。気味悪がられる」
「挨拶。挨拶だけ。あとちょっと自己紹介とか」
「だから何でだよって」
「ち、近付きたいから……」
 今のおまえきもちわるいからやめとけ。
 おれは真顔で釘を刺しておいた。
 どうして見ているだけじゃ物足りないのか。声を掛けようとするのか。近付いていきたがるのか。
 おれには理解できない。
 だけど民也がそんな性格じゃなかったら、おれは今ここにいなかった。民也と一緒にいなかった。
『ねえ、何してんの?』。
 おれの脳裏にあの日の民也が蘇る。
 おれは放課後の教室で本を読んでいた。
『帰んないの?』。
 民也はしつこかった。おれは首を横に振った。どうして帰んないの。民也が質問する。おれは少し迷った挙句、こう答えた。
『誰もいない学校、好きだから』。
 へんなやつ。民也が云う。おれはぎくりとした。へんなことを云ってしまった。明日から噂になっていたらどうしよう。あいつ誰もいない学校が好きなんだって。あいつ誰もいない学校が好きなんだって。あいつ誰もいない学校が好きなんだって……。
『おもしろいな、はづきって』。
 思いがけない声が降ってきておれは顔を上げた。
 民也はずっと前からそう呼んでいたみたいに、おれのことを下の名前で呼んだ。
 嬉しかった。
 自分のことを下の名前で呼んでくれた、初めてのクラスメイトだった。

「でも、やめとけ」。
 おれは落ち着かない様子の民也を落ち着かせる。要は、ちょっかいを出したいやつなのだ。本を読んでいる人間に。きっとそうだ。
 その後、おれと民也が店を出る時も響信哉はまだ本を読んでいた。
「あれは琥珀さんって感じだなあ」
 帰り道で、一番星みいつけた、とはしゃいでいた民也がぽつりと云う。
「だろ」
 まるで自慢のようにおれも頷く。
 本物の琥珀さんでさえ自分のものではないのに。

 翌日、月山が部屋にいた。
 約束をしたわけでもないのに、許可したわけでもないのに、いた。
 これから一週間お世話になりますと三つ指をついて云う。
 おれはもう何もかも面倒になって「いいぞ」と主のように頷いた。