僕たちが常に持ち歩いているものは何でしょう。


イ ン ・ ザ ・ ジ ェ リ ー


これからゼリーになるみたいだよ。うん、ゼリーの原液だね、これは。 どんな形で一緒に固まろうか。着衣のままで、今となってはもうすっごく懐かしい校内の(だって中退しちゃったんだもん。今日)禁じられた聖域を漂うよ。 時折息継ぎのために顔を上げる。でも、ああ、もっと潜っていられたら良いのに。呼吸なんかしなくても水中にいられたら良いのに。 空気なんかない世界なら良いのに。そこにあるから欲しくなる。欲しくなるまで生きている。
「プールの水ってどうして青く見えるんだろ」
もしも空気がなかったら。なかったら音は伝わってゆかなくて、そうしたらこのくだらない会話も必要ないのにね。
「それはね、添島ちゃん。壁の色ですよ。水の色じゃありませんよ」
夕ちゃんがからかうように云う。てか、からかってる。
茶色い髪をそうやって後ろに撫で付けているとさ、何か別人みたいだよ。 いつも少し隠れちゃってる目元が突然露わになるとさ、何か知らない人みたいだよ。
やめてよ。
だって夕ちゃん、見るからに遠くへ行っちゃいそうだ。
そうしたら離れ離れになって、もう元に戻れなくなりそうだ。
でもいつか、確実にそうなるんだ。
「分かってるよ、そんなこと」、だから少し怒ったふうに聞こえたかも知れない。
いつもこう。
僕はいつもこうなんだ。

太陽は地上の生物をころすつもりでいるように照り付け、その思惑とは裏腹に生命力を増幅させた木々の緑が、痛いほどこの目に鮮やかに映る。このままでは視界がやられてしまう、そんな危惧を感じて再び水中へ潜る。陸で生きていた時間と水中に潜っている時間の量とを逆転させようとしたって、今さらもう仕方がないよね。
背面で浮かび上がる体の下を夕ちゃんが通過していった。
すごい、魚みたいだ。
「夕ちゃんは、お魚なのかなあ」
ぷかぷか浮いていると視界の端で水面が揺れるのが分かる。その一部になったような錯覚。なるほど、これが生きているってことね。オーライ、そこそこ綺麗だ。
次にくるりと体を返し、底で光の乱反射が麒麟の肌みたいな模様をつくっているのを見る。うん、で、こっちが死というものなわけね。ハロー、きりんさん。
そうか、そうか。
じゃあ僕は、こっちで良い。
きりんさんで良い。
こうやって太陽に背き続け、息を吸わなければ良いんだ。
誰も傷つけることなく、何を疑うこともなく、死んでゆける。

ふと僕は、世界中の人が世界中のプールで浮いている光景を想像する。がら空きのシャンゼリゼ。静まり返ったピラミッド近辺。人気のないグランドキャニオン。小さな生物は身を寄せ合うようにしてあちらこちらのプールで、場所のない者は洗面台に水を溜めて顔を突っ込んで、バケツ、茶碗、コップ。それすら持たない者は、きのう降った雨がつくった水たまりで。
死んでいると良いな。
あれ、でもみんなが死んじゃってたら、誰が発見するんだろ。
死を理解するんだろ。
変なの。ふふふ。
「でも良いじゃない」
その素晴らしいイメージは僕を、僕がまだ小学生だった頃に戻した。


「今日は、新しいおともだちを紹介します。さ、ここに立って。・・・お父さんの仕事の都合で東京から引っ越してきた、佐伯夕一くんです。皆さん、仲良くしてあげて下さいね」
してあげて、だあ?呆れた僕は、先生の顔をじっと睨んだ。意味もなく。
それからその隣に目を移す。
時期はずれの転校生は一瞬で教室中の女の子のハートを奪った。のが分かった。
ざわざわ。
ざわざわ。
先生の手で、黒板の上に横書かれた名前を見て、「さえき たー」に見えるなあ変なの、と思った。
たくさんの幼い好奇の目に晒されながら、でも少しも緊張したところのない態度で、転校生「さえき たー」、すなわち現在の「夕ちゃん」は同級生へ向かって自己紹介をした。
はじめまして、さえきゆういちです。とくいなかもくは、こくごとりかとたいいくで、にがてなかもくは、ありません。くらぶかつどうは、まえもさっかーだったので、ここでもさっかーをしたいです。みなさんよろしくおねがいします。
苦手な科目はありません、だあ?驚いた僕は、頬杖を崩した。
初めて見る夕ちゃんは、僕の斜め前に座った。だから斜め後ろの僕じゃなく、当然、僕の前の席に座っている子、つまり隣の子に最初に「よろしく」と云った。僕が見たのはその瞬間の横顔。
ただの、横顔。
二番目は嫌だ、とその時強く思った。三番も四番もごめんだ。夕ちゃんが何か話しかけたり笑いかけたりする時は、絶対、一番じゃないと嫌だ、と思った。
その時からもう始まっていたんだと思う。
あの瞬間からこの今に至るまでは、一筋の糸に通された数珠のように決められた 運命なんだろう。
運命。
そう、運命だ。


胸に手をあてると鼓動は少しずつ遅くなっている。酸素が送り込まれないからだ。僕が呼吸をやめて、今まさに糸の端と端をくくりつけてしまおうと、もうこれ以上一つの数珠も通せないように、くくりつけてしまおうとしているからだ。世界中の人たちが同じ時刻にそれぞれの場所で溺死する夢を見た後で、僕こそがもっとも美しい原液の中を漂いながら、もっとも美しく泳ぐことのできる夕ちゃんとゼリーになってしまおう、と調子づいたことを考えているからだ。
「添島ちゃんって、ほんと、くるってる」、夕ちゃんの優しい声がすぐ傍に聞こえた。どうして声が、と思う間もなく口から酸素が継がれる。
「ああ」、それは僕の声だ。どうして声が、と思う間もなくもう貪っている。

ゆるされている。
死なないことを。
ゆるされている。
生きないことを。
ゆるされている。
本当は、その、両方を、いつでも。

夕ちゃんの体内を隈無く巡るはずだった酸素だ、と思った途端、吸い込まなくては、という衝動が芽生えて、その通りにした。これを本能と 呼ぶのだったら良いな。産まれる前からプログラムされているものだったら良いのに。 そうしたらもしも交通事故とかに遭ってさ、何もかも忘れちゃってもさ、また夕ちゃんに触れるだろ。
柔らかい髪の毛。
藻みたいな感触。
冷たい温度の唇。
陸ではもっと熱いのかな。
知りたい。
もっと知りたい。
触ってみたい。
触っていたい。
目元を隠して誰にも見せないで、時々僕にだけ笑ってよ。
(ああ、ほら、お前が僕を自惚れさせてる)。
僕は、頭上に広がる無限の酸素を無視した。
今は、夕ちゃんが吐く息しか吸いたくない。
薄いシャツが軽い。ベルトもズボンも軽い。とにかく体が軽い。今はまだこんなにも軽い。
地面に足裏をくっつけて立つことを余儀なくされる世界へ戻らなければならないことを思って、誰一人として溺死しない世界を知って、僕たちはまた悪戯に耽った。
いつかきりんさんに届く日があっても、それはたぶん今日じゃないよ。
「うん、きっともっと先のことだ」。
髪の毛が乾いて元の夕ちゃんになっても、もっと時を重ねて知りすぎた大人になっても、時々僕にだけ笑ってよ。それ以上は口にしないから、ときどきぼくにだけわらってよ。

060727
「イン・ザ・ウォータ」より以前のふたり