カウンタ内でパソコン作業するおれの顔の前を、タナカさんの手が横切った。
「ごめん、葉月くん」。
 その手は奥にあるボールペンを取ろうとしてあと少しのところで届かなかった。おいおい今の距離感。てか案外ドジなんだな、なんて微笑ましい気になりながら表情はあまり変えず「どうぞ」と取って差し上げる。タナカさんは弱ったように微笑むと「悪いね」と受け取った。
 これだ。
 最近おれの周囲にいるやつらに足りないのは、この謙虚さなんだよ。
 二日前から月山はおれの家に転がり込んできた。本人は一週間の滞在予定だと云うが予定はあくまで予定であることを、場合によっては長引くこともあることを、たとえ家主のおれがそれを許可しなかったとしても結局はそういうこともありうることを、今の時点で否定できない。
 月山は遠慮を知らない。早起きだしよく食べるし家の中でじっとしていることが嫌いだ。どこの模範的小学生だよ。仕事はいまだに探していないようだ。いつだったか、ありあまる財産があるから大丈夫、と夢見がちなことを云っていたが事実とは思えない。いい年してちゃらちゃらして、母さんが愛想をつかして家を出て行く気も分かる気がする。
「本当に、そうだったのかな?」
 昼食時、おれはタナカさんに愚痴をこぼしてしまった。その時のタナカさんの一言だ。
「本当に、そうだったのかな?」。
 離れて暮らしている間はそうでもなかったものの、一緒に暮らして二日目にしてもうこのざまだ。タナカさんはさぞかし迷惑だろうな、と思うもののそんな様子を表情に出さないからおれもつい甘えてプライベートを話してしまう。いや、待てよ、プライベートを話すことはそもそも甘えなのだろうか。よく分からない。きっとそのこと自体は甘えではない。おれの気持ちが甘えに傾いているからこんな罪悪感を抱くんだろう。だけどこれは罪悪感を抱かなければならないほどの罪だろうか。バイト先の上司であるベテラン司書のタナカさん。穏やかな優しい人。おれが常日頃から「理想の父親像」と慕っている人。彼には彼の家庭があり、生活があるだろう。身近な人の前で彼がどういった人物であるのか知らない。月山だって外から見れば内から見るほどいい加減な人間ではないだろう。外見が悪くないだけにそのあたりはちゃっかり得していそうだ。だからこそおれは堪らなくなる。ソーソーくんだって一見してあのバカをバカだと思っていなかったじゃないか。だからまんまと騙されておれの不在時にあいつを部屋に案内したんだ。
 愚痴を零せば自分ばかりが悪者だ。かと云っておれは自分が悪者になりたくないから我慢をしてるわけじゃない。じゃ、なくて、要は、分からないのだ。誰に、どこまで曝け出して許されるのか。ちなみにこの場合の許すの主語は、他でもない、やっぱり自分自身のこと。民也に云えば「追い出せ」の一言で片付けられそうで、云わない。あいつはどうやら月山をよく思っていないらしい。それがどうしてかは分からないけど。
「そう、ってのは、どういう?」。
 休憩室の机に向かい合っておれとタナカさんは互いに持参した弁当を食べていた。タナカさんの弁当には冷凍食品が使われていない。それでいていつも違うおかずだ。やっぱり誰か、作ってくれる人がいるんだろう。おれはその人のことを考えながら自分の弁当の煮物に箸を刺した。これは昨夜のあまりだ。月山が家庭的なものを食べたがるから作った。家庭的なもの、と云われて必ず頭に浮かぶのは和風料理だ。かと云って母さんが和風ばかり作っていたかと云えばそうじゃない。どちらかと云うと洋風な内容が多かった。こういった、現実と概念との差っていうのは、本やテレビから受け取ったものが多いのだろう。他の人はどうだろう。何かを常識だと思い込む時、その何かは何から形成されているんだろう。実体験の割合と、外から仕入れた情報の割合との、そのどちらがどれくらいだろう。どれくらいの割合ずつ所有するかにその人自身があらわれるものなのかも知れない。おれは母さんとの生活にそこそこ満足しながら、どこかで他所を気にしていた。手っ取り早い話が、羨んでいた。だからこそ自分の家以外の家が気になったし、「普通なら」「本来なら」と姿の見えない多数を手本にしていた。雁字搦めだな。
「葉月くんのお父さんは、本当に、お母さんに愛想をつかさせてしまったのかな」。
 おれは顔を上げた。
 タナカさんが意味深なことを云うからだ。
「え?」。
「そうじゃないことも、あると思うよ」。
「可能性の、問題として?」。
「そう」。
 おれはできるだけ公平な頭で考えようと試みる。するとタナカさんの意味深に聞こえた言葉もそれなりにすんなりと入ってくる。
 そうか、そうか。確かにそうじゃないことも、あるわけだ。
「時に、葉月くん」。
「はい?」。
 おれは再び顔を上げた。
 タナカさんの目はいつも見る者を労わるようだ。タナカさんがいるから図書館へ通う人もいるのだろう。そういう人はすごい。人を動かす人はすごい。
「ぼくはね、葉月くん。以前云ったよね。酷い人間なんだと」。
「おれには、想像できませんけど」。
 軽く笑ってみせるけど。タナカさんはあの時みたいになんだかおれに対して申し訳ないような表情を浮かべた。
「そう。きみの目にぼくはそういうふうには分からないと云うのだろう?」。
 じゃ、とタナカさんは自分の弁当からプチトマトをつまむとおれの弁当の蓋に落とした。
 おれは、はっとした。
(タナカさんが、好き嫌いするなんて……!)。
 おれはこのタイミングでタナカさんがそれをしたことは決して偶然ではないと思った。会話の内容にリンクしているのだと思った。タナカさんはおれに何を示そうとしたのだろう。自分にも好き嫌いのあることか。自分だって完璧じゃないということか。それとも、自分が向かい側に座る大学生が抱いているイメージのような人間とは本当は違うということを、手っ取り早く知ってもらうためなのか。
 あるいは、偶然か。
「驚いたね」。
 ふっふっふ、とタナカさんは笑った。
「これもぼくなんだよ。知らないだろう?」。
「好き嫌いがあるということよりも今みたいな行動が予測不可でした」。
 おれは正直かつシンプルに答えた。
「そうだろう。じゃ、きみのお父さんにとっても同じことが云えるんだよ」。
 おれはなんとなく分かっていたのに首をかしげた。意味のとらえかたを誤りたくなかったから。タナカさんの言葉はそれくらい、おれにとって大切だ。
「葉月くんのお父さんだって本当に、葉月くんが見たことのある部分だけでできている人なのかな?」。
 おれは思わず首を振り否定していた。
「葉月くんだって、ぼくに見せている部分だけでできている葉月くんじゃ、ないんだろう?」。


 
 ぞくっと冷えが走ったのは、治ったと思っていた夏風邪がまだ居残っているからだろうか。駅の時計は六時を指していた。図書館の帰り、おれはこうして駅構内の待合室で時間を潰すことが多くなった。電車を待っているわけじゃない。主な交通手段は自転車だ。今だって駐輪場に止めてある。誰かを待っているわけじゃない。人の流れを見ていたいだけなのだ。そのために切符を買って構内に入る。急ぐ人、迷う人、待つ人。前をよぎっていく人間の数だけ、彼らにも悩みや生活やどうしようもないことがあるのだと思うと不思議な気分になってくる。フルーツバスケットのゲームみたいに、席替えをしてみたら、色んな立場が分かるのに。
(月山の、立場)。
 タナカさんに話すまで、考えたこともなかった。あっても、一種類の視点からしか。それは、おれがあいつの息子であり、十年間放置されていた者なりの、という意味での立場だ。今なら民也の不機嫌の理由も少しだけ分かる気がする。民也は民也なりに、立場があったんだ。
「あいつ今、何してんだろうな……」
 ふと口をついて出た言葉が月山を気遣う内容で反吐が出そうだった。恋する乙女か。
 やめた。
 椅子から立ち上がろうとしたおれの前を、人影がよぎろうとする。避け切れず、ぶつかった。
「あっ!」
 早足で歩いてきた相手より、周囲を気にせずいきなり立ち上がったおれが悪かった。
「悪い」、咄嗟に腕を掴んだ相手と目が合った。
 男。同年代の。茶色い髪に月山を思い出すが、別人だった。
 おれは思わず目を見開く。
 驚いたことに、その顔は泣きそうだった。おれは人のいる場所でこんなにも動揺あらわにする同年代の男を知らない。
「王子っ」。
 相手の口から漏れた言葉に「……王子」と訊ね返す。はて。こいつ大丈夫だろうか。
「えっ、あ、すいません。あの、おれ、おれはっ」
「何だ、お前。落ち着け」
 おれはやつの腕から手を離すと背をさすってやる。不思議と、放っておかせないオーラをたたえている。おれがこれほど無条件に見知らぬ誰かを案ずるなんてな。
 男は瞳まで薄茶色だった。背は、おれより少し高い。何かに慌てているようで落ち着かない。深呼吸しながらも周囲をせわしなく見回す様子が犬っぽい。そうだ、こいつは犬だ。今後は犬と呼ぼう。
「あの、オージ、ちっちゃい子、ちっちゃい男の子、なんだけど高校生なんだけど、今迷子なんです、知りませんかっ」
 断片的な訴え。無視できない切実さを受け止めておれはほんの数秒思い出してみる。迷子になってる高校生。か。何も見なかった。
「知らない」
 ぶわわ、っと音が出そうなほど犬の目の縁に涙が盛り上がった。
「ど、どうしよう、どうしようっ。オージ今頃すごく困ってるっ」
 構内アナウンスでもしてもらえば、とおれが提案しかけたところで犬が「びゃっ」と悲鳴を上げて飛び上がった。振り返り視線の先を辿ったおれも「あっ」と小さく声に出してしまう。
 琥珀さん、じゃなかった、響信哉が改札口に立っている。こちらには気づいていないようだが、犬の様子からすると待っている相手であることは間違い無さそうだ。
「知り合い?」
 おれの問いかけに反応しかけていた犬はまたも「びゃっ」と変な声を上げた。くるりと振り返っておれに背を向けると声にならない声を上げながら背後に立っていた誰かに飛びついた。
 尾が。
 こいつ、尾が見えるぞ。
「迷子になったらチョロチョロすんなって云っただろ、ひめかわ」
 犬の名前はひめかわというらしい。
 てか、迷子になってたのお前のほうか。ひめかわよ。
「だって、だって、オージが見えなくなったから焦っちゃってっ」
 ひめかわから人目も憚らず抱き締められて迷惑そうな態度を取っているその人物、……王子。名前なのか王子なのか?
「見えなくなったって喧嘩売ってんのか。ちょっと人に飲まれただけだろ。百六十センチ以下で悪かったな」
「ううん、オージは何センチになってもかわいいからっ」
 そこでひめかわはおれのほうをぱっと振り返り、
「ありがとうございました。無事に出会えました」
 さっきとは打って変わって眩しいほどの笑顔を浮かべている。おれは照度に圧されるように小さく頷いて見せた。おそらく二三歳年下なだけだろうに、自分が老け込んだ錯覚に陥る。なんという圧倒的な輝き。キャンパス内で女生徒の視線を恣にする民也もかくやとばかりの目映さだ。しかもそれは民也のように打算的な側面が感じられない。純粋に、嬉しい。ひめかわという名前を知ったものの、やっぱり、犬だ。ボールを投げる。走る。取る。戻ってくる。ボールを口から離す。褒めて褒めて。見上げる。おれはそいつを撫でてやりながらエライエライと褒める。はい、ここ。うん、この部分で犬が見せる反応のような反応。久々に誰かのそんな表情を見せられた気がする。若いな、こいつは。
「いや、おれは何もしてないっていうか……」
 ひめかわの向こうに王子と呼ばれていた少年が見える。見知らぬおれを警戒してか少し後ずさったのを見逃さない。そんな王子少年をひめかわはかわいくて堪らないかのように見守っている。
「いえ、おれが不安な時、一緒にいてくれました」
 どこまでもプラス思考だな、このひめかわってやつは。
 あまりに対照的な二人。どうしたんだおまえら、とつい大雑把な質問をしてみたくなる。
 どうしたんだ。おまえら。
 しかしその台詞はおれの後ろから聞こえてきた。
「し、信哉さんっ」
 ひめかわの背筋が伸びる。
「何か問題でも?」
 響信哉はそう云っておれをちらりと見た。おれは反射的に会釈する。って、なんでだよ。
「知り合いなのか?」
 おれは小声でひめかわに質問を繰り返す。
 ひめかわは「オージのお兄さんです」と頷いた。
 王子のお兄さん。
 おれは王子少年と響信哉を見比べる。似てない。まったくもって、似てない。一見、不機嫌そうな無表情が似てると云えば似ている唯一の箇所だろうか。だがそれだってこじつけのようなものだ。第一、王子少年の髪も瞳も真っ黒だ。よっぽどひめかわと響信哉が兄弟だってほうが話が分かる。
「じゃ、また」
 たったこれだけで「また」と気軽に云えるひめかわの後姿をおれは黙って見送った。
 改札口を出たところで響信哉がひめかわに何か告げているのが見える。ひめかわは緊張した面持ちでそれを聞き、最後に「こっくん」と頷いた。主従の気配がありありとしている。次に響信哉はオージに向き直るといくらか表情をやわらげた。あんなに穏やかな顔をすることもるのか、響信哉。
 やがて三人は連れ立って去った。
 一人残された形になったおれはもう一度、椅子に腰を下ろした。
 何かが、どっと来てどっと去っていった。
 携帯を見ると月山から着信が残っていた。
 無視。
 メールも届いていた。
 文面を読む。いつもなら何も感じないただのメールに、今おれは少しだけ感謝している。



 その夜は月山がカレーを作って待っていた。
 民也のカレーとは比べ物にならないレベルだったが、まあ食べれるレベルだ。おかわりもできるレベルだ。ただ、冗談でプロポーズしたくなるまでは、至らないかな。
 それでもちゃっかり二皿目を前にしたおれは「そういえば」と切り出した。
 左利きの月山が「うん」と顔を上げる。その反応速度から察するに、おれの言葉を待っていた。おれの話をいつだって聞きたがっている。
 タナカさんの顔が浮かぶ。
(葉月くんのお父さんだって本当に、葉月くんが見たことのある部分だけでできている人なのかな?)。
「おれに何か隠してることとか、ある?」
 月山の左手からスプーンがぽろりと落ちた。皿にあたって音が立つ。
「な、何、今の。ねえ、葉月くん、何っ」
 月山は感激したように両手を組んだ。おれは何かを予感してあらかじめ仰け反る。仰け反った分、月山が身を乗り出した。
「久しく!」
 月山がテーブルに手をつく。どうした。何事だ。
「久しくそういう態度取られてこなかったから!」
「……こなかったから、だから?」
 おれが目を細めると月山ははっと気づいたように腰を落ち着けた。こういうとこはちゃんと空気読むな。
「だから、きもちよかった」
「何?」
「葉月くんが、おれのこと気にしてくれてるの分かって」
「それで、きもちよくなんの?」
 月山は嬉しさと恥ずかしさによる伏し目で「うん」と頷いた。
「……この変態」
「えっ、何が」
「言いまわしが!」
 おれがピシャリと叱りつけるように云うと月山は一瞬、呆気に取られたような表情を浮かべていたが、ふいに訳知り顔になると。
「そっか。葉月くんも年頃なんだ」
 妙に感心顔でそう云われて腹が立たないわけがない。
「もうすぐ二十歳だもんね」
「ああ。だけどそれがどうした?」
「あんなにちっちゃかったのに」
「ああ、そうだったな。だから?」
 月山の左手のスプーンがカレーをぐちゃぐちゃかき混ぜている。こいつはミートソースパスタも混ぜて食うんだろう。いや、食う。食っていた。おれは月山との暮らしを思い起こしてみる。
「十年間、おれが何してたか知りたい?」。
 その言葉に、おれは静かに視線だけ上げた。なまじ整っているだけに笑みを消すと聞いてるこっちの背筋が伸びるようだ。ただ、ほっぺたに御飯粒が付いているのはいただけない。おれの気はそちらに取られた。
「葉月くんのこと考えてた」。
 その言葉を聞いた途端、御飯粒が見えなくなった。見なくなったからだ。
 おれの目は月山を見ていた。
 云い返すつもりだった。今さら何を、だとか、恩着せがましいんだ、だとか。

(葉月くんのお父さんだって本当に、葉月くんが見たことのある部分だけでできている人なのかな?)。

 おれはふと、とあるおそろしい可能性について思いをはせる。
 もしも違ったら。
 もしも嘘だったら。
 もしもおれの知っている月山が、おれのために作られた月山だったとしたら。
 時々腹を立てていることも、邪険に扱っても大丈夫だろうこいつなら、って見下した気分がいつもどこかにあるような、その程度の気持ちでいつもいられるのも、全部見通されているのだとしたら。
 
「葉月くんのこと、忘れなかったよ」。
 
 月山がにっこり笑う。おれはどんな返事をすることも、できなくて、そのほっぺたに付いた御飯粒を取ってやった。
「だから、今、幸せ」。
 こいつおれの親父だよな。
 こいつおれの親父。
 えへ、と恥ずかしそうに笑う四十間近の男を見ていておれは少しずつ不安になってきた。
「ねえ、葉月くん」
「何だよ」
「今度、葉月くんのバイト先に行っても良い?」
「あんた日本語読めんの」
 おれのつっこみに月山は「あっは」と笑った。笑って、それきりだった。
「そこは怒れよ」
 口調が拗ねたようになってしまったことを後悔する。
 月山が黙って自分のトマトをおれのサラダ皿にのせてきた。
「好き嫌いすんな」
 おれは月山のサラダ皿に返却する。
 十年の不在。
 トマト嫌いの月山に、何も秘密が無いわけじゃない。