ハ ニ ー 禁 猟 区



反社会的って思想はもう遅れてる。
僕はいつの頃からかその言葉を焼き付けるように念じるように呪詛のように考えるようになっていた。

春の嵐が午後二時の眠い校庭に陽射しを投げ掛けたり窓硝子を強い雨で打ちつけたりとか脈絡の無いことするから教室の中はなんだか落ち着かず六月の靴箱とか八月のプールの更衣室みたいに鬱陶しくジメジメしており口を開けて喋っているのは実際教壇に立った数学教師だけだというのにどことなく全体が騒がしくラッシュ時の電車に乗っている時と同じような圧迫感というか切迫感というか緊迫感なのかとにかく呼吸一つ身じろぎ一つにだって気を遣わなきゃいけないみたいな統制のような秩序のような規律とも礼節とも違う喫煙より飲酒より禁ずるべき不安な不穏な不謹慎な空気が漂っている。
今誰かが発砲してもこの空気は打ち壊せないだろう。
ある詩人が云ってた、どんな音も沈黙の中で鳴り響く。だから沈黙は壊せない、とかなんとか。その表現を借りるならば三十三名の生徒が沈黙で一人の教師が音だ。音は鳴り響く自分自身を自覚すると同時に沈黙の存在を意識する。畏怖する。それは揺るぎなくじっと口の中に唾を溜めている肉食獣みたいに抜け目が無くてだけど食欲が満たされさえすれば残酷を思考するほど愚かでは無い。至って単純。合理的にシンプル。
誰が騒いでいるわけでもないから教師は矛先が見つけられず一応は「であるからして」と背後を振り返ったものの生徒達の瞬きしない視線を一瞬その全身にギシッと受け止めた後で見てはいけないものを見てしまったまるで鶴の恩返しに出て来た昔話のおじいさんおばあさんもきっと機を織る鶴と目が合った時こういう気まずい目をしただろうなと思わせるくらい後悔と慄きにぎこちなさの混じった顔を黒板へ戻した。

チョークの音が再開されると生徒達は唇を結んだまま「私語」を始める。
僕も例外でなく手元の携帯電話に入ってくる情報に視線を落とした。

情報化が人間関係を希薄にする。それはとんだ誤解でツールのあり方しか見ていないからそうなる。本当に繋がる意識が無ければそもそも情報は情報化されてこなかったしこんなツールは発達しなかった。コミュニケーション力の低下が危ぶまれているようだが煩雑さが取り除かれて高速化しただけのことだろう。そもそもコミュニケーション力は高度であればあるほど胡散臭い目を向けられる。理不尽なことこの上無い。分からない。そう云えば詰られ、分かる。そう云えば分かっていないと否定される。時間をかけることがそんなに有意義か。時間を費やすことがそんなに大層か。だったら医療の質を落として長寿の道を閉ざせ、とも思う。なんと思春期甚だしい。僕は青いな。だとしても青は良い。小鳥にしろ信号にしろ青色は良い色だ。
「……う、歯が痛い」。
僕が顔をしかめたその時、国の広報部からメールが届いた。

明日午前八時より投函の受付を開始。受付は全国に設置される青いポストを目印に。期日は明後日の午後八時までとする。尚、期間外の応募は一切受け付けないこととする。

今年も始まったな。
この国の国民は十三歳になると全員が投函権を取得する。規定の用紙に国民はそれぞれの「請願」を書き付け、期日内に青いポストに投函する。全国から回収された請願書はどこか一箇所に集められその中から選ばれた一通が「受理」される。
投函制度が始まったのは僕が十三歳になった頃、今から二年前だ。歴史は浅い。つまり僕らの世代はこの制度が始まった当時最初の最年少権利者、十三歳だったということになる。十三という数字がどこから導き出されたものかは知らない。中等教育開始時期を節目として、との考え方もあるし、絞首台への段数だから、という意味の分からない通説もある。

投函制度では非合法が合法になる。
極端な話「請願」の内容により間接的に殺人を犯したとしても罪に問われることが一切無いということだ。

だけど。
僕はふと思う。
一体、何のために?

放課後、僕は不本意ながら知り合いの経営する歯科医院を訪れていた。
「おお、久しぶりだな、蜜田。何してたんだ。女か? 女なのか? こっちは死ぬほど会いたかったんだぜ。だがお前にとってかけがえの無い俺は死ねないかわりに色々と殺しておいたけどな」
診察台で仰向けになった僕をマスクをした歯科医が覗き込む。
調律師。
それがこいつの綽名だ。
歯科医で調律師。
由来は、
「何してた、って、勉強だ。こっちは受験生だからな」
むっとした表情のまま僕が口を開けると、
「うわ、こりゃひどい。どうしてこうなるまで放っておいた」
自分で質問しておきながら歯科医は回答に興味を示さず口の中に何か冷たい物を突っ込んでくる。
「これは大手術になりそうだ」
僕が歯の治療を苦手なのを知っていてわざと大袈裟に云う。愉快そうな笑みを隠さずむしろ見せつけるように。
こいつ最低だ。
「しかし何度見ても蜜田のベロは綺麗だな。くれ」
僕は腹話術に近い方法で「やだ」と答えた。でないと後で「だって拒否しなかったじゃん。インフォームド・コンセントよ?」などと信じられないような屁理屈を述べる歯科医から目の前に、つい一瞬前まで自分の身体の一部だったベロを突きつけられかねない。
これが冗談で済むなら腹話術師でもない限り腹話術は要らない。

歯科医の綽名が調律師であるのにはちゃんと由来がある。どれほど堅い口を割るのも自白屋を通せばそれこそ赤子の手を捻るより易い。どれほど調律しても狂った音程が直らなかった弦楽器がこの男の手にかかれば依頼者が呆気にとられるほど正確に奏でる。
それが、歯科医が調律師たる由来。
腕の良い自白屋というわけ。
正確には、自白させ屋、なんだけど日本人は略語が好きで僕は日本人だから略すね。

「ふーん。ま、いいや。今日はレバーを買って来たから」
青いゴム手袋をはめた手が銀色のトレイから何か透明の細長い物を取り上げた。
「お前のベロだと思って舐めとくよ」
青色は良い色だと思っていたが一つ見落としていた。そう、歯科医のゴム手袋。これだけは、いただけない。
「ハニーがまた入れ替わったってなあ」
僕は反応せず頭上のテレビに映る海外のアニメを見ている。出来れば目も閉じてしまいたかったけれど感覚を受容するポイントは多い方が良い。勝手に分散されてくれるから。それは歯の治療が好きになれない僕の編み出した唯一の逃避法。現実の痛みは無いけれど想像上の痛みが僕を痛くする。肥えた恐怖心がおかしな構造を生み出してしまったせいだ。
おしゃべりな歯科医は続ける。
「特別地区法令第一、ハニーを捕まえてはならない……なあ、蜜田」
器具が取り替えられる。
この医院には助手が居ないから全て歯科医一人でこなさなければならない。ここを利用している患者も僕くらいのもので助手は必要無い。
「ガゼルは平気でライオンと食事する」
僕はちょっと気になって視線を上げた。歯科医と目が合う。
頼むから僕じゃなく歯を見ててくれお前は。そんな気持ちで口の中を指すと歯科医は頷いた。
「ガゼルはな、仲間がライオンに食われてる隣で草を食めるんだ。自分が襲われないことを分かってるから。人間社会ではありえないルールだよな。一人を食べたやつは空腹でもまだ食べると思われる。そこで別のルールができた。ま、ハニー志願者の気持ちは分からんでもないがな。俺は満腹時に据え膳を食わない自信は無えけどよ。開かせるんなら股より口だよ、違わないだろ、なあ、蜜田」
なあ、って云われましても。
僕は警戒する。
話の内容が微妙にスライドしていっている。これもまた歯科医の癖だ。装って逸らせて十分に油断させたところで一気に核心に戻る。すっかり油断していた相手は防御する術を持たない。こうやって堅い口は割られていく。仕事上の癖が、こうして僕に話しかけている間にも出てしまうのだろう。もっとも、仕事以外でそれを使えばただの関わり合いになりたくない男。ただの。
「蜜田。お前さ、ベアの居所、知ってんだろう」
歯科医がドリルを片手に僕を見下ろしている。
ギイーン、ギュウイーン、嫌な音だ。耳奥に蜂の巣を作られてるみたいで。気持ちが悪い。
「教えろ」
ドリルが突然ベロの根元に突っ込まれて口の中がグチャグチャにされる様子を想像した僕は最悪な気分になった。これからしばらくは物を食べるのにも飲むのにも苦痛を強いられるだろう。言葉もろくに話せなくなるだろうし体重が落ちるだろうし気分も沈みがちになるだろう。僕がベロを失ったことを知った連中が同情を寄せてくるかも知れない。あー、めんどくさい。
僕は右手を上げようとした。歯科医の行為を止めさせる必要があると判断した。
だけどその必要は無かった。
「ま、いいけどな。ベアがどこ行って何してようがいいけどな。貸した本を返してもらいたかったけどまた買えば済むし」
なんだ、からかわれただけか。
僕がほっと安心している様子が分かったのか歯科医は小さく笑った。
「だから云ったでしょ。レバー買って来たって」
この世にたった一枚きり、僕のベロは今日も無事だった。

歯科医はドリルを使っている間も詰め物をしている間も喋り続けていたから僕はこいつ本当に僕に死ぬほど会いたかったんだなと思った。自惚れでも思った。
「甘い物食べ過ぎるなよ。マカロンとかマカロンとかマカロンとか」
診察台に体を起こした僕は歯科医から薬の説明を受ける。
「良いか、これが痛み止め。麻酔が切れたらかなり痛んでくると思うから、その時に服用するクスリな」
分かったと頷いて僕は手のひらを差し出した。
「……何」
嫌な予感がする。
歯科医は「で」と処方箋袋を振って見せた。
「で?」
嫌な予感を抱いたまま促すと歯科医が予感どおりに嫌なことを云う。
「で。これ、欲しい?」
「寄越せ」
「じゃ、なくて。欲しいかどうか訊いてんの」
「……欲しい」
「もうマカロンばっか食べないな?」
「……食べない」
「また会いに来てくれるな?」
「……来る」
感情を抑えた声で一つ一つ慎重に肯定していくと、顎までマスクを下ろした歯科医はやっと満足したように「じゃ、あげる」とクスリを寄越した。あげるも何も料金払ったし。そう云いそうになった僕はかろうじて飲み込む。このクスリがダミーの可能性がある。憎まれ口を叩いた途端「ざーんねん」とかなんとか云ってホンモノを散らつかせられかねない。約束事も増えかねない。下手すると麻酔が徐々に切れるのを、僕が参って懇願するのを待たれかねない。いやいや無理無理絶対無理。
お礼とか云っとこう。
「ありがと。じゃ」
「うん。じゃ、またな、蘇芳」
ひらひらと手も振っとこう。
「……その名前で呼ぶなと何度も」
「ごめんごめん」
歩き出した僕は足を止めて振り返る。
「僕は知らないんだよ、本当に」
「何を」
「ハニーがどこにいるのか。今、誰がハニーなのか」
「うん。何してんだろうな、ハニーのやつ」

は、と寒い日にする吐息みたいに短く笑って別れた。
歯科医院を立ち去って七つ目の角を曲がる時、僕はガスマスクとすれ違った。あ、と振り返ると当たり前に後姿が目に入る。怪盗なんとかみたいに消えるわけではないようだ。僕の声に気づいたのかガスマスクも振り返る。僕は歯科医に云われたことを思い出す。

特別地区法令第一、ハニーを捕まえてはならない。

「……作ったの僕じゃん」

そう云って僕は踵を返した。
空が真っ赤だな。

100320