あいつのせいだ。
前髪がはねてんのはあいつのせいだ。腕時計の針が刻々進んでんのも鞄の中に弁当箱詰めるの忘れたのも踵踏んだ靴が脱げそうなのもボタン掛け違えてんのも眼鏡のレンズ曇ってんのも横腹痛いのも息できないのもカカオが朝食抜きなのも極めつけに秘密のショートカットとして重宝していた荒れ地が建築途中の工事現場になっており利用できないのも全部全部あいつの、こいつのせいだ。
「そんな焦んなって。ゆっくり行こうぜ、少年」
「誰の所為だと思ってるっ」
「ええと、エコー?」
ちっげえよ莫迦が貴様だ貴様深夜に人の部屋侵入しやがってこの脳内ブランク星人がとっとと母星へ帰りやがれくそったれ。
「いや、だっておれの部屋にビデオデッキないんだもん。遺憾ながら最新のホームシアターセットしかないんだもん。いやあ、秋の夜長に戦隊モノってね。幼稚園の頃に録り集めたやつが突然観たくなったんだから仕方ないじゃん。ご近所にビデオデッキのあるお部屋をお持ちのお知り合いなんて三重家の息子さんぐらいないんだもん、今時」
立入禁止区域の看板を無視しショートカットを突っ切ろうとするが、レンの腕に阻まれる。
「優等生がそんなことして良いのかなあ」
「離せ」
「お前が健気にも無遅刻無欠席の皆勤賞なんか狙っているのは知っているけど、さすがにそれはどうかね。おれはおれの大事な幼なじみに、目標達成のためなら手段を選ばない人間になんかなって欲しくないよ」
「おれだっておれの憎たらしい幼なじみに人の睡眠を妨害してでも自分の欲求を解消するためだけに時刻構わず行動するような人間なんかにだけはなって欲しくなかったな。実に残念だ」
制止を振り切って黄色いロープを乗り越える。このショートカットを使えば最短五分で校門だ。状況が状況だけに、やむを得ない。
「ああ、もう。だからどうしてそんなに皆勤賞ごときにこだわるかな。一緒に重役出勤も良いじゃないか。一度遅刻すれば後が楽だって」
うだうだ云いながらも後を付いて来るレンをできるだけ引き離そうと、木材の山の上をジャンプする。
「あ、おい、エコー。そっちは、」
ジャンプの直前に声を掛けられタイミングが狂う。
「まだ何かあんの」、それでも何とか無事着地し振り返った拍子に、あーあ、というレンの顔に出会う。
「教えたげようとしたのに」
「何を」
「そっちは行けないよ」



い け な い よ



じんじんと痛む左脚を半ば引きずるようにしながら廊下を歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「朝っぱらからやけにボロボロの格好をしたエコー、おはよう」
「あ、バンビ」
バンビ、小鹿万里。
一年の頃から同じクラスの生徒で、学級委員だ。
「どうした。またレン絡みか」
バンビだけあってさすがに察しが良いのだけど、今回は割と自業自得。
急がば回れとはよく云ったものだ。
あの時おれは、青いビニルシートのかぶせてあった壕の上に足を踏み入れてしまっていたのだ。手遅れを嘆くレンの目前で無様に落下、「擦り剥いただけで済むなんて悪運が強いな」と感心するレンに、「本当に悪運が強いならお前とお向かいになんかなってない」と云い返しつつ保健室へ行くと、怪我を心配してくれた先生は「これは遅刻にならないわね。大変だったわね」と云ってくれた。素行の良さがなせるわざだ。

「なるほど、そういうこと。ま、どっちにしても相変わらずレンに振り回されてるわけだ」
楽しそうに笑いながらバンビはさりげなくおれの教科書とノートを持ってくれる。あの莫迦にもこれくらいの配慮ができればな、と思いながら理科室へ移動している途中、廊下の端に当の後ろ姿が見えた。髪の色が一際明るいので見つけやすい。
「あ、レンだ」
声を掛けようとするバンビを制する。
こちらに気づかないレンは一人の女子と向かい合い、何か喋っていた。
(あ、あの先輩だ)。
頭の中に、忘れよう忘れようとして却って鮮明に記憶されてしまった夕陽が瞬時に浮かんでくる。心臓が音を立てそうなほど収縮した。昨日だって、いつもみたいに追い返せば良かったんだ。戦隊モノに興味がない上に、あいつの娯楽に付き合わされる義理もなかったのに。
だけど、あいつが来るから。
その後が気になって眠れない夜に、あいつが。
あいつが、あいつが、いつもあいつが。
いけない。
「何話してるんだろうな」
何だって良い、とバンビの袖を引っ張りながら、バンビが「いや、もうちょっと見てようぜ」と云ってくれるのを期待している。
しかしそんな期待も虚しく「そうだな。授業遅れるもんな」と先を急ごうとするバンビに気の抜けた返事をしながらその場を去ろうとした時、目の覚めるような爽快な音が廊下いっぱいに響いた。
振り返ると、師範級平手打ちを喰らったレンが首を傾げながらも相手を宥める手振りをしている。
おれはバンビと二人して笑いをこらえながら先輩が立ち去るのを見計らい、その後ろ姿が見えなくなった頃ようやくレンの元へ寄る。
左頬が不自然に赤いレンへ向けて最初にバンビが声を掛けた。
「また女の子傷つけて。これで何回目だ?」
「うう、エコー。痛いの痛いの飛んでけ、ってやって」
話しかけたのはこっちだぞ、と云いながらバンビは先輩の去った方を見やった。
「なあ、レン。あの人、もてるんだぞ。何故ふるかな」
「今の云い方は筋が通らないぜ、バンビ。どっちにしてもおれはエコーの物なの。な、エコー」
「勝手に所有者にするな」
それはそうと。
「お前、あの先輩のこと、ふったのか?」
おれの質問にレンはますます首を傾げる。
「うん、そうみたい。だけど、告白されていないんだけど。そもそも知らないんだけど。さっき廊下ですれ違った時に引き留められて、いきなりビンタ。彼女によるとおれって真性のヘンタイらしいぜ。知らなかった」
「おれは知ってた」
そこでおれは先日の出来事を頭の中で巻き戻し再生した。
かき氷。
夕陽。
ポケット。
蜜。
メモ。
「嘘だ。知らないわけないだろ。おれ、確かにちゃんとメールアドレス渡しただろ」
「うん、もらった。お前の」
「は?」
「なあ、そういえば何で返信してくんないの。使い方分からないならおれが教えてやろうか」
手取り足取り腰取り、とレンがほざくが云い返す気力もない。
そうか、あのメモ、メールアドレスしか書いてなかったな。
「お、何。エコー、携帯買ったの?」
おれにもアドレス教えてよ、とバンビがポケットから取り出した携帯電話の、ストラップの人形を見つめながら、行き違いに気づいたおれは思いっきり溜め息を吐いた。
「で、レン。お前、どういう内容のメール送ったの」
「え、普通の」
「普通の、何だ」
「恋人同士が送り合うような、絵文字いっぱいの、愛いっぱいの」
「よし、バンビ。謎は解けたから行こう。授業に遅れる」
まだ何か喋っているレンを置き去りにして、おれはバンビと理科室へ急いだ。
「あいつのセクハラに日々耐えてるおれって本当にえらいことが証明された」
「どういう意味」
「いや、独り言」
その時ちょうど始業のチャイムが鳴った。おれとバンビはぎりぎりのタイミングで教室へ滑り込んだ。

十月に入り中間試験の範囲が発表されると、レンの訪問はいつも以上に頻繁になった。
「お前もう諦めたら」
方程式を覚えるよりもバレずにカンニングする方法を共同開発しよう、と持ちかけてきたレンに至極もっともなことを云う。
「だいたい本気で勉強したいんだったら、おれなんかより優秀な家庭教師つけることできるだろ」
おれのその言葉にレンがようやく返事をしたのは、星新一のショートショートの一遍をちょうど読み終わる頃だった。
「違う。……エコーは、おれのこと全然分かってないんだな」
「はいはい、歩く日替わりメニュー。今日は何だ。斜に構えた泣き落としのスフレか?」
アール氏は黙って立ち上がった。ベッドの上に寝転んで本を読んでいたおれは危険を察知し体を起こそうとするが、アール氏の方が一足早かった。奪い取った星新一を床に投げると、ベッドに押し倒したおれの上に跨ってきた。
「な、何だよっ」
力で敵わないことを知っているから抵抗はしない。無駄は嫌いだ。それでも、抵抗するということは相手に自分が今この状況を喜ばしく思っていないというその意思を伝える手段の一つである。でも、しない。確かに喜ばしくはない。こんな状況。だけど。
ああ、いけないよ。
こんなの。
喜ばしくない。だけど、止めろ、って云いたいわけでもない、なんて。
「怪我したところが痛い」
おれの、振り絞るようなその主張の嘘をいち早く見抜いたレンは、余裕たっぷりに微笑んだ。
「へえ、そう。そこは避けて座ったつもりだけど」
そう云いながらレンが膝で前進し、今度は鳩尾の上に座り込む。余計に苦しさが増した。
「なあ、エコー。痛いのは、怪我したとこだけじゃないんじゃないの」
「他にどこがあるんだ」
「恥ずかしくて云えない」
「開いた口が塞がらないな」
「色っぽくなら大歓迎。写真撮らせて」
そう云って携帯電話を構えるレンの背中に右膝蹴りを見舞った。
ベッドから転げ落ちた際に打ち付けた顎と蹴られた背中、両方の痛みに呻く虫けらを横目で見ながら眼鏡をかけ直し、拾い上げた星新一が無傷か確かめる。
「本を大切にしないやつは最低だ」
人を大切にしないやつはもっと最低だ、と小声で反論するレンの云い分ももっともだと思ったので、それに、確かにさっきの攻撃はちょっと力を込めすぎたし、おれは渋々読書を中断しレンの勉強を見てやることにした。
「やっさし。そんじゃ手取り足取り腰取りでお願いします。主に腰」
「却下」
いっそ留年すれば良いのに。

中間試験が開けて一週間後には廊下に学年順位表が貼り出される。
首席はバンビだ。おれはいつも次点に甘んじる。バンビのやつ、サッカー部の練習も毎日出ながら、学級委員の仕事もこなしながら、かわいい彼女もいながら、勉強の方も誰よりできるなんて、学生の鏡だな。次回からはおれもちゃんと試験勉強しようかな。
「さて。で、あの出来損ないはどうなったかな」
脇目もふらず左端まで歩き、そちらから順に古賀蓮の名前を探す。
「古賀、古賀……」
見つからないな、と思い、ワースト十位に見落としがなかったか再三確認する。
「あいつが十位以内から逃れるなんて気味が悪い。不吉だ。天災が起こる。早退したい」
ぶつぶつ云いながらさらに名前を探していくと、ちょうど紙の真ん中附近に古賀蓮が発見できた。
「あ、エコー!お前ちっちゃいから見つからないで困ってたんだ。なあ見ろよ、おれ凄いな」
いつの間にか後ろに立っていたレンがおれの首に腕を回し、おれがレンの成績上昇を祝福しなければならないような流れを作る。
「凄いのはお前じゃなくてお前に教えたおれだ」
「うっわ、カンニングさせてくれなかったくせに云う」
「どこのどなたが隣のクラスの生徒にカンニングなんてさせられるか教えてもらいたいね」
「はいはい。来年は裏金送ってでも同じクラスにしてもらおうな。そんな駄々こねちゃって」
「冗談は脳の作りだけにしとけ」
「ところで怪我治った?」
心配する気などもとからないレンの脚がおれの脚に絡んでくる。
「なあ、今日もお前の部屋行って良い?」
「試験は終わった」
「だから、そのお祝い。お礼のお土産持参だから」
「サーティーワンの、」
「抹茶とナッツトゥユーだろ。いつもの」
「パンプキンプリンとマジカルミントナイト」
「え、何それ」
「今月のおすすめフレーバーだ」
「おれのおごりを期待して調べちゃってた?かわいいね」
肩越しに顔を寄せたレンに耳元で囁かれ、思いがけず顔が熱くなってしまった。
「あんまりいじめるなよ、レン。その内本当に嫌われるぜ」
その横でバンビが苦笑している。
「とっくに本当に嫌いだっ」
バンビにさえ悪態を吐きながら、おれは、アイスという見返りがある以上レンの家庭教師をやるのはこれからもおれで良いな、と思った。 もちろん、アイスという見返りがあるなら、の話。それ以外の理由なんてどこにもない。感情なんて、もっと、ない。

060930
小鹿万里(コジカバンリ)、バンビ。