昨夜は月山のくだらない思い出話に付き合っていたら寝るタイミングを逃してしまい、今朝起きた時にはバイトに持っていく弁当を作る時間が無かった。うん、だいたい全部は月山のせい。
 思い出話はおれの知っているものから知らないものまであって。壁側を向いて「ふんふん」相槌を打っていると月山がおれの父親だってことは本当だったんだなと思うようになっていた。
 実を云えば疑うこともあったのだ。
 月山は母さんの愛人であっておれとは赤の他人なんじゃないだろうか、だから月山はおれの気を惹こうとしてんじゃないだろうか、とか、おれの本当の父親は別にあって月山にも別の家族があってそこで養われているからこそこんな余裕で生きてんじゃないだろうかとか、おれに構うことはこいつにとって何のメリットがあるんだか知らないけど構ってくるんだから月山はおれから母さんの居所を聞き出そうとしているんじゃないだろうかとか、でもおれだって彼女の居場所どころか近況さえよく知らないし意味ねえとこにまとわりついたって意味ねえよって明言してやりたかった日もあったくらいだ。もしかすると月山もそんなおれの疑惑に気づいていて誤解を解きたかったのかも知れない。父親である自分しか知りえないような、例えば、尻にあるほくろの位置だとか、見えない場所にある傷の原因についてとか話すことによって。
 だが待てよ。おれのことを多く知っているからって父親だとも限らない。情報なんて人の間でいくらでも行き交ってんぞ。幼なじみの民也だっておれのほくろの位置くらい知ってるだろう。それなのにどうしておれは単なる思い出話なんかにほだされて月山を父親として認めたようなことになってんだろう。
 ああ、そうか。
 おれは月山に期待してんだ。認めていることはすでに前提にあって、あとはあいつに補強してって欲しいんだ。
 冷静に見れば、おれって、とんだ、あまえたがりなのかも知れない。
「そもそも、似てないんだよなあ」。
 たとえばおれのどこかが月山のどこかに似ていたとしよう。外見的な話。それだったらまだ親子の実感が湧いたかも知れない。だが、髪の色、瞳の色、肌の色、パーツ、スタイル、性格、それらどこをとっても共通点なんて感じられないのだ。おれは母さんの要素ばかりを強く、徹底的に受け継いでおり、もしかすると月山の執着の原因もそこにあるのかも知れない。ひとつには。
 月山の髪と瞳は茶色い。おれは黒い。
 月山の肌よりおれの肌は白い。焼けてもすぐ元に戻ってしまう。
 パーツで云えば月山はくっきりしている。おれは地味だ。目つきも悪い。もてない。
 スタイルは、どうだろう。おれのほうが背は低い。ファッションセンスにも自信は無い。(民也と買い物に行くことで多少は改善されてきた)。
 性格に関して云えば、月山の楽観的で能天気なところは理解できない。無神経にさえ感じることがある。
 とまあ、こんな具合だ。
 だけどな、とおれは続けて独り言を呟きながら、定食のサラダに箸を伸ばす。プチトマトを転がしながら、タナカさんも月山もトマト嫌いだったな、と思い出す。ここの共通点は単なる偶然だろう。この二人は似ても似つかない。
「だけどな、血が繋がってることってどこまで重要なんだ?」。
 トマトを口に含む。ぱちん、と弾けたその野菜から出てくる汁の香りを少しでも嫌だと思えれば、おれも少しは安心できるんだろうか。安心したところで、どうしたいんだろう。どうだっていいのに。
 
 ちなみに今日おれが昼食をとっているこの食堂は図書館の隣に併設されている。お昼のメインは日替わりランチだがコーヒーの種類も喫茶店並に充実しており、読書に利用する人も多い。
 ただ今日のところは人が少ない。おれの他には老夫婦が、窓辺でお茶しているだけだ。
 券売機に紙幣を入れる音がして、誰か来たな、と思う。
「はい、いらっしゃい。A定食ね」、おばちゃんの声がする。図書館スタッフだとか常連客に対するものとは声色が違う。てことは新参者だな。
 番号札を受け取った人物の足音がいったん止まる。どの席に座ろうかひとまず見渡しているところだろう。
 その人物は歩き出した。おれの傍らを通り過ぎ、窓辺のテーブル席に落ち着く。
 おれは、おお正解、と思う。初めての場所で外食をする際、メニュー選びと同じくらい大切なことは座席のチョイスを間違わないことだ。少なくともおれは思っている。だから彼がその場所を一瞬で選び取った時、さらに興味が湧いたのだ。
 最初の興味が湧いた直後、おれはもう一度、おお、と思ってしまう。
 ここで会ったか。
 響信哉。
 声を掛けてみるべきか。おれは躊躇する。躊躇する必要なんか無いのに躊躇する。
 そうこうしているうちに、A定食が運ばれてくる。
「ええ?」
 おれは思わず声に出していた。
 番号を呼ばれて自分で取りに行くシステムじゃなかったっけ、ここ。
 客人にA定食を届けたおばちゃんはどこか満足げだ。うきうきしているようでもある。
 ああ、そういうこと。この世の中、外見で得られる得があるってこと。
 月山といい、民也といい、響信哉といい、おれはしみじみ分かっている。もしもおれ自身も「得をできる部類」に入っていたのなら、そうは感じなかっただろう。だけど違った。だからこういった考察に行き着く。
 暗いな、と自責する。
 自覚はあるのだ自覚くらいは。
 おれはB定食の白身フライに食いつきながら、A定食のハンバーグをフォークで切り分ける彼の姿を眺める。サマになるなあ、と感心する。A定食がA定食って名前じゃないみたいに見えてくるから不思議だ。彼ならきっと、立食でうどんをすすっていてもネバネバの納豆を食べていても気品を漂わせることができるのだろう。
 おれが見惚れていると、響信哉は誰かに呼ばれたようにふいに顔を上げた。微かに顔を傾けるとおれと目が合う。
「……あ、どうも」。
 おれの挨拶はどこかしらじらしい。これまで一方的に観察していたことに対する罪悪感のようなものがあるからだ。
 響信哉は口をもぐもぐしながら小さく頷いた。こういう場合は飲み込むまで喋らないものなんだ、とおれは学習する。
「どこかで会ったか?」
 二人の距離、およそ五メートル。会話が成立するのはお茶する老夫婦の会話以外、遮るものが何も無いからだ。逆を云えばこの状態で出会ってしまって声を掛けてしまった以上、有耶無耶にするのは困難だということ。
「ああ、こないだ、駅で会ったよ。ひめかわくん、だっけ。とあと、おれ、きみと大学同じなんだけど」
 響信哉は、ふうん、とでも云いたげに目を細めた。悪気は無いのだろうが緊張する。
(云わなきゃ良かったかな)。
 民也と一緒にいるおかげで“免疫”はついているはずなのだが、そうか、種類が違うんだな。
 かっこいいだけじゃなくて、綺麗なんだ。整ったものはいつもおれを緊張させる。
「……ごめん、気にしないで」
 逃げ腰の自分に「おいっ」と内心、渇を入れる。いやだから渇を入れる理由も分かんないけど。
「ああ、あの時」
 ワンテンポ遅れて響信哉の視線が何かを思い返すように微かに逸れ、おれは頷く。あれは確か一昨日のことだった。ひめかわの笑顔は印象的だったからよく覚えている。彼が相手なら今よりおれは気楽だったろう。
 って、いやいやおかしい。絶対おかしい今日のおれ。
 民也じゃあるまいし。
「あの子、弟なんだって?」
 誰だおれの口を操って喋らせてんのは。
 手のひらは汗をかいている。
「オージのことか?」
 響信哉が、ぴく、と小さく覚醒したような反応を見せる。
「王子って名前なんだ?」
 響信哉は小さく頷いて、「今日もここへ来ている。地域の図書館を見たいって云うから」。
「ああ、なるほど。もしかして来年の受験生?」
「そうだ」
「へえ。ちっちゃいから中学生かと、」
 おれは口を噤む。
 響信哉は聞こえなかったようでハンバーグを白飯にのせて一緒に食べた。その食べ方に少し親近感が湧く。
「ああ。オージは、ちっちゃいからな」
「似てない兄弟、だね」
「まあ、父親が違うからな」
「……あ、そう」
 云われた。
 あっさり。
 云われてしまった。
 だけどおれは納得する。どう見たって響信哉には外国の血が混ざってる。
「あのさ、いっこ質問していい?」
「ああ」
「おれ、きみのこと何て呼んだら良い?」
 その質問に響信哉はこう答えた。
「信哉で良いんじゃないのか」

 ってことがあってさ。
 昼の出来事を民也に話すとやつはたいそう羨んだ。おれは久々に気分が良い。
「うわ、抜け駆け禁止だしっ」
 電話の向こうから不満げな声がする。民也が唇を尖らせているのが見えるようだ。
「何が抜け駆けだよ、偶然なんだから運命だ」
「嘘っぽいな。とにかく今度おれにも紹介しろよ」
「お前たぶん気持ち悪くなるから駄目」
「何だよそれ!」
 声を上げた民也は数秒間、泣き真似をする。おれは今彼の位置が公共の場に無いことを願う。
「……おい、民也ってば」
「……」
「民也? おーい?」
「……うらぎりもの」
「……」
 ぷちっ。
 通話終了ボタンを押したおれが顔を上げるとテレビを見ていた月山が振り返る。
「喧嘩?」
「違う。盗み聞きすんなよ」
「聞いたんじゃなくて聞こえたんだもん。……葉月くん、彼とはずっと仲良いんだね」
 月山が肩を落とす。
 今度はこいつか。
「腐れ縁だよ」
「わざわざ一日の報告とか、いる?」
 膝を抱えた月山が子供みたいに拗ねる。
 おれは夕食の支度をするため立ち上がった。冷蔵庫の中をざっと見て、野菜スープにしようと思いつく。食欲はあまり無い。月山はどうか知らないがおれがあまり無いからこれでいい。
 月山がチャンネルを切り替える音がして、夕方の子供向け番組のオープニングが聞こえてくる。
 おれは溜息を吐いてまな板と包丁を出した。
 そこへいきなり部屋のドアがノックされる。
「月山、出ろ」
 しかし月山はテレビに夢中だ。
 仕方無く自らドアに向かったおれは、訪問者が誰かを知る。
「葉月、大変アル。大変アル!」
 鍵を開けるとソーソーくんがぶつかってきた。いや、抱きついてきた。ソーソーくんは髪が長いから女の子に抱きつかれた錯覚に陥る。背もおれより低いし、そういった意味で悪い気はしない。民也に見られたら最悪だけど。
 ソーソーくん本体の接近に遅れてシャンプーが香った。
「えっと、どうした?」
「琥珀が行方不明アル!」
「琥珀さん野良じゃん。行方不明で当たり前なんじゃないの」
 落ち着き払った返答をするおれの鳩尾に重い衝撃があった。
「痛……っ」
「おま、何云ってるアルか! 琥珀は野良猫じゃねーよ!」
 急に男らしくなったソーソーくんにきゅん……どころの余裕じゃなくて正直おれはおののいた。
「え、なになに何事ー?」、奥から月山が顔を出す。
「あ、オトウサン!」
 ソーソーくんはおれより気軽に月山をオトウサンと呼ぶ。玄関から身を乗り出すと琥珀を見なかったかと訊ねる。月山が首を横に振ると小さく舌打ちした。琥珀さんに対する情熱はおれよりでかい。取り乱すソーソーくんを落ち着けるためにおれはひとまず話を聞いてみることにした。
 要約するとこうだ。
 今日の朝、琥珀さんのお腹を撫でていたソーソーくんは毛玉を見つけた。
 どうしても気になったのでカットした。
 ハゲた。
 琥珀さんは日中、姿を見せなかった。
 夕食の時間になった。
 琥珀さんはまだ姿を見せない。
 以上。
「明日になれば帰って来るよ」
 おれはソーソーくんを励ますつもりで云ったのだが逆効果だったみたいだ、気休めのように思われてしまったらしい。
「今までこんなこと無かったアル!」
 ソーソーくんは必死だ。
(そっか。だって琥珀さんはソーソーくんの家族、だもんな)。
 どうしよう、と取り乱すソーソーくんをそのまま追い返すわけにもいかなくておれは部屋に上げることにした。
「もう一時間だけ待とう。それで帰って来なかったら一緒に捜すから」。
 ふらりと戻って来るさ。
 おれの心にはまだそんな余裕があった。
(だって野良だもの)。
 同じ過ちは二度おかさない。
 ソーソーくんも少しは落ち着いてきたのか、うん、と頷いて月山の隣でテレビを見始めた。
 おれはまな板の上に野菜を並べる。ソーソーくんを加えて三人前が必要だ。
 その時、窓にタンタンッと何かが当たる音がした。
 ふと見るといつの間にか空を灰色の雲が覆っていた。遠くで雷が鳴り出した。そういえば琥珀さん、雷が大の苦手だったな。おれは思うが口にしないことにする。そうすればソーソーくんは今すぐにでも飛び出して行こうとするだろうから。