明日になれば琥珀さんもソーソーくんを許して帰って来るだろう。おれのこの目論見は甘く、三日経っても琥珀さんは帰って来なかった。ソーソーくんは日に日に精気を失っていき、どういうわけか琥珀さんが失踪したのと時を同じ頃から民也とも連絡が途絶え、緊急事態だなと云いながら月山は居候を続け、おれはバイトに行き続けた。

「何か気になることでもあるのかな」。
 カウンタの下で携帯をいじっていたおれはタナカさんに声を掛けられて慌てて画面を閉じた。すいません、と謝ろうとするとタナカさんはそんなことまったく気にしていないようで「気になることがあるうちは幸せだよ」と相変わらずのタナカさん節だ。おれは今のおれの状況にタナカさんを巻き込んでしまいたくなる。何、考えてんだか。おれはひとり小さく苦笑して視線を落とした。
 タナカさんは本に触れる時、白い手袋をはめる。それが今日は新しいものに替わっている。
「買い換えたんですね」
「あ、これ?」
 タナカさんは手袋をはめ終えた手を顔の横に掲げて見せた。いいでしょう、と子供が買ってもらった新しい靴を自慢するみたいに得意げだ。おれはタナカさんのペースにやわやわと癒される。
 家に帰ればソーソーくんが世界の終わりのような暗い目をしているしニート月山はもっちもっちと歯応えの無い何かを食っているしそういえば今日は家賃の引き落とし日だ。
「タナカさんって犬とか猫、飼ってます?」
 おれは初めてプライベートに踏み込むような質問をする。反応によっては即座に切り上げるつもりだ。なんせ、繰り返すが初めてなのだ。しかしタナカさんは動じなかった。答えは「飼っていません」だった。おれは今日はそれで満足してしまって家族のことまでは訊ねなかった。あれ、犬とか猫って家族のうちに入んじゃないのかな違うのかな。ま、いっか。なんにせよタナカさんに飼われた動物たちは失踪したりしないだろう。絶対に。

 その日のバイトを終えたおれは駅構内の待合室でいつものように人の流れを眺めて時間を潰し、時計を見て六時が近くなっていたので日課を止めてその足でスーパーに向かった。今日は何も作る気が起きないので惣菜を買おう、と思い惣菜コーナーを回遊しながら、いやいや、と考え直す。こんな時こそちゃんと手料理しないと駄目なんだ。
 顔面に柔らかくかけられたガーゼが一瞬なら平気だが一晩中ならやがて苦しくなってくるように、些細なことと見くびっていた小さな変化が少しずつ日常を侵食してっていつしか真っ暗にしてしまう。自分達さえ気づかぬ間に。
 琥珀さんの失踪にはその内本気で取り組まなくてはならないだろう。
 これまで当たり前だと思っていた風景から何か一つのパーツが欠けた時、どこがどう崩れていくかを知る。そしてそれがどう連鎖していくのかも。
 民也については完全に琥珀さんの件とは切り離して考えて良いが、おれに関わっている点では同じだ。
 帰宅すると月山がテレビから顔を上げて「おかえりい」とガキみたいに笑った。おれはその背中を軽く蹴る。
「暇なら琥珀さんを捜せ」。
 おれはキッチンへ戻ってスーパーの袋から水煮筍と人参と万葱を取り出す。片栗粉は残りがあったはずだ。今日はスープを作る。味付けには酢とラー油が入る。初めて作るレシピだがまあシンプルだったし大丈夫だ、なんとかなるだろう。おれは洗った手で包丁を握ると水煮筍の袋を切る。
「なあ、月山」
「何だい、葉月くん」
「母さんが家を出て行った時のことだけどさ、」
 おれは月山の気配に気を集中させる。だけどおれの体は水煮筍を切ることに、表面上は集中していることになっているから、結局は推測でしかない。振り返ることもしないし視界の端で窺うようなこともしない。
 おれが月山に向かって直接的に質問するのは初めてだ。母さんのことについて。母さんが家を出て行った日のことについて。
「原因、すぐに分かってた?」
 ざく。ざく。ざく。筍を細かく切る。筍は高い。だから細かく切る。
「これだろうな、って思い当たった?」
 ざく。ざく。ざく。かたん。
 おれは包丁を置く。
 月山はテレビの前であぐらをかいて座っておれを見上げていた。おれは月山を見下ろしていた。
 月山の目は薄い。色のことだ。柔らかな癖っ毛も。
 おれのことを見上げていた月山はゆっくりと頷いた。
「うん。分かってた」
 あ、そう。おれは興味を失って包丁を握りなおした。人参の入っている袋に先端を突き立てる。
「葉月くん」
「……」
「葉月くん」
「……うっせ」
「葉月くん、葉月くん」
「うっせえな。何だよ」
 今度は包丁を握ったまま振り返った。月山は一瞬びくっとした様子だったけれどすぐに気を取り直して、云った。
「ごめん」
「何が」
「おれが葉月くんを、」
 そこまで聞いて、おれは握っていた包丁を向けた。黙れ、という合図だ。断っておくがこの場合、殺意とか憎悪とかそういうのは全然無い。手にしていたのがおたまだろうが菜ばしだろうがやっぱりおれは握っていたものを相手の鼻先の延長線上に向けただろうし。
「云うな。それ以上」
 おれが念を押すと月山はこれまたゆっくりと頷いた。
 母さんの側に何も非が無いなんて思うほどおれももう子供じゃない。だからこそ真相はまだ聞きたくなかったんだ。月山はバカだ。バカだから、嘘がヘタだ。

 翌日、いつもより早くバイトに向かったおれは駅構内のドーナツショップで小腹を満たそうと、コーヒーとドーナツのセットを頼んだ。トレイを携え店内を見回すと、ひめかわくんと王子くんの姿があった。おれが「あ」と云うのと同じく、ひめかわくんが気づいて腕を振る。満面の笑みにつられて歩み寄ったおれを王子くんは一瞬「誰だこいつは?」とでもいうような顔で見上げた。そこには微かな怯えの色が混じっている。ひめかわくんが王子くんの手を掴むようにとんとんと叩いて、「ほら、こないだ会った」と思い出させる。王子くんは思い出してくれたのか、ぺこ、と頷きなのか会釈なのか分からない頭の動きを見せた。ひめかわくんが満足そうに笑う。
 ラブラドールとチワワ。
 ひめかわくんと王子くんを見ておれは実家の近所に住む二匹を思い出す。ラブラドールは子犬だった頃、しょっちゅううちの庭に飛び込んで来た。犬嫌いの母さんは良い顔をしなかったが犬を飼いたくても飼えなかったおれには隣家から飛び込んでくるラブラドールだけがじかに触れる身近な犬だった。おれはいつだってラブラドールの訪問を待ち望んでいた。ラブラドールもおれが待ってくれていることを分かっているのか、おれが学校から帰るなり飛び込んできた。しかし、やがて、ラブラドールは飛び込んでこなくなった。母さんが何か云ったのか。それでしつけをされてしまったのか。だとしたら残念なことだ。喜ぶ母さんと裏腹におれはしょげた。ある日、隣家の前を通ったおれは柵の外から家を覗いてはっとした。新入りがいた。ラブラドールはそいつに夢中でおれのうちに飛び込んで来る暇が無かったのだ。そうかそうか。おれは納得して母さんにその出来事を報告した。母さんは「失恋したわね、葉月くん」とどこか嬉しそうだった。そういうわけでおれの初恋の相手は人間の女の子じゃなくて耳と尻尾がやたらよく動くラブラドールだったということになった。母さんは満足しているようだった。おれは恋敵を観察するように新入りチワワの姿を見に行った。チワワはほとんど家から出て来なかった。ラブラドールは庭を駆け回ったりボールを持って来たりしてチワワを誘い出そうと必死だった。一緒に遊びたくて堪らない様子だった。チワワも努力はしているようだ。何度か縁側の端まで近付くとその辺りをうろうろした。ラブラドールが迎えに来ると怒ったように目を吊り上げた。だけどラブラドールのことは嫌っていなかっただろう。おれにはチワワが外を恐れているように見えた。何か嫌な思い出でもあるんだろうか。後におれはその家の住人から、その小型犬がチワワでは無くて雑種の成犬だと知らされる。保健所から引き取ってきたんだそうだ。「死にかけていたんだよ」。おれはどう見てもチワワっぽい小犬の様子をそれからも見に行った。ラブラドールは懲りなかった。諦めなかった。へこたれなかった。ある日、小犬はついに縁側から地面に降りた。降りた、というより落ちた、といったほうが正解に近しい。そしておれは幸運にもその瞬間を目の当たりにした。ぽて、と音が聞こえるような着地だった。おれはラブラドールと一緒に、宇宙船が無事に飛び立った後の管制室みたいに湧き立った。小犬がそんなおれたちに真っ黒い目を向けていた。
 王子くんの瞳は黒々としている。その目に見上げられておれは「来年、受験するんだってね」と話しかけてみた。王子くんはひめかわくんでなく自分のほうに話がふられたことに驚いたように息を吸って、無言で頷いた。おれはなんだか微笑ましい気持ちになる。
「良かったら、ここ、座りませんか」
 ひめかわくんには壁というもの一切無いみたいだ。おれは王子くんの顔色を窺って、あ大丈夫みたい、ということが分かったのでお邪魔させていただくことにした。
 それからの三十分間、喋っていたのはほとんどひめかわくんとおれだった。時々王子くんに質問をふると答えが返ってきた。向かい合った二人の真横に位置するおれは対照的なひめかわくんと王子くんの反応を楽しむ一方、王子くんの横顔ってすげえなと思っていた。さすが、父親が違うとはいえ信哉の弟。猫好きなおれにはたまらない、やや上がり気味の目をしている。って、おいおい。中年か。静まれおれの猫魂。
「ところで二人は今どこ泊まってんの」
 ひめかわくんが、信哉さんの家ですと答える。そうか。男三人が寝泊りできるスペースがある家なんだな。信哉には狭い家で暮らしているイメージが無いだけに頷けた。もっとも王子くんのサイズなら男三人弱、って感じかな。
「今日はこれから、市内観光です。な、オージっ」
 ひめかわくんにふられて王子くんは頷く。ドーナツを両手で持つ仕草がかわいい。
「……大学、も、ちゃんと見て来ました」
「そう、良かったね。受験勉強、はかどってる?」
「……はい」
「そかそか。ねえ、ひめかわくんのこと、好き?」
「……え?」
 王子くんの手からドーナツがぽろりと落ちた。おれの顔を見つめ返す。
「二人、仲良いなあと思ってさ」
 黙る王子くんの向かいでひめかわくんが頬を紅潮させながら大きく頷く。
「はい、オージとおれ、すっごく仲良いんですっ」
 テーブル下で、ごん、と音がした。ひめかわくんが「痛い」と腰を浮かせる。「うっせえばかずま」。王子くんのほっぺたがほんのり赤い。怒りなのか何なのか不明だ。
「あ、そうだ。いなくなった猫をさ、捜すコツとか知らない?」
 おれの質問にひめかわくんと王子くんは揃って首をかしげた。
「葉月さんの猫ちゃん、行方不明なんですか?」
 ひめかわくんが心配そうに表情を歪める。おれは慌てて首を左右に振った。
「いやいや、おれは飼ってないんだけどね。知り合いの猫なんだけど。猫は琥珀さんって名前。琥珀さんがいなくなってから、飼い主、あ、ソーソーくんっていうんだけど、彼すごい落ち込んじゃって。こっちも萎えるんで、早く出てきて欲しいなあ、と思って今日で四日目なんだよ」
「琥珀さん……って、どんな猫なんですか?」
 おれはひめかわくんと王子くんに琥珀さんの特徴を語る。
 もしどっかでそれっぽい子を見かけたら連絡します、と云われておれはひめかわくんとアドレス交換をする。おお。なんか感動。
「ま、でも今日は市内観光楽しんで来なよ」
「はいっ」
 ひめかわくんだけがやたら元気良く返事する。黙ってこっくりと頷いた王子くんの頭を撫でたくなっておれは膝の上で拳を握り締める。駄目だ。猫のようだ。駄目だ。王子くんは猫のようだから撫でたくなるんだっ。
「やっぱ、信哉に似てるね」
 おれの声に王子くんははっと顔を上げた。
「……信哉さんに、おれが?」
 どこか嬉しそうだ。きっと自慢の兄なんだろう。王子くんは口数が少ない分、滲み出る。おれは頷いて見せた。
「うん。似てるよ」
「……初めて、云われた」
 王子くんの表情が明るくなる。つられて笑うおれの横でひめかわくんが漫画なら汗たらたらでアウアウしている。大丈夫。横取りなんかしないよ。おれは民也じゃあるまいし。
 民也。
 そうだ。あいつのこと忘れてた。
「じゃ、おれそろそろ行くから。楽しんでおいで」
「はい、ありがとうございます。あ、途中で写メとか送りますねっ」
「……ばか、んなの迷惑だろ。あと、おれ、写んねえから」
 王子くんが拒否しているのが聞こえる。
 ひめかわくんが「だめだめ一緒に撮るのっ」と説得している。
 ったく。
 幸せなやつらめ。
 きみたちは男二人で違和感も無く向かい合ってドーナツを食うことがどれだけ親密さの証明になるのかちゃんと理解しているんだろうか。あと、ひめかわくん。きみはでれでれし過ぎている。
 
 久しぶりに幸せな二人組を目の当たりにしたおれの足取りは軽い。今日は早めに家を出てみて良かった。
 おれの周囲も早くなんとかしないと。
 まずは琥珀さんを捜すことが最優先だ。そろそろ琥珀さんも帰りたがっているだろう。ソーソーくんのトリミングが原因でハゲた部分も落ち着いてきた頃だろうし。もし琥珀さんの失踪がハゲた部分を恥じてのことだったらこんないじらしいことは無い。というか、きっとそうなんだろう。
 民也との交信が不通になってるのはおれがいわゆる「うらぎりもの」だからだ。お前が拗ねてる間におれは響信哉の弟とその彼氏の三人でドーナツ食ったしアドレス交換までしたぞ。って云ったら民也はどうなることやら。何気におれは今ひめかわくんのことを王子くんの彼氏だと云ったが正しいのだろうか。それはそれでしっくりくるし口をついて出た言葉はえてして当たらずも遠からずな場合が多い。
 関係性の定義って難しい。恋人と友人の違い。知り合いと友人の違い。家族と友人の違い。他人と友人の違い。全部マニュアルになってればラクだし困らないだろう。一方通行の想いなんてのも無くなるはずで、そんな社会だったら消えてく、むしろ、生まれもしなかった映画や本や漫画もあるんだろうか。携帯電話の普及で「すれちがい」演出が減った恋愛ドラマみたいに。まあおれは観ないけど。
 図書館に入った頃、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。おれは「もう写メ撮ったかひめかわくん」と苦笑しながら画面を開いて、唖然とする。
 写メは写メに違いなかった。
 ただしそこに写っていたのはひめかわくんでも王子くんでもなく、ソーソーくんが求めてやまない琥珀さんだった。送信者は民也からとなっている。
 本文、『無傷で渡して欲しければ逃走費用一億を用意せよ』。
 おれは民也の番号に電話する。すぐに出た。
「何バカやってんだバカ民也」
 電話の奥で民也がはあ、と溜息をついたのが聞こえた。
「あのね、のってよ葉月くん」
「のらねえよ。どこで見つけた?」
「河川敷。橋の下」
「まさかおまえそこで生活してたの」
「自分を見つめ直してた」
「あ、そう。琥珀さんは無事か」
「葉月くん、おれ泣くよ?」
「面倒だな。新しい自分は見つかったか」
「うん。あのさ、おれ今回の野宿で色々考えてて分かったんだけど」
「何だよ」
「葉月のことが好きなんだよね」
 ワン。
 ツー。
 スリー。
「……はい?」
「おれ、ソーソーくんが好きなんじゃなくて月山が嫌いなんじゃなくてお前のことが好きみたいなんだけど。どうしたらいいと思う?」
「いやいやいや待て」
「待つ」
「待つな。えーと、それは恋愛感情か?」
「近いと思うよ」
 あまりにあっさり告げる民也に不信感を覚えないでもないが冗談を云ってる様子も無い。おれは携帯を持ち直した。
「もし、もしだ。仮におれが民也にその感情をおれに対して抱き続けることを許可し容認したとしたらどんな出来事が起こる?」
「えーと、襲う?」
「恐!」
「うそうそ。ちゃんと計画立てますよ。合意の上でやりますよ」
「余計恐えよ」
「ていうか、こういうのって人から止められて無くなるもんじゃないから。許可とか容認とか無意味じゃねえ?」
「そうかも知れないけど……こっちはこんな形でいきなり告白されて戸惑ってんだよ」
「あ、ごめんね。電話で」
「そういうんじゃねえ」
 民也の背後で琥珀さんの鳴き声が聞こえる。なーん。なーん。なーん。甘い声で三度鳴いた。
「ああ、はいはい。そうですね。じゃ、葉月。そういうことだから」
「何が! ってか戻って来いよ。早く。じゃなきゃソーソーくん死ぬぞ」
「分かってます。用事が済んだら帰りますよ」
「まだ何か用事あんのか」
「えー、四日間お世話になったダンボールハウスに別れを告げようかと」
 はは。
 おれは笑って携帯を閉じた。
 
 はふ、と大きく息を吐いて石の壁に背をもたせかける。
 日陰になったそこは冷たい。
 ひんやり。
 そういえば最近蝉が鳴いていない。
 夏が終わるんだな、とおれは思う。
 どの季節の終わりより、それはちょっと悲しい。だからおれは戸惑う。