五分近く続いた沈黙の後、先生はようやくおれを振り返った。
「君以外の生徒でしたら一人残らず愛していますよ。ごめんなさいね」



い け な い よ



通りすがりのクラスメイトを捕まえてそいつの大好きな(つまり大嫌いな)炭酸水をがぶがぶ飲ませていたら幼なじみのレンに見つかり、事情聴取のためボート発着所まで連行された。以下、取り調べ内容。

「君以外の生徒でしたら一人残らず愛していますよ。……あの女、おれに向かって満面の笑顔でそう云ったんだ」
余った炭酸水をふがふが自棄飲みしながら、おれはレンに失恋の一部始終を打ち明けた。
「なるほど。そいつは酷いな。受け手に高度の理解力を要する冗談は一歩間違うと史上最強の凶器だ。彼女はそれを証明した。しかも彼女が、受け手に高度の理解力が備わっていないことを把握していなかったがためにそのダメージたるや計り知れない」
不真面目に聞かれても腹が立つんだろうが、こうも真面目に解釈されると却ってばかにされている気分になる。それも今のおれの精神状態がつくりだす妄想に過ぎないんだけど。
いや、普通にばかにされてるだろ。こいつが不真面目なのは火を見るより明らかだろ。
絶対うまくいく、って気がしていたのは自惚れだったのか。
もしかするとおれが苛立っているのは、先生の言葉よりもその自惚れに気づいたからかも知れない。
「……はあ」
入り江の向こうに最近出来たばかりの観覧車が見える。高い所は苦手だけど、今ならどこへでも昇れそう。
「だろ。おれを何だと思ってんだって話だろ」
「良くて蛆虫、悪くて人間?」
「人間?て、そんな哲学聞きたくないし」
哲学、とレンは不思議そうにおれの顔を覗き込んでくる。 ああ、そういえばさっきのクラスメイトに抵抗された時に眼鏡落としてしまった。 レンの顔はあまり見たくない。不思議そうな声の時本当に不思議がった顔をしている。
この年でいまだにそんな一貫性、ありえない。もう十五だろ。
「何聴いてんの」
気を取り直すように、レンの右耳からイヤフォンを引っこ抜いて自分の耳にあてる。
「聴いてないよ」
だったらすんなよっ、と投げ返すと「耳栓代わり」という言葉が返ってきた。
「でも、とにかく。これで禁断の初恋は終わったんじゃないか」
「何だかやけに楽しそうに見える」
「それはそうだろ。実際楽しいんだからな。これからはもっとリアリスティックでセーフティな恋愛しようぜ、少年」
「い、や、だ。幼なじみだけは嫌だ。お泊まり会の翌朝に自分のおねしょを人のせいにするやつだけは嫌だ。遠足の時水筒にファンタ入れてくるやつだけは嫌だ。人ん家の犬に眉毛描くやつだけは嫌だ。ジャンクフードばっか食べてるくせにおれより背の高いやつだけは嫌だ。イヤフォンを耳栓にしてるやつだけは嫌だ。草冠に車にしんにょうの名前の男だけは絶対に嫌だ」
「うわ、云う。こんな生徒フって正解、ああそっか、教師って正しかったんだ。伊達に大人面してないわ」
「人の弱みにつけ込む時は相応の見返りを覚悟しろよ」
「お前だって伊達眼鏡のくせ。似たようなもん。それに、自分ん家の犬に眉毛描けっつったのお前だろうが」
「何だと。伊達イヤフォンと伊達眼鏡を一緒にすんな、歴史の長さが違うんだよ、ばーかばーか」
レンと話していると自分の悩みなどどうだって良くなってくる。この世の中にはもっとどうだって良いものがたくさんあるんだな、と分かるから。
ちっちゃいなあ、おれたち。
大きく溜め息をつくとそれが引き金となって涙がこぼれてきた。
わ、この感覚久しぶり。
涙腺をこみあげてくる体温。
懐かしい。
見られませんように見られませんように見られませんように。願いながら横目で見るとレンがおれを凝視していた。不安的中。万が一の事態に備えて準備しておいたいいわけを述べようとすると、
「はいはい。目にゴミが入ったんだ、とか寒いこと云わないように。夏も終わり間近で秋風が吹いてるんで」
「そんな云い方ないだろ。こっちは傷心だぞ。推せ」
「ああ、そうだった、最近忘れっぽくてごめんねえ」
反省心のかけらもないことはその顔を見れば察しがつく。
でも。おいで、と誘った相手を云いなりにしてしまう魔法も持ってるわけでして。
ま、今日だけは、素直でも良いか。
眼鏡もないことだし。
「今のおれはお前の知ってるいつものおれじゃないからな」
「はいはい」
少し離れたところで男女が同じ格好をしている。
本日数度目の溜め息を吐いた。
「ま、年は近い方が良いんじゃないの。死ぬ時も一緒の確率高いし。死因が寿命なら」
「……だから、お前な。いちいちつけ込むなよ」
「良いじゃん。悪意じゃないなら弱みにつけ込んだって良いじゃん。好きなら何したって良いじゃん」
「はい、出た。秘技・暴君理論」
いけないよ。
思いも寄らないところから彗星って飛んでくる。
(好きなら何したって良いじゃん)。
それ、天然?
黄色ですよ、って云われて買った球根から、赤いチューリップが咲いた時みたいだ。

「あのう、レンさん。流れで抱き締められたは良いんだけど離れる時はどういうタイミングで離れたら良いんですか」
「え、もう飽きたのかい。バカップルごっこ」
いやあのさすがに白昼ですので公の場ですのでこの体勢破廉恥なのでは、と周囲に目線を走らせる。おれの内心を読んだがごとく鼻で笑って、レンはますます腕に力を込める。
「ああ、そう。嫌だからじゃないんだね。草冠に車にしんにょうの名前の男が絶対に嫌だからじゃないんだね。はははは、かわいいなあ、少年」
うわ今何かすっごい殺意覚えた。
「ま、とにかく。繕うのには相応のセンスと技術と経験がいるからさ、素直に生きなさい。あんまりな嘘吐きは世間が認めないよ」
「世間じゃなくて、お前が認めないんだろ」
「はい、出た。秘技・太宰的反抗」
太宰的反抗、と問い返すとレンは人間失格の一節をそらで云った。

それは世間が、ゆるさない。世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?
そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ。世間じゃない。あなたでしょう?
いまに世間から葬られる。世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?

太宰的反抗、太宰的反抗……。うんうん唸った挙げ句思い切って突き飛ばすと、レンは大袈裟によろめいた。だけど嘘じゃないのは知っている。嘘が吐けるほど脳味噌が発達していないんだ。計算した行動ができないんだ。お可哀想に。しかしおれはレンが湾に浮いていようが歩みを止めなかっただろう。
「なあ、ハーゲンダッツおごるから」
どうやら残存していたレンが追いかけてくる。
いけないよ、こんなの。
いけないよ、そんなの。
もしも落ちたら、おれ軽すぎるよ。
大嫌いなの、って云ってた猫を看病していた先生のこと、大好きだったんだ。だけど今は、もう別の人間にはらはらしているなんて。
おれの部屋で見つけた読みかけの本、そのタイトル見て、案外暗そうなの読むのな、って云ってたくせに、何、暗唱してんだよ、あのばか。あの、ばかめが。
いけないよ。
「……ヘーゼルナッツなら、おごられてやる」
「はいはい、了解。ヘーゼルナッツ・フレーバー、了解」
こんなの、絶対、いけないだろ。
心なしか、酸素、足んない。

060902