だけど女の体は子供ができてしまうだろ。
 彼女はそれを聞いて、わからない、といった顔をした。おそらく彼女は本当はとても素直なんだろうし純情なんだろう。そうでなけりゃ十四のしっぺ返しにあんな反応は見せなかっただろうし、そもそもぼくと向かい合って議論する必要なんてなかったんだ。女って切り札を所有してるのはいつだってそちらなのだから平気な顔をして、ふふん、ってやってれば良かったのだ。それをしなかったからぼくは云ってやった。さもないともう少しで千年がぼくの膝に遊ばせる手で悪戯を始めそうだったから。



開 花 予 感



「女の体は子供ができてしまうだろ」。
「ええ。それが」。
「男は子供ができない」。
「ええ。だから」。
 この会話からも分かるように彼女は本当に良い生徒だった。
 話の先が見えるまで反論をしないし、適当な個所で相槌を打つ役目も怠らない。
「だからおれたちは家庭になんかならない」。
 隣から口をはさんだのは忍耐力の無い千年で、でもぼくに付き添ってこの場所に座っている点において彼の忍耐力はいつもより二倍増しってとこなんだろうが、ほら、やっぱり黙っちゃいられない、二人の十四歳に左右から斜めの視線を向けられ口腔が乾いたんであろう成人女性は平常心を装うため、あるいはそれをまだ失っていないのだということをぼくらに示そうとして、手を添えたカップが音を立てて、中の珈琲がひどく揺れて落ち着かず、結局彼女はそれを咽喉に流し込むことができなかった。
 三人の前にはそれぞれ注文したケーキが置かれていて、ぼくはザッハトルテ、千年はレアチーズ、彼女はフルーツタルトだった。
「あんた、名前は」。
 往来にばかり視線を投げていた千年が、つい、と、ガラスの上を水滴が流れるみたいに女へ興味を寄越すのをぼくは体の左側面に感じることができる。
 ぼくと似て、だけど似ていない、千年の黒い瞳。甲殻類的な輝き。ぼくにはそれさえいつか損なわれることがあるなんて理解できない。若いのだ。だってまだ十四年しか生きていない。
「雪兎」。
 テーブルが、だん、と音を立てて、ぼくはついに彼女がキレたのかと思った。だけどそれは間違いで、振動を起こしたのは千年に他ならなかった。
「本名か」。
「そうよ」。
「ゆきうさぎ? それは本名かよ」。
「そうだって云ってるでしょう」。
「いや、いま質問したのはぼく」。
 ああ、と雪兎は千年からぼくへと視線を戻した。何も珍しいことじゃない。ぼくと千年が一緒に並んで話す時、相手がぼくらを見誤ることなんてしょっちゅうだった。ぼくも千年も話す時はほとんど口を動かさずに話すことができるから、誤解を招くんだろう。それに、ぼくらは視線を余所へやったまま喋ることがある。その傾向は千年に強い。
「ケーキを、食べようよ」。
 行き詰まった感じがあったのでぼくが提案して、三人でそれぞれ自分のケーキを食べた。半分にさしかかったところで互いのケーキをつつきあうことになった。ぼくが雪兎のタルトを、雪兎が千年のレアチーズを、千年がぼくのザッハトルテを、そしてその逆を。ただ一つ、千年は、雪兎がぼくのザッハトルテを食べることだけを許すことができなかった。華奢なフォークを剣のように勘違いして、勇敢な小人みたいに雪兎の興味と食欲という敵に羽向かった。
「何、あんたたちってホモでブラコンなの」。
 食べたケーキに魔法の薬でも入っていたのか、雪兎の言葉が急に砕けたものになる。もっともぼくらは彼女よりずっと早くに砕けていたからこれで釣り合いが取れたのだ。
「下品で下世話な女だな」。
 聞こえよがしにそう云いながらも千年は笑っていた。
 ぼくにも、雪兎の発言が中傷じゃなくて歩み寄りだという印象を掴めたので、また一つ、何かが砕けたんだろう。
「だけどおれと万は男の体だから子供ができない。家庭にはならない」。
 千年は軽く顎をそらせているようだった。ぼくは雪兎の顔色を窺う。
「子供で繋ぎ止めるもできるわ」。
「その目論見が相手に感付かれて、重く思われても?」。
 ぼくは、千年、と彼の裾をテーブルの下で引いて忠告する。
 千年の掌がぼくの手を握って、緩急つけて握るから、おもしろいじゃん、とでも云っているようだった。きっと、云うだろう。
「間に何も挟まらないから、その人が好きだって云えるんじゃないか」、雪兎を諭すように云いながら、千年はぼくにも聞かせている。捕食者が舌を嘗める音。千年の姿勢がぼくに幻聴を聞かせる。口の中にいろいろな味が混ざって、だけどどれもこれも甘くて、ぼくは今さら吐き気を感じる。今さらのように、糖分を受け付けない体質を思い出す。千年が気付いてぼくの体を通路側へ押した。行くぞ、という意味だった。彼は飽きてしまった。この話し合いにもう飽きてしまったんだ。
「いいわけが必要になったら若くないんだよ、おばさん」。
 店の外に出てぼくは食べたものを吐いた。うまれたての吐瀉物を見下ろしながら千年はぼくの奥に中指を突っ込んで、拡張するみたいに突き上げる。また電柱が汚れた。公園の蛇口で口をすすいでぼくと千年は土手のある川原まで歩く。橋の向こうに隠れる夕日が見えていた。
「雪兎は傷ついたかな」。
 店を出て初めに発した言葉がそれだったからだろう、千年はぼくの頬を叩いた。
「御崎さんだってあんな女は何とも思っちゃいないさ」。
 ぼくたちのこともね、と云い返したらまた叩かれるだろう。ぼくは頷いて千年が腰を下ろした横に座り込んだ。背の高い雑草にすっぽり隠れてしまうと、秘密基地を思い出す。罠を仕掛けたり、漫画を持ち込んだり。秘密の合言葉や、尖った石ころ。ぼくは千年の横顔を見た。
 大人は正面を好む。御崎さんも例外じゃない。だから体位が変わり映えしない。ただ具合が良いってだけかも知れないけど。
 ぼくは誰にも教えない。
 千年は、本当は、横顔がいい。
 髪の毛、額、眉毛、瞼、まつ毛、瞳、下のまつ毛、鼻梁、下唇よりわずかに前へ出た上唇、そして下唇、おとがい、咽喉仏、
「痛かったか、万」。
 マフラーの下に隠された稜線の続き、
「気にしないで」。
「赤くなってる」。
「だとしても気にしないで」。
 さっきぼくの咽喉の奥を突いた指が顎にひっかけられてぼくは叩かれた頬を千年にじっと見られる。
「でも、赤くなってる」。
 千年が口を開けたからほっぺた噛まれるかもと思ったけど噛まれたのは耳だった。
「怒ってるだろ」。
「ないってば」。
「御崎さんの家でお前のこと死体って云ったこと」。
 ぼくはしばらく返事をしなかった。
「それは、怒るよ」。
 思い出して呟いた。感情はできるだけ押し殺したつもりだったけど、千年の無慈悲な観察眼の前にそれは無意味だ。いともたやすく見てとられ、それどころか、押し殺そうとした意図がかえって彼の同情を誘い、ぼくは舌の付け根まで愛撫される。
「居合わせたらああするルールだろ」。
「初めて聞いたよ」。
「忘れてるだけさ」。
「いや、初めてだね」。
 ぼくらはこんな会話を、呼吸の合間合間に行うんだった。
 背の高い雑草に埋もれて、暮れゆく空しか見えない。遠くで汽車が線路を踏む音がしていなければ、世界の終りにいるんだって云われて容易く信じただろう。
 秋と夕焼けは嫌いだ。
 ぼくを哀しい予感に浸らせるものは。酷いものや直接的なことは平気なのに、強いんだか弱いんだか分からなくなる。
「忘れてる。万は、忘れてるんだよ。何もかも。本当に」。
 ぼくは千年の顔をよく見ようとしたけどできなかった。体が土の上に押し倒されて、千年が覆いかぶさってきた。寒いだけだからこうしている。ぼくと千年は時々野良猫のように重なり合う。御崎さんと違う。ただ、くっつき合う。産まれる前からそうだったみたいに。
 千年が意地悪をして、忘れてる忘れてる、と繰り返すから、ぼくは本当に自分が何か忘れて、千年を裏切り続けているような心持になってくる。忘れていることは指摘されるまで分からない。忘れ物が、それが必要になった時に初めて忘れ物だったと気づくみたいに。気付くまでは何も忘れていないのに。すべて覚えているつもりなのに。
「星が出たよ」。
 何時間、いや、何十分かも知れない。ぼくが背中をたたくと千年は身じろぎした。良かった、生きていた。全体重を預けてくるからぼくは千年が死んでしまったかと思った。
「何座」。
「さあ知らない。帰ろうよ」。
「そうしたつもりだったんだよ」。
 千年がぼくの肩に拳をぶつけてくる。そう、そのつもりだった。御崎さんの家から二人で一緒に出て、向かいの自宅に戻るつもりだった。今日の夕食は千年の番で、材料も買ってあった。今から作っても間に合うだろうか。十時から毎週欠かさず見ているテレビ番組を見て、お風呂に入る。石鹸を泡立てて、手のひらで互いの体を洗う。ぼくと千年の手は同じくらいの大きさで形も良く似ているから、まさに「届かないところに手が届く」って感じで、洗い合うことは気持ち良い。千年の前髪を撫でつけると千年は前髪を下ろそうとしてぼくの頭から洗面器いっぱいのお湯をかけてくる。くだらない遊びは浴槽に張ったお湯が冷めるまで続く。一つの布団に潜り込んだらぼくは右向きに千年は左向きになって昨日や明日を話す。今日のことは話さない。だってまだ分からないから。だけど明日になればそれは昨日になり、昨日それは明日だったんだから、一日を無駄にするわけじゃない。千年は時々ぼくの中へ入ってくる。今日はたぶん入ってこないだろうけど。
「あの馬鹿女に捕まって、趣味の悪い喫茶店になんか連れ込まれなけりゃな」。
「千年なら振りほどけたくせに」。
 要は暇つぶしをしていたってこと。
 上体を起こした千年を仰いで、ぼくは、御崎さんの家で見た光景を思い出す。死体と云われた以上ぼくは死体でしかなくて、自分に似て非なる従弟の千年と、ぼくもその感触を知る御崎さんとがシンプルに絡み合って、まるでぼくのことなんか本当に死んでしまったと心底思っているみたいに、時々揺れて、いるのを、思い出した。
「千年。は、きれいだね」。
「お前がその顔でそれを云うとナルシストになるんだけど?」。
「ううん、似てないよ」。
「似てるって」、千年はむきになったみたいだった。こんな時は、ああ年相応、と思う。
「帰ろう」。
 ぼくは先に立つと千年の手を引いて立ち上がらせる。川原を歩いていくうちに空の星は増え出した。スーパーに立ち寄り千年はぜんざいを、ぼくはサラダを定価の半分で買った。それでも余った分は廃棄されるんだろう。ぼくはこの国で餓死する人間がいることを信じられない。
 御崎さんの家の明かりは消えていた。寝たんだろうか。出かけたんだろうか。起きて、何かしているかも知れない。
 千年が畳の上に脱ぎ散らかした服を拾って、ハンガーにかけたり、洗濯かごに放ったり、ぼくは忙しい。押入れを開けると猫が一匹飛び出してきて、出がけに閉じ込めたらだめだって云っただろ、とぼくは千年を叱る。
「そうだ、雪兎にしよう」。
「何が」。
「その猫の名前」。
 ぼくは千年の提案について少し考えを巡らせる。
「そしたらもっと虐めるだろ」。
 炬燵に入った千年は笑うだけで答えない。早くもぜんざいの蓋を開けている。ぼくは郵便物を確かめる。請求書と、町内会のチラシ。新聞回収のお知らせ。新聞は取らないから不要。今月の水道代。先月の電気代。また御崎さんにお世話になる必要がありそうだ。お菓子の空き袋。近所の小学生が入れていったもの。の下に、お花見会のお知らせ。へたな字。これも近所の小学生だろうか。
「千年。町内会のお知らせ」。
「めんどくさい」。
「お花見会だって」。
「めんどくさい」。
「ぜんざいが出るよ」。
 千年は、めんどくさい、と云わなくなった。
 ぼくは参加希望という文字にボールペンで丸をした。明日、町内会長のポストに入れておこう。決めてぼくは炬燵に潜り込んだ。マゾの雪兎が寄り添って、千年はプラスチックの蓋に小豆をのせて差し出した。ぼくは千年の行動を横目で確認して「よしよし」と頭を撫でてあげた。
 こんな日が、七歳の秋の夕暮れからずっと、ずっと続いてる。