気温が氷点下の今日、昭和街アパートの二階で、髪はくしゃくしゃ寝惚け眼のぼく、北西の窓を全開にする。


だ だ


「うわ、何やってんすか」
襖を開けた途端、野々宮はそう云った。
「自暴自棄を実践しているのだ」
薄着のぼくが説明してやると野々宮はそれだけで理解したのか、それとも理解することを諦めたのか、はあ、と溜息を吐くと足元に買い物袋を置いた。
「バカなことやめてください」
野々宮は大股で部屋を横切り、全開だった窓をピシャリと閉めた。
今度は即座に体を翻し、四つん這いになると、炬燵の中に手を突っ込む。
「うわ、何やってんすか」
この部屋に来てまだ一分も経ってない間に野々宮はその台詞を二度も繰り返した。
「節電だ」
「今しなくて良いですよ、特に今日みたいな寒い日は。それに、何だ、靴下も履いていないじゃないですか」
見えない所で野々宮の手が素足を掴む。寒い方から帰って来たやつのほうが熱い手だ。大きい手だ。ぼくが今のような人間でなくてこいつに飼われる愛人や動物だったならどんなに好ましいか知れないのに。
「おい。野々宮」
呼び掛けてみると野々宮は炬燵から顔を上げた。
「何ですか」
「ぼくは空腹である」
だと思いましたよ、と、野々宮はようやく笑顔を見せた。

ぼくは改めてまじまじと野々宮の姿を観察する。外套の下は背広。定時に仕事が終わらず職場で仮眠を取るつもりが寝過ごし、そして日曜の朝といったところか。髪質はもともと柔らかいほうなのでそれが寝癖なのかどうか分からない。幼少時代の人気者がそのまま大人になったようなやつだ。つまり野々宮はぼくとは正反対の人間だ。野々宮がぼくを見捨てないのは、ぼくに対し何か特別に思い入れがあるとか、感情を抱いているとか、そういうことではなくて、その性格がさせるのだ。つまりぼくが犬猫であろうが、男だろうが女だろうが、素性がどうあろうが、今のぼくに与えているのと同程度の待遇をやっぱり処したに違いないのだ。

「何ですか、そんなにジッと見つめられたら勘違いしちゃいますよ」
「それは嘘だ。おまえはぼくが無害だと知っているからそんなことが云えるだけだ」
「じゃあ試しますか」
そうだったのか、とぼくは吃驚すると共に悟った。
計画など要らなかったのだ、練る物など始めから無かったのだ、技巧も凝らさなくて良い、装飾も付さなくて良い、回り道も近道も理屈も無い。
削ぎ落とされた単純な型で会話すれば良かったのだ、と。
「ちょっと待て」
止めた時、野々宮の手はすでに顎に掛かっている。
「いや、待ちませんね。と云うか、持ちません」
気付いたらぼくの視界は九十度傾いていた。但しそれは六畳一間に対しての角度とする。
「あ、煙草」
「だめですよ。もう吸わないってこの前約束したじゃないですか」
「違う。おまえから臭うんだ」
「ああ、相手方のお父さんのですかね」
「何だ、残業じゃなかったのか」
「昨日は定時に上がりましたよ。予め上司に伝えておきましたし」
「じゃ、あっちの父親と今朝までずっと一緒だったのか」
「はい。色々と話し込んじゃって。おれの家族についてとか、仕事の話とかも、聞いてもらえて」
「その様子だと、許してもらえたんだな」
「はい。おかげさまで」
その話はそれきりだった。
「それより、止めないんですか。合意したことになりますよ」
野々宮の体が天井も電燈も壁のカレンダーも時計も覆ってしまう。
ぼくは静かに目を瞑り、同じくらい静かに目を開ける。
「こっちの台詞だ」
野々宮の溜息が額に掛かった。鳥肌が立つ。
「……ですよね。はあ、何やってんだ、おれ。すいません。本当、すいませんでした。まだちょっとお酒残ってるのかな」
仰向けのぼくを残したまま野々宮は立ち上がった。買い物袋から材料を取り出し、昨夜の鍋の残りで雑炊を作ってくれるのだと云う。
水の流れる音がしている間にぼくは身を起こした。
その時、自分の体に被さっていた野々宮の体臭が香った。煙草なんかじゃない。野々宮だ。
「にぶいんだよ、ばーか」、机の上の蜜柑に向かってぼくは云う。蜜柑は当然返事などしない。
「え、何か云いましたか」、犬的聴覚で以って野々宮が振り返る。
「今度は玄関も全開だからな」
「えええ。勘弁してくださいよう」
ぼくの切り出した犯行予告に野々宮は狼狽した。包丁片手に情けない声を出す。
そんな目をされたところで折れるぼくではない。きっぱりと断る。
「嫌だ。ぼくはおまえを許さない」。
自棄な気分に満ちたぼくは万歳の格好で体を再び後ろに倒した。
背中に座布団の感触が当たる。
見上げると野々宮から見下ろされていた。
「な、何だ」
右手に包丁。左手に白葱。微笑む野々宮。
身構えないわけにいかない。
「大丈夫です。おれ、この部屋が好きですから。大丈夫ですよ」
また、来ますから。
そう云って台所へ戻る野々宮。
包丁がまな板にあたる音が響く。窓の外が明るくなってくる。つま先が暖まっていることに気付き、炬燵のスイッチが入れられたからだと気付く。そういえば電球が新しい。切れかけていたのをいつの間にか取り替えておいてくれたのだ。開けっ放しだったカーテンが結わえられている。
野々宮がいると、ぼくはどんどん無能になる。
「野々宮」
「はい?」
「幸せにならないと怒るからな」
包丁の音が止んだ。
「え、あ、はい」
「もしおまえが幸せじゃなかったらぼくはぶち壊しに行くからな。それだけは、肝に銘じておけ」
「……はい」
返事の前に少し間があって、少し笑った気配があって、ぼくは少し気が楽になる。
鍋がぐつぐつ音を立てる。
天井の染みに何かを誓う。
野々宮の鼻歌を聴きながら、ぼくは子供みたいに体を丸めた。


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