空気中を埃のように舞う滴がどれもこれも七の七乗輝いて見えている。ほとんど調度品のようになりかかっていた子供じみた肩甲骨の窪みで血が痙攣するとほどなくして体温は上昇を始めたが負傷した野良猫のような足取りで上がったり下がったりを微細に繰り返した。
  理科室の扉が音も無く閉じたり開いたりしている。
  教室が連なる廊下側に立って放課後を持て余していた生徒の一人が木の板の影から中を覗き込もうとするでもなくただ立って観察をしている。頬に蚯蚓腫れのような跡がある。草叢をくぐっていて引っ掻けたのかも知れない。生徒の瞳の底には霧に覆われてはいるが確かに存在を示す遠くの岬の灯台のように生命の恍惚が主張していた。そしてそれは生徒自身の意思や意識とは何ら関係がないものだと云ってさえ過ってはいないことを世界でまだ誰も知らない。
  重力から自由になった、青や茶色や透明の瓶が爬虫類が孵化する時の脆さと強かさのあいまった程度でもってカタカタ音を立て接着していた地面から今にも飛び立とうとする。昼の実験で臓器を暴かれた死骸の蛙が息を吹き返すと腹筋運動の要領で体を起こし自ら腹を縫い閉じだした。
  生徒はいつしか理科室の内側にこもっていた。
  周囲が細やかに振動し括り付けの糸から解かれようとする。そうして余った糸はすべて、解剖された生き物たちの傷口を縫い合わせるのに使われた。
  痒さを覚えて生徒は頬に手を当てた。眉間から目頭、鼻の脇を通り口角に達する蚯蚓がのたうち回っているのだが痛みは感じずただむず痒い。
(そうだ僕はカッタナイフーを引き出しに忘れたのだった)。
  さらに具合の悪いことにその盛り上がった生き物は皮膚の下を這い始めた。翻弄されるのも忌々しく、潔く諦めた顔つきで一番に傍の椅子に腰かけると椅子は不満げに軋んだ。仲間より早く宙に浮きあがれないことが癪なのだろう。
  蛙が教えてくれた戸棚からメスを取り出した生徒は、ここぞと思う場所を切りつけて気ままに自分の皮膚の下を這いずり回る生き物を抜き出してやろうと思うのだが不発に終わった。ここぞと思って切り付けた時にそれはもうそこでなく別の場所へ移動してしまっているからだった。このままでは皮膚を剥ぐ他無いじゃないか、と生徒は笑った。むろん自分だけの冗談だ。
「手を貸そうか」。
  だから別の声がした時生徒は珍しく心から驚き、冷静を取り戻すのに時間がかかった。
「いえ結構です」。
  生徒は彼の姿をまじまじと見た。
「いつからいたの」。
「ついさっき」。
  生徒は、そう、ちなみにこの生徒は十六夜といったが、十六夜には彼の測る時間と自分の測る時間との概念がそもそも大きく隔たっており、よってたった今の会話に意味のないことを瞬間的に悟った。十六夜ほどの年の生徒はことあるごとに悟る。大人が、一から百まで順序立てて学ばなければようやくそれと理解できないようなことや、あるいはそれでも理解に達しないものであっても、悟るという行為は容易く自分のものとした。
「え、何」。
「手を、貸そうか。って」。
  彼は時間がたっぷりある親切な大人が自分のではない子に対し云い聞かすように丁寧に云った。だがそういう彼自身も十六夜とほとんど年は変わらないのだった。兄弟だといっても誰かには通じただろう。十六夜自身、そうではないのかと感じた。ここに鏡が無くて良かったと思った。似ていないことよりも似ていることに愕然とさせられそうな予感があった。
  ちなみに細いメスを手にした十六夜が利き手を血で湿らせている間、理科室の備品たちが浮遊の努力を怠っていたわけではない。仰げばビーカーもフラスコもまるで水族館のくらげのように頭上をゆらゆら右へ左へ行ったり来たりしていた。
「遠慮するよ」。
  十六夜はそう云ったつもりだったが彼は切りつけてきた。しかもその手が握っているのは十六夜が教室に忘れてきたはずのカッターナイフだった。
「切れ味が悪い」。
「だって人を刺した」。
「その子のことを憎んで?」。
「いいや、ちっとも」。
「では何故」。
「それを知りたくて」。
「知りたくて。ただそれだけのために」。
「そう。みんなだってそれだけのために生きてるんじゃないか」。
「憎んでさえいないの。誰も」。
「そう。誰のことも」
「きみは寂しい」。
「そうみたいだ」。
  十六夜が開き直ると彼は一瞬、瞬きのタイミングを間違えたようだった。ぱしぱしと音を立てて瞼を開閉し、母親の慈しみと父親の軽蔑が入り混じった目つきをした。
  やがて呟いた。
「僕と同じだ」。
「そうみたいだ」。
  答えた十六夜は夢を見た。
  自分の体が宙に浮いて切り開かれていくのを。鮮やかに。無駄の無いつくりを。精巧を。無数の滴の中で。
  七の七乗、輝いて。
  生きてたい。生きてみたい。生きて、みたい。
  細胞はどれもこれもが同じことを云った。


  みたい、
  生きて、
  みたい、
  生きてきたみたいなんだ、
  生きて、これからも
、みたいんだ。


「十六夜」。
  膨張した滴が体積を増した水泡になりその割れない膜に圧迫されて息が詰まりそうな時、誰かが僕の名を呼んだ。
  目を開けるとそこは理科室ではなかった。
  黄色い天井。白いカーテン。黄色い天井。白いカーテン。
  手。僕の手は、自分に傷つけられた自分の血に染まってなんかない。
「十六夜」。
  大丈夫か、と心配しているというよりも呆れたような声がして僕は自分以外の存在を思い出す。
「死んだかと思った」。
「先生」。
「直接嗅ぐなって云っただろ」。
「何を、」。
「ああ、もういい。おまえがちゃんと目覚めて日本語喋ってくれればそれでもういい」。
「……先生」。
  僕は白衣のままの男を見上げた。細い顎に無精髭。見上げられていることに気づいてか、少し鬱陶しそうに頭の後ろを掻いた。照れ隠しなのだとしたらなんて不器用な大人がいたものだろう。
「先生」。
「うん?」。
「今、何時ですか」。
「知るか」。
「放課後ですか」。
「昼休みだ」。
「一週間後の、とかナシですよ」。
「こっちの台詞だ。今日に決まってる」。
「そうか僕はそんなに長い時間伏していたわけではなさそうですね」。
「俺の応急処置が良かったんだ」。
  せいぜい感謝しろ、と云いたげな男は無視することにする。当然だ。
「あ、そうだ、先生」。
「うん」。
「先生にも、若い頃があったんですね」。
「ばっか、十六夜おまえ、おまえ、なあ」。
「分かってます。そりゃ先生もかつては赤ちゃんだったんですもんね。こんな、髭だらけになるなんて想像もできないほど」。
「だらけ、ってほど生えてねえだろ。頬擦りするぞ、このやろう」。
「うつるからやめてください」。
「うつんねえよ髭は!」。
「いえ、バカが」。
「おい」。
 だいたいおまえは年上しかも教師しかも命の恩人しかもまだ三十路の相手に向かって感謝の言葉よりも先に云うことがなあ、と嘆きだした男の顔に僕は誰かの面影を捜すも、それがそのまま当人であればこそ思い出せることは無いだろう。
  一瞬の小旅行。
  僕は去ったけれどあの場所では今も、ビーカーが転がり、器用な蛙が腹を糸で合わせ、フラスコが反射する光が、七の七乗、そのまた七、七、七乗にも乱れて、割れんばかりに輝いて、危険だと釘を刺された薬品の匂いを迂闊にも吸い込んでしまった生徒を食っては吐き出すだろう。
 
  信じないシーツの下の思ったより広いポケットの中で、カッターナイフはその刃を閉まっていく。
  どこかの小さな劇場で緞帳が下りる時、これとよく似た音がする。



七 の 七 乗 ト リ ッ プ