シャワーの音が止んだのと同時に運転免許証を元あったところに戻した。冷静に、冷静に。
(ぼくの復讐の相手はやっぱりこいつだ、間違いない)。
確信だけははっきりと持ち。
テレビの電源を入れ台所へ行き鍋から薄味の肉じゃがを皿によそう。ちゃぶ台の上に白飯と豆腐の味噌汁、それからおそらく薄味の肉じゃがとお箸を二人分整えたところで浴室のドアが開く音がした。
「タオル、ちょっとちょっと、バスタオル持ってきて」
ぼくは魂まで抜けてってしまいそうなくらい大きな溜息を吐いたが相手に届くわけもない。分かってる、だからただの気休めだ。
「エンジさん。おとといは下着、その前は石鹸、今日はタオルで明日は何を持ってこさせる気、です」
差し出したバスタオルが渡る際、濡れた手に手首ごと持っていかれそうになる。せっかくそらしていたものをどうしてそう無理に元に戻そうとするかな。ぼくが全力でふりほどいた手がエンジさんの顎に思いがけない一撃を与える。
無理もないでしょ。
しゃがみこんだ年の差十七歳のおっさんのことをぼくはくれぐれも心配してしまうことのないよう、念には念を入れて丁寧に無視をした。させていただいた。


復 讐 の 相 手


夜が更けてゆく。刻々と深くなってゆく。電車も眠れ。近所のコンビニエンスストアの駐車場にたむろしていた同年代の少年少女たちがおやすみを云い合って分かれて行くのが聞こえる。
(非行でもなんでもないじゃないか、おやすみをちゃんと云えるなら)。
ぼくは眠れず寝がえりをうった。冷たい布団が気持ち良い。冷たいものはいつだって気持ちいいんだ。温度だって態度だって。真新しくて、関係がないから。これまでも、これからも。

「眠れないの」
いきなり声をかけられた。
だからって、驚きもしないや。
エンジさんが寝ているところを実際ぼくは見たことがない。朝はぼくより早く仕事へ行き、夜はぼくより遅く布団に入る。ちゃぶ台の上にろうそくの光を灯して、わけのわかんない本を読みふけってるんだ。
「べつに」、ぼくが寝がえりを打ってエンジさんを向くと彼が「おれは一睡しなくても不死身だからだいじょうぶ」って顔で微笑んでいたのが、カーテンのない窓から入ってくる月の光(おそらく)で知れた。
「おれが、だよ」
しばらく考え、さっきの「眠れないの」が疑問文ではなく自分のことを云っていたんだと気づいてぼくは頬の裏側がどうしてもむずがゆくなった。
「眠れないのはどうしてですか」
「うら若き少年がすぐ横で寝がえりをうつからね」
すっと目を細めたのが見えたのかそれとも殺気を感じ取ったかエンジさんは「まあまあ」とおとなぶって云い、これから子守唄でも歌いだすんじゃなかろうかと案じるくらいにゆっくりと静かに、まるでぼくが逃げ出すのを恐れているみたいにゆっくりと静かに、枕の上で片肘をついた。
「眠れない者同士うまくやっていこう。せっかく二人しかいないんだから」
「はあ、」
「ノリ悪いね。それとも癖、それ」
「両方です」
相手は、はは、と笑った。
はは。
この、妻子ある男が。
聞いた限りでは、少なくともぼくが派手好きなぼくの母親から聞いた限りでは、こんな性癖なかったはずだ。調査不足ではあるものの、付け入りやすいという点では福となれ。
「なんのつもりです」
「うん、据え膳を食べようと思ってね」
布団の中の一点で動きを止めた手が、ぼくに力の差を教える。ガゼルの急所にかみついたライオンみたいに、運命、どころか命まるごとその手の中にあると教える。
「口先だけでしょう」
「本当だよ。ただ、きみがどうしてもと云うなら止めないこともない」
「好きにしてください。ぼくは、明らかにぼくより力で勝っている相手からの提案で得をした覚えがありませんから」
ぼくがどうだっていいと思っているものを他人がどう扱おうが構うわけがない。所有者に見放された身体はもういっそあんたの性癖満たされるまで食い潰してくれたまえ。
と、ぼくの気持ちはだいたいこんな具合だった。
エンジさんはしばらくの沈黙の後で「だからおもしろい」と叫んでぼくを抱き枕のように締めた。
「すきだ、これだから、だいすきだ。よし。そうだ。ひつじを数えよう、時々おおかみを混ぜよう」
エンジさんはこうして今夜もぼくを寝かせてくれない。
この家の世帯主は倫理的に狂っている。

朝日がのぼってアパートの裏から鶏の鳴く声が聞こえてくる。とんだ寝坊介だ。人のこと、云えないけど。人ではなくて、鳥なんだけど。
「コンくん。御手隙なら靴下をはかせてくれないか」
ところで。ここで。
コンというのは本名じゃない。
ぼくの名前の中に狐という漢字が混じっていて、それが由来なのだ。そうだ。エンジさんに云わせると。もう死んだ両親から与えられた名前などに執着はないが、だからって気に入っているわけでもない相手にこうもたやすく愛称チックに呼びつけられるほどの仲でもない。正直ぼくはひどく悩んでいるところだった。
「嫌です」
「あ、やっぱりそこは断っとくよね」
エンジさんは悪びれず笑った。
「悪かったな、とは思ってるよ」
唐突過ぎる。
ぼくが思わず顔を上げると、三十路男はネクタイに落としてしまった醤油を親指でぼかしているところだった。洗おうとは取り替えようとは一瞬も考えないんだな。
「ほんと、悪かった。もともとはおれがきみのお母さんの浮気相手だったことが原因だからね。浮気が発覚した当日に、きみのお父さん、心臓発作で死んじゃうし。人の好さそうな人だったよね。お人よしには不幸が多いんだ。とは云えやっぱりおれが元凶で悪かった。心から謝罪したいんだ。きみがここへ来た理由も分かってる。何日も出て行こうとしない本当の理由も。だけどさ、こればっかりは云わせてよ」
「どうぞ」
「ほんときみの一家って不幸だったよね。おもしろいくらい派手く、それでいて典型的に破滅したね。おれが云うのもなんだけど遅かれ早かれ離散していたと思うよ。だからさ、まあ、なんていうか、ひねくれないでまっすぐ育ってよ?ね、お願い」
「エンジさん」
「うん?」
「悪かったと、ほんとはこれっぽっちも思ってないだろ」
「あ、ばれた」
「むしろ、どちらかと云うと楽しんでいるだろ」
「すごいなあ、コンくん。そこまで分かっちゃうんだ。将来は何になりたいのかな」
「エンジさん」
「うん?」
ネクタイから気をそらし顔を上げた相手の顔に、ぼくは皿ごと目玉焼きを投げ付けた。
もう流行らないコントみたいに、顔面で食べ物を受け止めてほしかったんだ。
「ばあか、すごい面だな」
エンジさんの顔面、黄身が醤油が白いトロトロとしたものが、睫毛から鼻先から下唇から顎から、白いシャツへ隠蔽されたネクタイへズボンへちゃぶ台へ畳へ、そして、靴下をはいていない素足にぽたぽたと、ぽたぽたとぽたぽたと流れ落ちてった。
「ざまあみやがれ」
「あ、コンくん、やっと笑った。かわいい、かわいい」
笑ってなんかない。
表情を引き締めて云い返そうとしたけれど、嘘をつけないエンジさんがそう云うのならばぼくはきっと笑ったんだろう。
我ながら、信じられない。
復讐の相手を前に、何、流されてる。
これはさすがに隠蔽できない、と呟いて浴室へ向かう背中を、ぼくは確実に消えるまで見送った。その背を一刺し、という手もあるな、と思う。ぼくには殺しの美学などない。手段も過程も関係ない。結果としてこの男に復讐できれば満足なんだ。
「出たくなるまで居座って良いからね。ここはおれの秘密アジトなんだ」
秘密アジトて。
しかもそれを真顔で云うから怖いんだ。
「妻子ある男に云われたくないです」
「あ、そのへんとは別居中。おれってどうしようもないやつらしいから」

へえ。それは、それは。

シャワーの音が聞こえてくると、ぼくは立ち上がって箪笥の中から、シャツだのネクタイだのズボンにベルト、下着に靴下をきちんと上から順に並べて重ねて、今度は云われる前に出口のところに置いといてやるのだ。
「んー、愉快だ」
それからそれから。
学校さぼってるとは思えないような気楽さで、ちゃぶ台の下で、もうビリビリにしびれた足をピーンとのばして仰け反るんだ。
復讐の相手のことはもう少しだけ観察してみるかな、と仰け反るんだ。

080420