冷たい土の中で来ない春を思う。 果たされない限り裏切られることもない。 それほどの幸福って、誰だって、ぼくだって、きみだって、もう持ってないだろう。


楽 園 を も っ と


曰く、「雪はいいんだよ雪はちゃんと溶けて無くなるから」。
溶けるってのは良いとして無くなるってのは正確にはありえない話だよこの惑星は脱出不可能のいわば大密室なんだから、と突っ込むのをやめた。そんなことをして一体何がどうなるというのだ。この子の機嫌が少し悪くなるのだ。それはどうだ?それはいやだ。
昨夜のこと。太陽はこっちへ昇ったんだよ、そんなきみに騙されてここまで来たね。畦道の両脇に曇ったビニルハウスが並んでいて、中はオレンジ色の光が照っていた。視力の極端に弱いきみが太陽と呼んだのはこのことか。道沿いに何個も何個もいわゆる太陽が並んでいる。もうすっかり先へ行くきみの白いフードが歩調に合わせてはねて、ぼくは、ああやっぱりあの猫を殺したのはぼくだった、と思った。自白は本当でぼくは嘘つきじゃなかった。 分かってる、遠景のかなたにだって帰る場所はない。だけど先にいくつもの光源があって、それを太陽だと信じてるバカが現にいる。
「早く、早く。ここはあったかいよ。確かね、太陽が五個あったと思う」
こいつだ。
振り返ったきみの手がもう戸にかけられる。立ち止まれば雪が積もる。 小学生の頃分からなかった問題がいますべて解ける。弾けなかった曲が弾ける。云い返せなかったロジックを崩壊させることができる。 無言でねめつけた視線を、その瞼で遮断することができる。弱いふりをして弱さを隠した。罵って真剣さをぶちまけた。 蹴散らせるのは雪ばかり。人になれないほどに人で、人と接続できない程度にはまだ人だった。この程度の持ち合わせで、どうやって人になればいい。 誠実を織り交ぜた不誠実の中で、自分を欺かない程度に他人を欺いて。うれしくもないのに笑って哀しくもないのに泣いて。 簡単な言葉で何かを語ることもできなくて。語彙ばかり増殖して。ウイルスみたいに。いや、ウイルスのほうは生きている。 ぼくのコレクトした語彙など貯水池を濁らすだけじゃないか。
「サザンカ」。
ああ、その響きで何かが明けてゆく。
街は静かで一様に幸福の方角を向き、誰も彼もこのささやかな絶望に目を向けようとしない。サザンカ、誰の名だ、ぼくの名だ。 左のポケットに唯一の愛玩が入っている。柄を握りしめて少し笑う。もしも代償が受理されるのならば、 ぼくはもう一度だけならきちんとほほ笑むだろう。もしも永遠に罰されるというなら、ぼくがこの世に産まれたという大罪も少しは許されるのだろう。

ああ、未来が分かるよ。今からぼくはきみを殺す。

こんなに寒い日だ。永遠は脆く溶けやすい。ほら、ちょっと目をそらしてる場合に億個の星が落ちてくる。おいで、木星。おいで、金星。神様。違うよ、あれにはまだ名前がない。畦道に二人の歩いた証拠が残ったが雪にかき消される。ふたりそれぞれの十九年がいま溶けてなくなる。ビニルハウスの中で疑似春季が咲き乱れる。血ほど雄弁な哲学者はない。きみが幼い唇して「夢はヨーセイ」と呟く。妖精でも良いし夭逝でも良い。ぼくが露骨に自分のふがいなさを述べても、血は絶えず溢れる。ここがまだ地上だなんて思えない。楽園じゃないのか。もっと、もっと。楽園をもっと。差しのべられた小さな手がぼくのほっぺたを掴み、笑っていいよ、と命令する。幻だったとして、ぼくなど命令されるにも値しない最低だとして、だけど確かにいまここに拡がってゆく、この、この溢れんばかりの愛を何に喩えたら良い。

10:48 2008/01/03