ハ ニ ー 禁 猟 区



追いかけてはいけない。
俺はいつの頃からかその言葉を焼き付けるように念じるように呪詛のように考えるようになっていた。
朝起きてから夜寝るまで。手をちぎりながら(もちろん蟹のことだ)、脚をちぎりながら(もちろん鶏のことだ)、目玉を潰しながら(もちろん目玉焼きのことだ)、だらだらと血を流す動物の傍を通りながら(もちろん屠殺通りの路地だ)、雑踏の中で流れに抗わず歩きながら(従順に)、湿気た煙草に無理矢理に火を点けようとする時や(矛盾した倹約家)、駅で男か女かも分からない老人に話しかけられて異国の言葉で返事したりしながらも(こう見えて俺はただの日本人だ)。
追いかけてはいけないんだ。
それは自分の声だったり、他人かと思ったら案外自分の昔の声だったり、つまり子供みたいな声だったり、すぐ隣の女が実際そう云っていたり地下鉄の駅構内のアナウンスから流れてくる幻聴だったり、で、あ、やっぱり俺の声だったり、一億に一度くらいは願って止まないあいつの声だったりした。
ハニー。
そう云うと大抵の平和な、あるいは半分以下平和な、もしかすると平和ではない人間の中にも万が一にも、俺があいつのことを世の中を舐めてかかった愚鈍と思っているのだとめでたく勘違いするやつがいるかも知れないが、これは綽名の一種だ。
ボスになったばかりの蘇芳がそれでももう俺より七年は長くこの国に君臨しているから俺が蘇芳の前で姓名から成り立つ名前を捨てて受け取った物は、ダーリン、なんてそう単純な相対に位置するものではなくて、ベア。って云うとほら案外やっぱりって云うかむしろ余計に恥ずかしいぐらい相対してるんじゃないかと思われるかも知れないけれどそれに関してはもう何も云わないでくれずっと前からもらった時から今日だって明日だって明後日だってずっと分かってるしずっと思ってるしずっとちょっと恥ずかしがってる。

ハニーは顔を見せなかった。素顔を見せなかったわけではなく、まあ確かにそういう意味でもあるんだが顔を見せなかった。そいつは人間の顔と陰部は同じ物だと考えているらしかった。それを曝して生きることはそもそも出来ないのだと云った。世界中の人間はそれに気づいていないから偉大だとも云った。偉大なるバカだ。
だがそんな解釈に頷いている間は俺もただ分かったふりをしていただけで実際は分かったことなんか何一つ無くて、ただ、そうかそうかハニーは例えば顔の上にでっかいキズがあるとかホクロがあるとかアザがあるとか腐った樹皮に似てるからとかとにかく自分の顔においてすごいコンプレックスがあってそれネタにからかわれたことがあって桜が咲いてた日から靴箱が虫でいっぱいになって海の臭いがする日から机の中に貝印の剃刀が入ってて秋冬は黒板を引っ掻いた時のキーギーより生理的に忌み嫌われたことがあってだからって周辺住民も何が悪くて何が自分達を駆り立ててんのか分かんなくなっちゃってだからその原因を一箇所に集約して高めてって一致団結して堰き止められてたものを吐き出すみたいな開放感と希望とかそれっぽいものとか思い出作りとかって色んな名目でぶちのめすことでやっと呼吸できててじゃあ結局誰が悪いのかっていうとやっぱりそこにいた自分が悪いんだってだから酷い顔面を曝してこの国に逃げ込んできたっていうのがハニーのおそらくの生い立ちだろう。ちなみに俺達は互いの素性を何も知らない。

そんなある日俺は出くわしてしまった。森の中、じゃねえよ、蘇芳から与えられたアパートでちなみに俺とハニーは互いを監視しながら観賞しながら寝食を共にする生活を送ってきたわけだがそんな暮らしの中でも俺は一度もハニーの顔を、と云うよりも頭部を拝めた試しが無くてまあ浴場に押し入ろうとか寝室を這おうとか退屈凌ぎと呼ぶには到底白々しい行いを最初の一週間くらいは行っていたんだがそれでもまだ一度も拝めた試しが無くていつの間にか挑戦することを止めてそうかあいつの頭はもうあれが頭なんだフードと目隠しと包帯とガスマスクに覆われたあのすべてがあいつの頭そのものなんだと解釈して自分を慰めることにしていた、そんな健気な俺はある日ついに出くわしてしまった。油断したハニーに。

さ、待望のハニー・ターイム。

日本人は包装が好きだ。風呂敷。カツラ。十二単。剥き出しであることを苦手としこれまで多くの資源を枯渇させてきた。そして勝手に危機に陥ってあぶなかったあぶなかったと勝手に復活する。
「ねんねんころりよおころりよ……」
俺は必死でその後を思い出そうとしたが駄目だった。
こんなに巻き物が多いところを見るとさてはハニーも日本人だな。
俺は同じ歌詞ばかり口ずさみながら推理した。
「ねんねんころりよおころりよ……」
だがハニーは目覚めそうになかった。ハニーは重傷を負っていた。左の眼孔から打ち込まれた銃弾が頭頂部を貫通して白い天井に赤い花を咲かせていた。国旗掲揚。カシャ。と写真に収めた後で俺はハニーの傍らにしゃがみ込んだ。同居人の死に立ち会った際の俺の最後の義務。同居人が所持している国のパスポートを回収すること。それを覚えていた俺はハニーの上着に手を突っ込んで初めて気づいた。
あ。生きてる。
心臓が動いていた。頭部をこれだけ損傷されていながらまだ動いていた。バカだ。こいつ絶対バカだ。なんで死んでねえんだよ。なんで生きてんだよ。やっと終わりだったのに。また始めんのかよ。俺もうお前飽きたよ。お前と何も会話しない生活飽きたよ。蘇芳が新しい同居人寄越してくれんの期待してんだよ。だってアパートは二人用なんだよ。なのに何お前こんななってまでちょっと生きてみちゃってんの。そう思いながら俺は一瞬だけ躊躇った。躊躇うということは迷うということだ。迷うということは選択肢があるということだ。選択肢は常に複数だ。この場合は二つに絞られている。つまり俺は腕の下に隠し持ってる自分の小銃でハニーの眼孔からもう一度銃弾を貫通させるべきか或いは救命活動に勤しんでみるべきかそのどちらかに絞りかねていた。単純かつ明朗。俺がこれまでに引いた引き金がそれを受け止めた生き物を絶命させた数は俺がちょうど明日迎える自分の新しい年齢マイナス一、つまり現時点の年齢に等しいがそれに一を足して揃えてみるかどうか。
命とか国旗とかハニーとかなんとかかんとか云ったってつまりはそういうことだった、 いつもそれだけのことだった。
その時だった。
俺の爪先に誰かが触れた。誰かってそりゃもうこの部屋にはハニーと俺の二人しかいないのだから俺じゃないならハニーだがやっぱりハニーだった。俺はガリラヤ湖畔でのエピソードを思い出した。「誰かが俺の靴に触れた」。そう呟いてみた俺は先ずはハニーに云った。「お前は今日ここで死なない」。

「ねんねんころりよおころりよ……」

その歌詞を繰り返すだけで字余りと字足らずのどちらも起こらないことを俺が発見した時、ハニーのガスマスクが外れた。それを外すには三桁の暗証番号の試練と、間違った方を切ったら爆発するっていう導線の罠と、最後にそれを持ち上げる時のささやかな勇気が必要だった。
「よいしょ、と。……あら、かわいい」
俺は一瞬で好きになってしまってさっきまでの言葉を取り消すことに、つまり前言撤回ということにしておいてこれは至急処置が必要だと気づいて携帯電話を取り出した。どういう環境か知らないがとにかく圏外だったので部屋の外に出る。そこはマンションの共用廊下だったがすれ違った住人は俺に挨拶もしなければ不審そうな目を向けることもない。俺が見えてないんだろう。これだから地域との繋がりが希薄になった現代は助かる。はいはい透明人間透明人間、っと。

ピッ。

「えー、蘇芳と話がしたい。国民ナンバーは●●●−●●●●」
担当オペレーターが「認証しました」と回答し蘇芳と電話が繋がる。
「ああ、ベアか。朝早くからありがとな」
蘇芳が真っ先にねぎらいの言葉を掛けてくる。こもって聞こえるのは口の中にマカロンを入れたまま喋っているからだろう。蘇芳の大好物だ。世界中から取り寄せては賞味している。現時点も部下の誰かが買い付けのために国際線をフルに活用して飛び回っていることだろう。マカロンにしろマシュマロにしろ余計な皺が無いものが好きだ人間の脳味噌も全部これくらい綺麗だったらボクが国を作る必要は無かったのに。蘇芳が云ったことがある。だけどそれじゃつまんないんだろ結局。俺が云うと蘇芳はその通りだと笑った。
「いや、仕事だからな。それより困ったことが起こった」
「え、くまったことが?」
「オヤジギャグですらねえぞ、それ……」
「あはは。で、何?」
「ハニーが撃たれた」
一瞬、間があった。
「すごいな。まじで本当に?」
心配しているのかと思ったら興奮気味に蘇芳が身を乗り出してくる。あくまで俺がそう想像しているだけで相変わらず同じ姿勢でマカロンを食べているだけかも知れない。
「抵抗されたのか」
「ああ。一人隠れてた。気づくのが遅れた。もちろん始末した。三人の予定が四人になったが問題無いか」
「それは全然。それよりお前は」
「俺は無傷だ」
「ふうん。じゃ、わざわざハニーを狙って撃ったのか。変な奴だな」
「弾が脳味噌を貫通してる。まだ生きてる。助けてやって欲しい。意識もあるみたいなんだ」
俺は初めて自分がハニーを本気で助けたがっていることに気づいた。
だがそんな俺の態度が気に食わなかったのかマカロンが美味しくなかったのか何なのか分からないが蘇芳は「ふふふ」と笑った後で「やだ」と一方的に通話を終了させた。
俺は、んー、と額を叩きながら部屋の中に戻ってそこで驚くべき光景を目にした。

ハニーが体を起こしていた。
顔の左半分、どころか体の左半分は流れる血で濡れている。しかも血は流れ続けている。部屋の中に陽射しが差し込んでいる。ハニーが俺に気づいて振り返った。ああ、そうかそうか。俺は靴のまま廊下を歩いていってハニーの傍らにしゃがみ込む。ああ、そうかそうか。ハニーの髪の生え際の少しグチャッとなったところから血じゃない汁とピンクの肉みたいなたぶん肉か脳味噌が少し垂れていてハニー本人はそのことに気づいていない様子だ。そもそもハニーは俺が勝手に彼のガスマスクを外してしまったことを知らない様子で自分としてはどうして視界がこんなにも明るいのだとか頭が軽いのだとかそういうことにも気づかない様子できっとガスマスクや包帯や眼帯やオプションを装備した状態でいつものように俺と向かい合うような気持ちで向かい合っているだけに過ぎなかった。俺は、んー、と額を叩いて部屋の中をぐるりと見渡す。白い天井に散ったハニーの赤い血はハニーから見えないところにあった。俺はここがハニーの墓場となるならまあ悪くないなと思ってもう一度ハニーに目を戻す。
「今日も終わったぜ」
俺が云うとハニーは特に面白くも無いというように頷いた。それはいつも通りの仕草と何も違わないのだろうが俺にとってはそれこそ一生に一度の体験だった。これまでも俺が何か語りかける度に重たいガスマスクの下でハニーはこういう表情をして頷いていたのか。
「どっか食べに行くか」
俺が首を傾げるとハニーは少し目を細めて頭を横に振った。割れた頭蓋骨から飛び出した脳味噌がまた少し垂れてくる。
「そうか。お前はそうでも俺は昨日の朝から何も食べてないんだけどな」
俺が云うとハニーはちょっと考えるようなふりをした後で「やっぱ、行く」と云った。
俺が初めて聞いたハニーの声だった。

ホームに電車が入って来た。
俺は隣に立ったサラリーマン風の男が線路に向かって煙草を投げ入れるのを横目に見ながらポケットから取り出した携帯灰皿にハニーの耳を入れた。男の放った煙草は電車に踏まれて小さな火花を上げる。追いかけてはいけないんだ。俺の頭にまた声が響く。ズルでもしないとアタリの出ないくじ引きに熱中する小学生みたいに俺はハニーの声を待ってる。たった数文字しか知らない音声からすべての文字音を探り当てて、切り貼りしてって繋ぎ合わせて。それはフリーダイヤルサービスの自動音声みたいにぎこちないがやはりハニーの声だ。俺は不満な現状に満足できる男だ。
電車を走らせる人間。子供の歩幅に合わせて歩こうとしない女。吸殻を線路に捨てて出社する男。
合法であることに以外に正しさは何も証明できない、しない、しようとしない。
ハニー。
感傷的に名前を呟いてみると視界の隅にガスマスクをかぶったあの子供がまた立っているような気がする。気配だけ感じて視界は向けない。実在しない物を実在しているように扱う。この行為が非合法だと云われれば俺はやはり合法へ向かいたいだろうか。どうだろうか。
ハニー。
その時、携帯電話が震えた。どうせまた蘇芳からの依頼だ。蘇芳以外にこの番号を知っている人間はいない。
「はい」。
俺は携帯電話を耳に押し当て、音声が聞こえてこないことに不安を持った。
しかしすぐに対処法が分かった。
「はい、もしもし」。
俺は自分がかぶっているガスマスクの下から器用に携帯電話を差し入れた。
「こちら、ハニー。次はどこへ向かったら良い?」。

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