二等辺三角形をした窓の辺を目でなぞる。
黒猫の尾のようにしなやかに、林檎の皮を剥いていくナイフに凶器の狂気を見るように。狂喜、それはもうほとんど驚喜。
手首の傷跡なんてもはや珍しくもないだろ。
今じゃ誰だって何か傷つけたがってる。
遠くの空が時折光っているのはカーニバルのためじゃない。もっと荒々しく露骨に醜く、それでいて、しらけてしまうほど現実的で愚直なもののためだ。愚直、そう、愚直。誰も彼も身を翻すことが不得意なんだ。そして爆撃機は今日も花畑を飛び立つ。


ミ ト ン と シ ー ザ


白くふかふかの枕はベリージャムの詰まったマシュマロのようだな。脳の詰まった頭蓋骨のようだな。うずらの卵みたいな音を立てて、割れてよ。イマジネーションを束縛する殻を、破壊してよ。ヘッセの小説に出てきたあの鳥のように。
僕はふと首を傾げて、二等辺三角形の窓が外側から開けられていく様子を認めた。
彼はまったく奇天烈だった。
顔や体つきは人形のように整って申し分なかったから、きっと格好のせいだろう。格好、そう、特に莫迦げた帽子のこと。窓とまったく同じ形をしているんだ。だから彼が僕と窓との間の床の上に降り立った時、月食よりも日食よりも不可思議なものが見えた。
二等辺三角形、光の輪郭は僕の顔面に重心を保って寝台に落とされた。
液体が、カポポ、と音を立てる。
ふと思った。どうして僕はその液体の正体を知らないんだろう。猛毒かも知れないのに。それでも良いのに。ここはきっと病室だから、僕の体に注がれているものは秘密めいた甘い猛毒などでは決してなく、僕を再びこれまでの世界へ連れ戻してしまうあまたの大人の手先、栄養剤だとか薬品だとかそういう類の液体だろう。
「切り離してあげても良いよ」、云う彼の表情は逆光で見えない。
僕は彼の名前を知らない。
だけど僕は彼という存在そのもの、そこにある肉体そのもの、精神そのもの、生命そのものについては随分と前から把握していたように思う。
「お邪魔するよ」
歩み寄ってきた彼は僕の枕元に腰を下ろすと、自分の顔が僕に見えるようにか少し顔を傾けた。
青い目だった。
ただしそれは名前のない青だった。
「仕事なんだよ。ノルマがあるんだ。まあ、達成できなかったら罰則がある、だとかそういう、いかにも人間の営み的なものではないけどね。ただ、僕は、人間になりたいと思っているものだからさ。次の太陽が顔を出す前に、この病院であと一つ、あと一つだけ灯火が必要なんだ。それで、夜分遅く、個別にドアをノックしているというわけ。おっと失敬、ドアと窓の区別が付かないのはご愛敬さ。ちなみに君のすべき返答はシンプルなもので結構、ウイかノンで結構。ノンと云えば僕は君の記憶からも去るよ。そして明日の太陽は君にとって、今まで見たこともないほど素晴らしく輝かしいものに見えるはずだよ。つまり、今夜は君にとっては最後の夜なんだな。あらゆる意味で。そういった意味で」
詩を朗読するように説明を垂れ流す彼の唇は溶けた蝋の艶。
火のもとにありながら水よりもなお澄み、しかし指で触れれば白濁の固形になってしまう。汚れて、凝固して、つまらない何物かになってしまう。
僕は手をかかげることを止め、枕の上でぎこちなく、やや首を傾げた。
そうすることによって彼の伏せ勝ちな睫毛の長さがよく分かったのだ。
「deathは老人の姿で現れると聞いた」
僕の言葉に彼は朗らかに笑った。
その笑い声といったら聞いているこちらが清々しくなるほどで、隣室の人間を起こしやしないかと心配になったほどだ。
「大丈夫。僕の声は、僕が話しかけた相手にしか聞こえないのさ」
明らかに僕の心中を察し、彼は云った。そしてこう付け足した。
「そして僕の姿は、僕が向き合った相手と等しくなるのさ」
当然のことを話す口ぶりで云われたって、僕はそれを鵜呑みにはしなかった。
彼は自分をミトンと名乗った。
「ミトン?手袋?」
「そう。何をしたって汚れない手、の意。これだけで君達人間とはえらい違いだろう」
「汚れない手の持ち主だっている。人間にだって」
「それは、汚れないんじゃない。汚さないんだ。汚さない、と云うのはつまり、汚れる、ということの裏返し」
「君は僕の命と引き替えに人間に生まれることができるんだね」
「引き替えに、と云うより、順序なんだよ。僕は今のところ随分と退屈だからその時期を早めたいんだ」
「よく分からないな」
「分かってもらおうとして喋っていないもの」
「あ、そう」
「問題は、君が、自分の生命に未練があるのかないのかってことだけだよ。おそらく半々だろうね。何せ、さっき僕が窓を開けてこの部屋に入って来た時、君は神様でも見るような目をしたじゃないか。普通は瞬きだってできないほど怯えるんだぜ。バルコニーのない七階だぜ」
僕はミトンの肩越しに夜空を見た。星座の位置を確かめ、夜明けまでの時間を計算する。
まだ余裕がある。
「良いよ。僕の灯火をやるよ。その代わり、交換条件がある。それを守って欲しい」
「条件?例外。だけど、認める」
これ以上病室のドア、いや窓をノックして回らなくて良くなったという安堵感からか、ミトンはすっかりくつろいで、ベッドの中に潜り込んできた。
「あたたかいね。deathは冷たいと思っていた」
「その呼び方やめろって。ミトン。手袋のミトン」
「ああ、ミトン」
「deathは冷たいよ。ただ、そういうのは自由自在なんだ」
「体温のこと」
「体温だけじゃない。髪の色、肌の色、目の色、輪郭、年齢、体格、声、身なり、喋り方、そういったすべて。殻の部分の全て。だってそういうのって、関係がないだろう?」
「あると思うけど。人は見た目に左右される生き物だ」
「そう思って生きている人はね」
「ま、どっちにしてもすごい特技」
「先天的なものなんだ。特技というわけでは」
ミトンは照れたような怒ったような不思議な表情を浮かべた。ぼくは気づかないふりをした。
「ふうん。それで、ミトン、君は僕の灯火を受け継いだら何がしたいんだ」
「そうだな。まずはこんな所をさっさと抜け出し、カフェオレをたらふく飲むね。この街じゃみんなあれを飲んでる」
「僕は嫌いだ」
「僕は嫌い?それって、みんなが好きだから、だろう」
「どういう意味」
「あまのじゃくってこと」
「何を、」
「それに」、僕の反論を遮ってミトンは続けた。「満腹という状態がどういう状態なのか分からない。それを知りたい」
「ツィギー横丁の四つ角、ナターシャ・アンド・ミックスのハニートーストをおすすめするよ。僕は毎日のように食べていたな」
「の割に太っていないな」
「ここに来て痩せたのさ」
「へえ、そう」
ミトンの手がワンピースの中にのびてきて、触感に慣れない表面に直に触れる。
僕は諦めて身を任せた。
だけど冷たいのはミトンの手ではなく、熱いのが僕の体なのかも。
「そんなに好きなハニートーストにだって、もう、未練はない?」
「そういう考え方をしないだけ。未練という概念はくだらないよ」
「子どもとは思えない口のきき方を」
「君の中の子どもの定義が調子外れなんじゃないのかな。それに君こそ」
君こそ、子どもとは思えない手つきを。
そう云おうとしてやめた。
ミトンには珍しいんだろう。
煮えたぎる直前の鍋のようにことこと喋る心臓、遠い国の言語で必死に何かを訴えているような、まるでそれ自体が一個の独立した生き物のような心臓が、薄い皮膚の下で、クレープ皮に包まれたジューシーなストロベリーのように確かにそこにあるのが。
「ねえ、ミトン。君の手つきは母親にすがる赤ん坊のようだね」
そう云うとミトンは、何もかも意図的だったと云わんばかりに、くすっと笑った。
「君が少年だということは分かっているよ。女性の体では、ないね」
ところで君の名は、とミトンが訊ねるので僕は咄嗟に「シュナウザ」と答えた。偽名だってことは分かっただろうが、名前なんて記号で良いんだ。すべての名前は偽名であり記号なのだから。
「それにしたって、シーザは随分冷めているね。僕は君のそばを今しばらく離れたくないよ。理由を聞かせてくれないか。その、しらけた態度のさ」
いつしかミトンは弟のようにあどけない顔をして僕のことを上目遣いに見ている。
この、deathめ。
僕は枕の下に手を入れて深呼吸をした。
まったく、この、deathめ。
「つまり、食料にされている気がするんだよ」
「食料。ストロベリーやハニートーストのような、か?」
「ただし他人が食べるのは僕の血肉や骨ではなく、今この部屋にある現況と、その先に伸びているであろう未来。見え透いてしまった未来。それらを喰らった暁に肥えていくのは、優越という名のピッグさ」
「ふうん。ひどい言いぐさだな。こんなに良い部屋に入れてもらって。僕がシーザの立場だったら是非に維持したい状況だよ。これだけの花や果物があるってことは、それだけ訪れてくれる人がいるってことなんだろう?」
「それさ。まさに、それさ。僕は訪問客のディナーでしかない。彼等は寝たきりの僕の姿を見て、花より良い臭いを嗅ぐのさ。ここにあるより多くの果物を食べるのさ。それで満腹なのさ。そして僕はそれが気に食わないというわけなんだ。順序や理由なんてないんだ。悪い人なんていないんだ。最初からそれだけの事柄で、それ以下にも以上にもならない、とても自然なことなんだ」
「何を云っているのかよく分からない」
「冗談だろう」
「すごくよく解るよ、と云ったって臍を曲げるくせにな」
「異議なし」、僕は笑った。「とにかく、愛なんてない、って話さ。少なくとも僕の道の上に」。
ふと見上げると、二等辺三角形の窓がまた少し開いている。
隣のミトンに目を戻した。
溶けた蝋の艶を持つ唇。
青い青い目。
「交換条件のことなんだけど」
枕元に手を突く。
ミトンは怯む様子もなく僕の目を見ている。
その瞳孔の奥へ蝶が隠れた。
「こういうことなんだ」
約束を守るだけさ、
ミトンの唇に唇を重ねた。
体を離すと、もう一度、瞳の中を追いかけるように、再度顔を寄せた。
開閉する蝶の羽のように、繰り返し、繰り返し。
開いた窓から夜風が吹き込んでくる。
月と星の光が流れ込んでくる。
そして、流れ出していく。
僕たちの体温は。
あの遠い宇宙へ、届くはずもないのに。あちらから見れば、こちらの方が青いんだろうか。こちらの方が、名前のない青だろうか。ここはまだ青いだろうか。僕はまだ青いだろうか。僕たちはまだ青いだろか。これからもまだ青いだろうか。
否、いま青を棄てた。
「呼吸ぐらいさせろよ・・・。何だ、今のは」
「さあ」
僕の唾液で唇を光らせたミトンが、怪訝そうに僕を睨む。
「気持ちが悪い」
「気持ちが良いって云っとけば生きやすいかも」
「どういう意味」
「餞別代わりの助言」
床の上に落ちていた帽子を拾い上げ、僕は目深に被った。窓辺まで歩み寄り、最後にもう一度だけミトン、いや、シーザの方を振り返る。
病状を交換し合った僕らは、共犯者特有の意志疎通を交わし、悪戯完了の意味で微笑み合った。
「じゃあな、シーザ」
窓の隙間を大きく開き、身を投げた。落ちていく途中、何度も蝶とぶつかった。
七階は高い。
その間退屈だから飛び方を覚えてしまおう。
「じゃあな、じゃあな」
だから翌朝になっても僕の死体は見つからない。四つ角でハニートーストが一枚だけ消える。それだけ。地平線の上で爆撃機が飛び立つ。遠くの空がパレードのようにきらめく。血の色。薄れてゆく愛の色。ハニートースト。death。薬品。火花。シーツ。石鹸。ワンピース。光。ミトンとシーザ。逃げ出したのは、ミトンとシーザ。

21:10 2006/12/07