陽当たりの悪い部屋で昼夜読書に耽るために血色と発育の悪い小柄な少年の色白の指先が私の最も敏感な部分を摘むと一息に捻りましたので思わずあられもない声を上げそうになりますと少年はいよいよ面白がって私を虐める指先に力を込めますので私ったらとうとう我慢できなくなりましてはしたない痴態を晒してしまったのであります。……エコーのおぼっちゃま、真っ昼間から、そんなこと、いけません!



い け な い よ



ち、外したか。
振り返って確認すると、肩越しに投げた鉄製スコップは幼なじみレンの顔から僅か数p逸れて隣家との間にあるアスファルトの壁に食い込んでいた。
自分の耳がなくなっていないかしきりに気にしながらレンが「こいつ、信じられない」という顔をしているので云ってやった。
「何か?」
「何か?どころの騒ぎどころじゃねえよっ。お前、今、狙ってもいなかっただろっ。おれの顔にまともに当たってたらどうすんだよっ」
「ハンサムにしてあげられなくてすまなかったな」
語威力の乏しいレンは言葉に出来ない悔しさを何とか表現するために日本語以外の何語かを喚きながら芝生の上をごろごろ転がり始めた。
仕事が休みの母親が庭の騒ぎを聞きつけて縁側から下りてくる。しかしその顔には「何か面白いことがあったら暇潰しになってちょうど良いわねえ」的心情がありありと現れており、向かいの古賀家の長男が本気でおれに肉体関係を迫ってきた時にも笑いながら手を叩いて見ているに違いない女だ。
おれは、九月になってもまだ刺すような陽射しを避けるために帽子の庇をさらに下げた。
「まあまあ、どうしたの、レン君。今日は何なの。キャタピラごっこ?」
「貴女のご子息が唯一無二の幼なじみであるおれを殺そうとするんです」
「あら、いけないわ」
「違うよ、母さん。古賀家の失敗作が収穫途中のミニトマトに限りなく卑猥なアフレコするんだ」
「あら、聞きたいわ」
その言葉を受け止めたレンは、夏休みの絵日記帳だというノートを母親に差し出した。
「カエデのです。妹思いのおれは宿題を手伝ってやってるんです。今執筆中の日記のタイトルは、トマトの気持ち。エヘン、エヘン」
「あら、素敵。よもすると退屈になりがちな植物の育成観察日記を、これは植物の視点から書き出した画期的な作品なのね」
「さすが、マダム。芸術をお解りで」
そもそも古賀兄妹は夏休みがもう終わっていることを知っているのだろうか。
人知れず溜め息を吐いたおれの頬をカカオが舐めた。
「慰めてくれんのか?」
カカオは家で飼っている雑種の犬で、おれが小学校に上がる前、隣町に住んでいる祖父が祝儀だと云って持ってきた。何でも一週間ほど前から近所をうろついていたところを捕獲して首輪をつけたものだそうだ。
つまり、あのじいさん、ごみより厄介なものを寄越してきた。
だけどカカオは野良犬だった自分に餌を与えてくれる人間に多少なりとも恩を感じているのか、それとも自分がもともと歓迎されてこの家に迎え入れられたわけでないことを薄々勘付いているのか、近所迷惑になるほど吠えたりしないし、散歩の途中に他の犬とすれ違ってもお行儀良くしている。ただ単に喧嘩が弱いだけかも知れないが、賢い態度ではある。負ける戦は参戦しない。賢い態度ではある。
「ああ、お前にはおれの苦労が分かるんだ。優しいなあ、カカオは」
庭で栽培を始めるようになったのは去年の夏からだ。小学生の頃学校で栽培した経験のあるミニトマトから始めたが、去年は不作だった。
今年は、まあまあ、というところだろうか。
少し熟れすぎたように感じられるほど赤い実を一個ずつちぎって笊の中に入れていく。 その度に先ほどのレンの不愉快なアフレコが耳の中でこだました。
いけません。
いけません。
いけません。
「いや、しかし実際お前の農作業している姿ってのは裸エプロンに匹敵する何かがある」
「頼むから帰ってくれないか」
「エコーがおとなしく例のアレをさせてくれれば帰るよ。なあ、カカオ」
毎日のようにこの家に入り浸っている男のことを家族の一員のように認識しているのか、裏切り犬カカオは元気良く吠えた。
うぉん!
「お?今、うん、って鳴いたぜ。そう聞こえただろ?」
「ああ、聞こえた」
あの犬、後で河原に捨てて来よう。
「だいたい、させてくれれば、って、何をさせて欲しいんだよ」
一際不格好な実を摘み、口に含む。おいしい。そう思うのは、不格好なものは中身も不格好だと思い込んでいたからだ。ギャップが味をつくるんだ。外面が悪くても甘いやつって甘いもんだなあ、と当たり前のことを思いながら二つ目に手を伸ばそうとし、夕食のサラダを思って味見は一つにとどめておく。
なかなかさっきの返事がこないので、肩越しに、手頃なサイズの石を投げると、今度はアスファルトに当たる音がしない。遂にか、と思い嬉々として振り返ると、顔の横で開いた手のひらから石を取りだしたレンがにやりと笑っていた。
「おれが頼んだのは、宿題写させて、ってことよ?他に何か?」
殺意発動。
「おばちゃあん、ご子息がおれに恥ずかしいこと云わせようとしましたあ」
しかしその頃母親は午後二時からのワイドショーの<夏のダメージをゼロにする!秋のスキンケア特集>に夢中になっており、おれとレンの会話などとうの昔から聞いていなかった。
繰り返される平凡な日常を平和と呼ぶのなら、これもまた平和の一種か。にわかには信じがたい。誰か武器を。

あっ、と思った。
雲一つない青空から黒板に目を移し、そこに新しい英単語を書き並べていく白い左手の薬指に見つけた、きらりと光る契約の指輪。
そうか。
おれの片思いは、最初から散る運命にあったのだ。
「はい、今日から新しいところに入ります。ユニット7のページを開いて下さい」
振り返った先生とばちっと目が合うが、あの告白は子どもの冗談だったと信じているであろう先生はもとより、あの日一世一代の大舞台を踏む気持ちで先生に告白したおれ自身でさえ、もう自然に視線を逸らすことができるようになった。
時は、こうして、中原中也の詩に描かれた川のごとく、気が付けば、いつも、さらさらと、さらさらと、流れているのでありました……。
斜め前の席の生徒が左手で教科書を開きながら右手でメールを打っている。おれは携帯電話を持っていない。携帯電話は二十歳になってから持つことにしている。あいつはおれがそう云う度に「国宝級思想だな」と大袈裟に嘲笑してくるが、ないならない方が特だ。携帯することが当たり前の伝達手段を所持しているということはそれだけで厄介だ。電話したのにどうして出なかったの。メール送ったのにどうして返してくれなかったの。一言連絡くれれば良いじゃない。送信には返信を望む人々。生身の付き合いでさえうんざりなのに、それにも飽きたらずさらに電子まで飛ばし合うなんて神経が知れない。
ばかばかし。
と呟いてまた窓の外に目を遣る。新しい眼鏡がまだしっくりなじまず、活字を辿る気にはならない。先生の声に合わせて適当に口を動かしていると、先日、女子の先輩に「○曜日の放課後、音楽室の前まで来て欲しい」と頼まれていたことを思い出した。○の部分は何が入るんだったかな。水かな、木かな。木なら今日だな、それとも金で明日だったかな。
とにかく思い出してしまった以上、しぶしぶ行ってみると、予想に反してそこには三人の先輩がおれを待っていた。 事情を聞くと、おれに用事があるのは真ん中に立っている先輩で、両側の二人は彼女を鼓舞する係を担っているようだ。
「あの、何ですか」
なかなか切り出そうとしないのでこっちからきっかけを与えてやると、真ん中が遂に思い切ったように口を開いた。
発言に無駄が多いので、要約するとこうだ。
古賀蓮と私をくっつけなさい。
「あいつ頭が悪いから苦労すると思いますよ」
一応釘を刺しておいたが、それでも良いの、的なことを云うので、じゃあ自分が忠告することはもう何もないな、と思い、彼女のメールアドレスの書かれたメモを受け取った。
またしても携帯電話か。
さりげないメモのように見せかけて、配色や字体にこだわったのだろうな、と思われる渾身の作品だ。
あんな男相手にそこまでする気力のないおれは妙な感動さえ覚えながら図書室へ向かった。
予約しておいた作品集が意外にも厚かったので持ち歩く気になれず、気になっていた作品だけを図書館で読み終え返却し、さあ帰ろうとすると、校門の所でたまたまレンに出会った。
「何。部活?」
運動神経はやたら良いくせに「自由でいたいんだ」とレンは部活に入らない。かっこつけたことを云っているが、束縛されるのが嫌なだけだろう。あ、それが「自由でいたい」ってことか。
「居残り勉強」
勉強、と問い返す。
「来年は受験生じゃん」
レンがまともなことを云うので驚いた。そういえばやけに鳥が低く飛んでいるから、明日は雨かも知れない、って、薄々勘付いてはいたんだ。
江戸川乱歩を小脇に抱えたおれが歩き出すと、レンはカカオのように半歩後ろから付いて来た。
「ちょっと。横歩いてくんない」
スーパーたかおの前に差し掛かった時、とうとう我慢できず云った。するとレンは心底嬉しそうにおれの隣に来た。横に並ばれると、それはそれで、身長差が明白になってしまい腹立たしいが、今さら「さらに半歩後ろへ下がれ」なんて軍隊式なことを云えるはずもなく、黙っておいた。
「なあ、エコー。何かお前いつにも増してとげとげしくないか?」
「さあ」
自分の中で微かな予感でしかなかった部分を指摘されると、どきっとすると同時に、何で自分よりも先にこいつがおれを把握するんだ、という気持ちが沸き上がって、余計に苛々してしまう。悪い循環だ。
何もかもこいつがいけないんだ。
何もかも。
「あ、分かった。前の眼鏡が恋しいとか」
いっそ肯定しておこうかと思ったが止めた。
「本が重いなら持ってやろうか」
「結構だ。そこまでひ弱じゃない」
「じゃあ何をさっきからとげとげしてるんだよ。毬栗め」
「とげとげなんかしてない」
「してる」
「してない」
「してる」
「してない」
「してない」
「してる」
「ほら」
「く……卑怯だぞ!」
レンの発言に対して常に正反対を返答するおれの性質を利用した悪質な手口だった。しかしおれはレンに自分の感情の不自然な高ぶりを告白しないわけにはいかなかった。
「よく分からない。分からないけど、何かいらいらするんだ。不愉快なら先に帰ってくれ」
「生理?」
「沈めるぞ」
河川敷、犬を連れた老夫婦とすれ違う。そういえば、カカオを河原に置き去りにするの忘れていたな、と思う。だけどカカオは賢いから、どこへ捨てても家へ戻って来るだろう。としたら捨てる労力が無駄だ。無駄なことは嫌い。だから捨てない。まだ一緒にいてやろう。
おれは無理に意識をカカオに向けながら、自分が何にいらいらしているのか、本当は、解りすぎるほど解っていた。
ポケットに突っ込んだ指の先に、携帯電話のメールアドレスを記載した紙切れが触れる。
それがさっきから毒のようにおれを刺激して、駄目にしている。
「まあ、良いけどね。お前がおれに冷たいのは世界が平和の証だもんな。あ、そうだ。カエデの夏休みの宿題、遂に完成したんだ。ご協力ありがとう」
「ご協力などしていない」
「謙遜家さん」
「ついでだから教えてやるが夏休みは一月前に終わっている」
「まあ、まあ、そう云わず。おれにおごられなさいよ」
レンはこういうところが巧みだ。わざと回り道させる。踏ん切りのつかないおれが、心の中を整理する時間を余分に与えてくれる。
だけど、これも、自惚れだろうか。
先生の時だってそうだ。絶対うまくいく、って思っていてまさかの失恋。思えばおれのような生徒が先生を落とせるわけなかったんだ。先生も、もし自分の生徒から一人を恋人に選ぶんだったら、レンみたいなのが良いんだろうか。
そういえば、レンって、もてるのだろうか。
おれは何故それを知らないんだろう。
自分の心臓の音に自分の耳をあてることができないみたいに、近すぎて、不可能なことって、あるんだろうか。
「今日は、六十円の袋入りかき氷で良い。いちご」
「ああ、おれんとこはお前んとこと違って金持ちだから気兼ね要らないって」
「はっきり云うな」
「ハーゲンダッツが良いんだろ」
「かき氷が食べたいんだ」
「あ、そう。じゃあおれもいちごにしようっと。お揃い、お揃い」
その差額はね、おれが今からお前を傷つけることへの代償だよ。
何と何が等価かを正しく見極められるほど経験は積んでいないけど、せめてもの。

河川敷に腰を下ろし、袋の口を切った。
「しかし安いな」、かき氷を口に流し込みレンが云う。
中途半端に伸びた前髪のように不揃いな建物の隙間に、分度器の形をした夕陽が落ちていく。誰かの頭みたいだ。おれもいつかあんな頭になってしまうのかな、と思うと少し切なくなり、今日は頭皮をいたわるような洗髪を心がけよう、と、どうでもいいことを考える。
「な、エコー。お前、その量、食べ切れないっぽくない?」
「足りないのか」
「ええ。思ったよりおいしくて」
「ふん。やるよ」
こいつに悩みなんてあるんだろうか。
「……なあ、レン。お前さ、すごくすごくすきなひとがいて、そのひとのこと考えて夜も眠れないこととか、あんの。でもそのひとは自分以外の誰かをとっくにすきで、でも自分にも相変わらずやさしいとき、そのひととそのひとのすきなひとが喧嘩とかして永遠に口きかなくなったら良いのになあとか願って、そんな自分を嫌悪したり憎むことなんか、あんの。そのひとがそのひとのすきなひとに傷つけられるのを待って、願って、ひとを信じることをやめたら良いのに、って心底思うこと、とか、あんの。そうしたら自分が天使面してそのひとの手を取って、ひとりじめできるんじゃないか、とか、できそこないの妄想とか、すんの」
陽を透かした蜂蜜みたいな川面をじっと睨みながら、ああおれ今珍しく制御が効かない、と思った。
自分を見ている自分は冷静なのに、見られている自分はとっくに走り出している、この感じ。後で思い出して、いや、ってほど後悔するに決まってる。けど、この坂道長くって、もう止められない。
「エコー」、レンの手が顔に伸びてくる。
大袈裟に飛び退いてしまった。
「な、何だよっ」
蜜、と云っておれの唇の端を掠めながら、レンが困った声を出した。
「さっきのお前の台詞、質問文多すぎ、どれに答えたら良いか分からない」
指はちょっとしか触れていないのに、何だかそこがじんじんしてきた。痒いような、でも自分で掻いちゃいけないような、誰かに掻いて欲しいような、たぶん、もっとさわって欲しいような。
ああ、何これ。
きもちがわるい。
「なあなあ、エコー。さっきのもう一回云って」
「嫌だ」
「錯乱してる感じが貴重でかわいかったけどなあ」
「錯乱、って……。……おれだって、もう、忘れたよ」
へえそうなんだあ忘れちゃったんだあ残念だなあ録音したかったなあ、とレンが笑いを噛み殺しているのを横目で身ながら、本当に、今手の下にある石でこいつの後頭部をぶん殴って意識を失わせて、重しを付けてから川底に沈めてやろうかと、本当に思った。
顔から火が出そうだ。空が夕焼けで良かった。ありがとう、はげ。
「あのさ、これ」
ポケットから取りだしたメモを思い切ってレンに突きつける。
「何、これ」
「知るか」
まだ呆気にとられているレンが、小さく折り畳まれたピンク色のメモを開いている間に、おれは立ち上がった。家はすぐそこ。置いてけぼりにしたって、文句を云われない距離だ。平気。
「とにかく、渡したから」
鞄の中で教科書が揺れる。

「あ」
あ。
河川敷に乱歩忘れた。
玄関に入って後ろ手に鍵まで閉めた時になって、ようやくおれはそれを思い出した。
「面倒くさ……」
これくらいのことで本を忘れてくるようじゃ、いけない。いけないよ。

060907