冬だか春だか分からなくなるような陽だまりの中、猫が思わず体を伸ばすのと同じ気楽さで、気負いも罪悪感も思惑も策略も無しに、考えも意図も計画も愛情も無しに、ゆっくり脱いでいった自分達の服の上で、子供がむずがるような愛撫を終えて、かきあげられた前髪がこめかみに触れて少しかゆいのも忘れて、揺れる世界を見ている。


開 花 予 感


 目をそらすと男の向こうに天井が見えて、顎をそらすと窓の向こうに青空が見えて、首をひねると生活感のあるキッチンが目に入る。もう一度顔を正面に戻すと男は目を閉じて没頭して、おれはそれがなんだかいとおしくて笑って、また目をそらして天井を見て、小学生の頃を思い出す。微熱で休んだ一日のこと。仕事を休んで看病してくれる母親に対しなんだかうしろめたくて、体温計の数字があと一度、あと一度上がればと思っていた。起き上がると体がだるくて、それに安心して、時計を見ては「今ごろお昼休みだ」と学校の様子に思いをはせ、自分がいなくても平気に回る世界を同級生に気付かれてしまうことが恥ずかしいような気がしていた。
 欠けて困るものなんて無い。唯一があっても、欠けてしまって本当に困るのは一瞬で、またすぐ何かがはまるよ。
「何、考えてる」。
 おれは男の顔に視線を戻す。老いの気配に逆らえないが相変わらず鼻梁は褒められる。値踏みできる立場じゃないが。それだけは幼い頃からきっと同じ部分だろうと思った。おれは顎をそらせて、さあ、とはぐらかす。
 若い頃は内気だったと聞く。アバンチュールは無かったが挫折も無かったと聞く。年を重ねてふてぶてしさを少しずつ習得し、今じゃ高校生と寝られるようになった。
「わからんやつだな、チトセは」。
 千年と書いてチトセと読む。ちなみに万と書いてヨロズという名の従兄がいる。従兄であり悪友の彼は同級生だ。おれたちの母親がそれぞれ鶴岡、亀谷という姓の相手と同じ年に婚約し、同じ年に子供を身ごもったからだ。からだ、って云っちゃってるけど理由になるのか分からない、が、名前の由来はそういうところにある。ちなみに母親達は双子だった。おれと万は、少しだけ、似ている。
「分かる人間なんかいないだろ」。
 おれの脚は男の臀部で交差する。何も生まない交尾は気楽で良いと思う。偽りもあとくされも無い。おれが世界に望むことを望むとおりに凝縮した行為。確認のように重ねて、背徳くらいなら事後の水分と飲み干せる。排泄を済ませたら体内にはもう、他の食物すべてそうであるようにおれにとっては肉と血しか残らない。
 おれと万の母親は同じ年に結婚し同じ年に子を産んで遊びのような名前を付けるくらい仲が良かったが、離婚の日付まで同じじゃないのかと親戚の誰かが冗談まじりに云ったことがまさか現実に起こるなんて、その冗談を聞いていたり、聞かなくとも心のどこかで考えていた連中の何割が本当に予測できただろう。おれと万でさえ小さい頃は母親達の仲の良さにそんな冗談を考えついだものだけど、まさか母子家庭になる時期まで重なるとは、これはもう運命だな運命、といっそ高揚したのを覚えている。七年前だから、七歳だった。小学校二年生。か。
 この男、名前は、御崎という、下の名前は知らない、が、と出会ったのはその頃だ。
 御崎はおれと万のアパートの向かいの家に住んでいた。何年前からそこにいたのかは分からない。そこ、というのはつまり、ここ、なんだけど。畳の目よりも天井の染みを見慣れてる。おれはこの部屋で、仰向けになっている時間が多い。部屋には高価なものが何も無い。だけどそれは御崎が貧乏だからではなく、ちなみにむしろ経済的にはゆとりがあるのだが、この部屋の質素な理由は、たんに御崎がそれを望んだからなのだった。
 御崎は畳を愛した。古い木造を愛した。茶卓を愛した。豊かでないことを愛した。
 彼の生活の中に自分が自然と溶け込めていることを、こう並べてみて、どう感じたらいいのだろう。
(悪くはない)。
 おれと万が好きな言葉だ。悪くは、ない。何が良いって、好きと云わないところが、いい。
 嫌味に聞こえるのは仕方が無いが客観的事実として、おれと万は顔が良い。教師からも友人からも云われ続けるのだから仕方が無い。そこに多少の皮肉だとか、謙遜や、あるいは見返りを求める意図があるのだとしてもそれでもやはり微塵も事実と違うことを人は口にしようなどと思いつかないものだろう。確かにおれは自分を不細工だと感じたことはない。おれも万も母に似たのだ。今はもう彼女らはどこにいるか知れない。新しい男なんか作らずに、二人で仲良く暮らしている気もする。煉瓦の屋根のおうちで。童話みたいに。お金なんかどうにかなるだろう。彼女達はおれ達の母親であるけれど、他の家の母親とはどうもどこか違うようだった。そのことに気付いたのは、友人の家へ遊びに行った時だ。おれ達の母親は人の親というよりもむしろ、処女みたいだった。ちなみにおれも万も童貞ではない。だってもう十四なのだ。
「血が出てるな」。
 御崎の言葉におれは、え、と嫌な顔をして上体をわずかに浮かせた。すると彼は、違うそっちじゃない、と真面目くさった顔で云って、親指の腹でおれの下唇をこすった。
「乾いてる」。
 からかうような声に、水分は持っていかれたからね、と応じる。窓は閉め切ってあるのに、畳の匂いが、部屋の中に微かに立ちこめたような気がした。男の愛する匂いだった。
「おれは御崎さんのものになりたくないよ」。
 体の横に垂らしていた腕を肘から曲げて、顔の横に手のひらをひろげる。手のひらと手首の境目付近に、どうやってついたか分からない引っかき傷がある。大福に包んだ苺のような色をして、陽だまりの中にある。
「そうか。嫌か」。
 男は少し悲しい顔をする。おれは笑いたいのをこらえる。そして諦める。笑う。男は、む、と目を細める。目尻の皺が深くなる。良い。それ、良い。
「だって、そうしたら御崎さんの人生は完璧になってしまうよ」。
 自分の気にかけたことがおれの心情と違う種類のものであることを悟って男は人の親のように優しい目をする。ただしそれはおれの父親じゃない。憎んでいるというほど積極的な感情も、思い出すたび切なくなったりするというほどの執着心も抱いてはいない。ただ、違う。それだけのこと。この世界には「ただそうである」ということがあふれているのに、むしろ、そればかりなのに、意味や理由や根拠を求められて、書かされて、云わされて、捻り出すよう仕向けられて、嫌になる。やがてそれは癖になって、常識だと思うように自分自身もなっていって、それが見当たらないとなると不安で仕方無くて、たまに命を紐で吊ったりしてしまう。極端な話。だっておれは十四なのだ。
「乾いてる」。
 同じことを云って、男は舌先でおれの唇を割る。実際、男の云うことが本当かどうか分からない。おれの唇は確かに乾いて割れたかも知れないし、そうではないかもしれない。青い空を飛行機が斜めに横切っているのを見ておれは泣きたくなる。あの場所からこの部屋の中は見えるだろうか。無理だろう。だからおれは泣きたくなったんだ。
 あとひと月もすれば春になる。何もかもが新しくなり、そして何もかもが古くなる。
「おれは怖いよ」。
 初老の男をおれは求める。男は眉の上の皮膚を少し痙攣させる。おれは「できるよ」と励ます。還暦だぞ、と男は何を偉そうに云っているのか。だいじょうぶ、とおれは無責任。花盛りはこれだから困る、と男が云って、何故だかおれは吹き出す。いや、何故だかってことはない。だって、可笑しいじゃないか。
「え、花盛りって? 何、おれのこと?」。
「他に誰がいる」。
「いないねえ」。
「お前はどうして私が平気なんだ」。
「今訊くことかい、それ」。
「ふと思った」。
「そうだなあ」、おれは視線をめぐらせる。わざとだ。部屋の中を一回りさせて、起点に戻す。何らかの効果が生まれただろうか。
「身近に一人くらい、完璧な人生を閉じる人間を知りたかったから」。
 おれは冗談のつもりだった。よくもまあ自分をそこまで肯定できる、と一笑に付されて上機嫌の予定だった。だがおれは今の自分の言葉が本物であったことに遅れて気づく。ばか、と自分を詰る声は自分から発せられ、おれは後悔の呻き声を両手で覆ってしまおうとする。
「チトセ」。
 男の体が離れようとするのを拒絶する。男はもう一度おれの名前を力無く繰り返した。
「おれは完璧じゃない」。
「でもおれはあなたみたいに生きたい」。
 間があった。
 溜息。
 また、間。
「・・・・・・わかんねえなあ、チトセは」。
 大きな手のひらがおれの頭を撫でて、おれは四つの子供に帰る。両親がそろって、万もいて、万の両親もいて、全員が幸せだった頃。父親がいなくなると分かっても、母親が出て行くと知っても、平気平気と額くっつけて誓うように慰めあってたおれと万の、秘密とか信頼とか絶対誰にも教えなかった。この男以外では。だってこの男はおれと無関係だった。お向かいに住んでいる、赤の他人。おれと万に同情することはあっても助け舟を出すほどおせっかいも焼かないだろうと踏んだから。人に話している間だけ、自分の身の上話は他人事だった。相手の反応や相槌を自分のものだと置き換えた。
 きっと、タイミングなんだ。
 おれは世の中をくくる式が欲しい。世界がてんでばらばらですべてが繋がれる由も無いだなんて、分かりきってしまいたくはないんだ、だって十四なんだから、春と飛行機が重なると悲しい。冬と青空が重なると嬉しい。御崎さんとおれが何をしても正しい。万とおれは兄弟のよう。
 繰り返されるものは、何か。繰り返されないものは、何か。
 おれと万は、それを知る御崎さんに食べられてしまいたかった、確かに、一度は、互いに、そう思って、今に至る。至って、きた。
「若いんだよ」、おれは吐き捨てるようにいいわけを口にする。
 男はしばらくおれを見下ろしている。おれは、赤く充血しているだろう目で睨む。男は少しずつ硬くなる。
 本当だ、と思った。
 男の目は生まれつきか年のせいか色素が薄くなっており、そこに映るものはおれや万の黒々とした瞳に映るほど明瞭ではないだろうけど、おれには何故かそこにおれ自身を見ることができた。
 本当だ。おれの唇は乾いて、切れて、血をにじませている。そしてそれが、男の指に引きのばされて、唇の端まで汚している。
 男は生産的で無い行動を再開する。
「急ぐな、少年。先は長い。還暦間近なおれが云うんだから間違いないだろ」。
「それは、そうとして・・・・・・御崎さん」。
 何だ。と、男が動いたままおれを見下ろす。
 おれは世界のこと知らないでただ揺られながら、死体を隠せよ、と傍らに眠る万を指した。



 了