早良川家の末裔、長男と次男が庭に出て殴り合いを始めたのは夏の夕暮れ時だった。

 通り雨が過ぎ去った後に吹く風が屋根や梢の滴を転がせて世界は靄の奥から懐中電灯で照らしたように物質的な光に満ちていた。
 発端は何であったか最初に手を出したのはどっちであったか以前にもこのようなことがあったが何故あの時に結んだ停戦条約をこう簡単に破ってくれるのかなどといった質問を出先から帰宅した末弟はいっさいすることもなく、ただ一言双方に対し薄らと悲しみをたたえた目を向けてだいじょうぶかと訊ねた。泣き出しそうでもない、やや伏せられた目が次男の背に長男の踵の下敷きになりもみくちゃにされた家庭菜園の苗木のひとつを忘れがちな瞬きの合間に見下ろしていた。末弟にその顔をされるとどちらの兄も滅法弱い。人の目には見えないが威嚇と逆立てていた全身の毛が水を浴びたがごとく彼らの体躯は一回りも二回りも縮んで見えた。
 お醤油、買ってきましたから。末弟は何事か思いつきでもしたかのようにふいに毅然と前を向くと買い物袋を揺らしながら縁側から入り居間を横切って台所へと向かってしまう。兄は項垂れその背に従った。彼らの去った足もとで蝉の抜け殻が破壊されず転がっている。それは何にもならない雨水を溜め、何にもならない光を微かに反射している。

 お豆腐に、しましたから。
 末弟は宣言のように献立を紹介すると、刻み葱と生姜をのせた豆腐の真ん中を新品の箸でさっくりと割った。完成した白い渓谷に漆黒の醤油溜まりがじょじょにその色の正体を明かしながらさらさらと垂れてゆく。その傍らで次男は末弟ほどうまく箸を使えずに豆腐を潰した。
 早良川家の食卓は儀式に近い。
 末弟の宣言から始まり、合掌に終わる。
 円卓は互いの膝や食器が触れ合わない程度に広く、溜め息などが届く程度には狭い。
 内容問わず形式が整えば儀式めいてくるのであらばこの時代すべての家庭の食卓は儀式だった。
 ご飯、と長男は云いかけたのを改めて吸気と共に打ち消してしまうと今度はしんと黙って豆腐を二つに割ることに専念することにした。彼は山葵と刺身醤油でこれを食う。狭小化してしまった食道に流し込むがせき込み、末弟はそれを気にせず箸を進めた。
 本日の三兄弟が囲む食卓は半人前の咀嚼音と箸や皿の触れ合ってたてる音が慎ましやかに鳴っているだけで今のところ会話のひとつも起こらない。長男と次男はいつだって末弟を間に座るから自然向かい合わせとなるのだが今度視線を合わせた時、二人の闘志はほとんど過去の遺物だった。
 この兄弟、血は半分ずっこしか繋がっていなかった。だがそれをもとに詰りあいや諍いが起こったことは無かった。発端はそれと無関係だった。むしろその事実が外貌に現れているがためにかえって理解と尊重が教わらずとも育まれ、鏡の自分を見るように相手の境遇を労わる心さえ抱いていた。それはある種の自慰行為に他ならない。
 いまだ十代半ばの末弟は実より三つは若く見えるほど脆弱だったが(十代における三つとは以降のどの十年間における三年をとったにしてもそれに勝る錯誤の大きさをもの語る)、上の二兄のことを、俯く仕草や憂いを忍ばせた顔を向けるだけで自分にとって都合の良いように動かすことに長けていた。もっとも末弟彼自体にはそんな思惑など無かったかも知れない。そう云うのも末弟には、親族が日蔭を好んで語る話の内容から言葉を拝借すれば、忌まわしい呪いの跡があるからなのだが、その呪いとやらの記憶により彼は今でもある限られた一定の夢の中のような現実にしか生きていないのだという。だから彼は周囲の動向を気にかける余裕など持たないのだ、と。理由はどうあれ事実においては長兄と次兄のほうが詳らかに出来事を把握しているだろう。
 美味しいですね、と末弟が云えばたとい毒でも皿でも平然と食らうに違いないのだった。
 瞬間、毒や、と次兄が囁き箸を置いた。
 長兄はぎょっとして末弟の顔を窺うが彼は様子から察したのか、声を立てず笑っている。
(共謀したのだ、弟二人してこのおれを嵌めやがったのだ)。
 長兄は、そうか毒か、と神妙な顔で白い豆腐を舌の上へあたらしく乗せる。
 そうだ、これは毒のかたまりなのだ。
 次兄が初めて豆腐に箸をつけ、ここ最近感情を露わにすることのなかった末弟がついに笑い出す。
 毒だ毒だと発言しながら白いものを口に運んでいるうちに、いっそこれが本当に毒だったのならという発想がかえって二人の兄の中に起こった。

 死を怯えず生を覚えず三人で囲む食卓に毒を盛り、しかもその格好はたんに夏の冷奴を食す光景として存在し、おのおの好きな薬味で調理し、多くを語らず、時折にやにやと笑い合い、末弟がつられながらもやや二人に遅れて笑い、西日はどこまでも長く、庭の蝉は何にもならない水と光を抜け殻に受け溜め、去年と来年の同じ時期を疑わず、毒だ毒だ。と。それは海上で船員同士が送り合う明滅のように、かの国でサリバン女史が少女の手に溢れさせた水のように、視界の及ぶ範囲すれすれにおぼろげに認める恋煩いの目線のように、儚いが確固として、それ以外の可能性をいっさい排除した強烈な意味をもって、その細さでかえって的確に目標の臓器に達する天才外科医の執刀さばき。

 この日を忘れないよ。長兄が云い次兄は黙っている。咀嚼するたび顎を動かすので頷きともとれる。碁石のような黒い目をした末弟は新しい豆腐をすくいあげると小皿に取り、先刻と同じように生姜と刻み葱をのせた。

 神聖なる沈黙にもう飽き足りたか緑眼の次兄が、
「今日もまたご婦人方がおまえの噂をしていたぜ」。
 おまえの、のところで長兄を指して云う。
「箸を向けるな」。
 眉間に小さく皺が刻まれる。
「箸を向けるな? あんたも悪人だな」。
「何だと」。
「誰彼かまわず竿を振り回すことはべつに良くって箸を向けるくらいの行為を咎める。それで平気に優男を気取るからあんたも悪人だなと云ったんだ」。
 長兄は図星の反応など微塵も見せず報復、
「そういえばおまえ、阿呆の真似はまだ飽きないか」。
「何を」。
「悪いわけでないのに眼鏡をかけ、逆さの書物片手に内容をそらんじながら街を往復する奇行についてだ。おかげでご婦人方から阿呆の兄貴呼ばわりだ」。
「兄貴。おれが読書を止めて余った関心を家族の身に注いでいったらどうなるかあんたには想像もつかないだろうな」。
「想像したくもない。それにおまえが関心あるのは本じゃないだろう」。
 そうであった。次兄は成績優秀者に与えられる奨学金で専門的な心理を学ぶかたわら、学術誌に論文も載せていた。奇行はサンプルのためと称し繰り返される実験の一つだった。しかし中途でその行為が次兄にとって私的な悦楽に結びついたことは明らかだった。脈絡の無い言動を曝し、それに向けられる第三者の目を意識する。長兄に云わせれば変態とのこと。がしかし次兄に云わせれば長兄がそうなのだった。
 こんな二人の暴力沙汰の発端は末弟のことだった。
 兄を務める二人の男にとって半分は同じな血であるということなどまったく何にも値せず、この弱い弟を持つという点のみが共通項としてようやく認められていた。
 或る昼下がり、自宅兼職場であるこの早良川家でその家主であり三兄弟の最年長である男が一人でうたた寝をしているとそこへ誰かが帰宅した。忍んでいるのなら次兄、物音が微かだというだけならば末弟だと分かるのだがこの回はやや不明瞭だった。西にひらかれた窓から入る風が久しぶりに涼しかったせいかも知れなかった。家主は狸寝入りを決め込んだ。帰宅者は家主のすぐ傍まで来ると静かに立ち止まり、どうやらじっと見下ろしているようである。家主は何やら得体の知れぬ相手ではないかと憶測し目を開いて彼の人を見上げてしまいたい衝動に駆られた。ひんやりとした掌が頬に押し当てられた心地がして不自然に息を吸うがそれは相手に家主がすでに覚醒状態にあることを知らしめる程度には及ばなかった。しかし家主はその時もうすでに冷たい手の持ち主が誰であるかをはっきりを認識しており、心の中ではその名前を呼びかけてもいるのだった。
(にいさん、起きているか)。
 勿論今更返事などしない。たとえ嘘の態度が露見したとしてもその時はただ笑い飛ばしてやろう。家主は腹をくくる。この世でたった一人、にいさんと呼びかけてくる相手に。
 やがて瞼の上が暗く翳り、末弟が自分の頭を覆うような格好で覗き込んでいる体勢を思う。
(どうしたのだ?)。
 家主はあくまで心の声で末弟に話しかける。目を開けて声に出したくとも体は鉛でできたように儘ならない。頬にあてられた手の冷たさに一瞬にして体温や血とともに魂ごとを巻き上げられてしまったかに思われた。
 耳朶に柔らかなものが触れ、声がすぐそばで聞こえて口唇だったと分かる。
(にいさん。あの時この世に残ったのが僕で、悪かった)。

 許そう、と受け容れることも。おまえは悪くない、と否定することも。できず家主の長兄は瞼を閉じ続けた。生まれながらに青い瞳をその下に隠し続けた。

 おれたちの弟が悔恨で胸を痛めている最中。
 もっとも傍にありながら何故、狸寝入りを続けやがったのか。
 鬼畜。無能。歩く下半身。
 次兄の主張は、それだった。
 そりゃあ二足歩行の人類なわけだから下半身で歩くだろう。
 長兄の冷静な反論が引き金だった。
 蛇足だが長兄のこの返答自体になんら悪意は無かった。

「言葉なんか要らなかったんじゃないか」。
 夕食後、宵の風に涼みながら庭に面した和室に座っていると次兄がやってきて長兄の背中に吐き捨てた。だがそれは次兄なりの優しさに他ならない。
「きっと。たとえばただ抱き締めてやるという手も」。
「お前ならそうするか」。
「する」。
「そうか」。
「今ならな。だが咄嗟に云われたら、やはり寝たふりをしてしまったかもしらん」。
「そうか」。
「そうだ」。
 気に食わないがあんたとはこれでも兄弟だからな、と次兄は西瓜を差し出す。
「きっと似てるんだ」。
「毒じゃなかろうな」。
「食べてみれば分かるさ」。
 次兄の云いように長兄は苦笑して一切れを受け取った。しゃり、と軽やかな音とともに歯が感触を思い出し、この国じゃ四季が巡るのだったな、と改めて思う。
「許すよ、兄貴。あんたの無責任さを」。
「おまえは簡単に許す」。
「寛容だからな。気が利かないくせに年長者ぶるところが胸糞悪いのにも目を瞑っててやる」。
「ありがたい」。
「ああ。だから、一緒に生きてやってくれ」。
 吐き出すつもりの種子を長兄は三四粒いっきに飲み下して目を丸くした。
「なんだ兄貴その顔は」。
「いや、咽喉に種が」。
「まったくど阿呆だな。これ以上あいつの周りにおかしな死因の死人を増やすな」。
 もっともだ、と頷くと長兄は思い切り種子の連なりを嚥下した。
「西瓜の種は虫のようだから苦手だ」。
「その錯覚でよく西瓜を食えたもんだ」。
 次兄が嫌味を云えば、長兄の膝に頭をのせた末弟が笑う。
「……聞こえているのだろうか」。
「……そうかも知れないな」。
 長兄と次兄は末弟の耳朶を片方ずつ摘まむと幼児をあやすように揺らした。
「いつか戻るだろうか。こいつの耳も」。
「仮に戻らないでもいいさ。おれとあんたは一緒にいる限り口論をやめない。そしておれたちとこいつはこれからも長らく一緒にいるだろうから」。
「おまえは案外と、なんていうか、家族好きなのだな」。
「情けだ、ど阿呆」。
 末弟が欲しがったため次兄は新しい一切れを寄越した。

 あの日死んだのは誰か。
 あの日死ななかったのは誰と誰か。

 早良川家の庭には抜けた奥歯が転がっている。
 夜に浮かんだ月に返事するように、それはほのかに光を発する。



早 良 川 家 の 暮 れ か ら 晩



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