男が、走る。
 白い廊下の上をひるがえったコートとその影が、黒い翼に見える。



走 る 男



 男は妄念につかれている。
 踊る裾を宝石がころがって後方へ投げ飛ばされる。
 窓から射す長方形の光がトランプのように並んでいる。
 抱えた紙袋には宝石がつまっていた。ちいさな子が病室から顔を出して彼の来る方角を見つめるが男はその期待に満ちたまなざしを無視する。そればかりか、邪魔だ、とばかりに睨みつける。子どもたちは驚いて泣き出す。しかし男が走り去った後に残された宝石の正体が実は色紙に包まれたチョコレートやクッキーなどのお菓子だと知ると歓声を上げ、涙に濡れた頬を光らせながら我先にと拾い集め始める。
 男は、泣きたいと思った。
 腕の中のものが次から次へと零れ落ちていることは分かっていたが引き返す気にはならない。拾い集めている時間はない。
 この一週間でたくさんの街を旅した。
 日の長い街、霧の街、海岸線に伸びる街、海を知らない街、言葉の通じない街も、通じる街も。
 その各所でメモを片手にお菓子を買い集めて回った。
 時折、自分はいったい何をしているのだと我に返らないでもなかったが、依頼主の喜ぶ顔が見たい気持ちが彼を従順にした。
 メモには旅程が書きこまれてあった。寝ていることが多くなった依頼主が目覚めている時間を費やして完成させたものだと思うとすべての用事を済ませたことが分かった瞬間でさえ捨てる気にはならなかった。その紙切れは今もコートのポケット、心臓に一番近い場所にしまいこまれている。
 これはおかしい。男が気づいたのは七日目の朝、つまり今朝のことだった。
 宿のベッドで買い忘れが無いかとメモを広げていた時だった。
 メモにはお菓子の名前が連なっているばかりでなく、菓子店へ辿り着くまでの簡単な地図、そしてどの街を何番目に回るのか、というところまで細かく指示されている。
 受け取った時は、子ども扱いしやがって、と愚痴をこぼしたが、果たしてほかに意図が無かっただろうか。
 男は改めてメモを見つめた。
 朝陽が彼の顔立ちを彫刻している。旅館のバルコニーは東に向いており陰影は淡い。彼はその髪の色からロッソと呼ばれている。十代の前半ではさらに明るい色をしていたが学校を卒業し十年も経つと髪の色は少しずつ、彼の兄の色、つまり今回の依頼主の持つ黒い髪に近づいていった。学生時代は兄弟と気づかれることが少なかった。骨太で屈強な体つきの弟と、痩身の兄は、シルエットひとつとっても似通ってはいなかった。
 その兄がメモを渡してきたのは春の盛りだった。病室の窓は開け放たれ、花の蜜が香っていた。中庭の噴水の音が聞こえた。
「ロッソ。頼まれてくれ」。
 世話を焼かれることを嫌がる兄の見ている手前、せめてもと花瓶の緑を入れ替えていた男ははっと顔を上げた。すぐ後、唐突に過ぎたと自戒するが兄は気に留めたふうもない。完成するまではどうしても見せたがらなかったメモを、今まさに差し出している。男は黙って受け取ると書かれている内容を一度、二度、三度と読み返し、「つまり」と兄の顔を見返した。
「弟よ、おつかいに行ってきてくれ」。
「・・・は?」。
 男の反応に兄はからかうような微笑みを浮かべている。
 学校へ上がる前、溢れるほどの時間が思いのままに使えていたあの頃、二人で思いついた悪戯を実行するまさにその直前のような微笑みだ。
「・・・何故だ」。
「食べたいから」。
「・・・だったら、電話一本で取り寄せてやる。生ものは含まれていないようだし、三日もあればどうにかなるだろう。それに、七日も店を空けるわけにいかない」。
 受諾しかねると態度で示す男に、兄は不満そうな目を向けている。
「おれの命令がきけないのか」。
 男は動揺した。
 あれを盗ってこい、あれを騙してこい。あの男から掏ってこい、あの女を誑かせ。
 悪事の基礎はほとんど兄から学んだ。実践をけしかけられて乗り気でない男はたびたびしくじる。しくじることで兄を窘めようとしていた節もあるにはあった。そんなにうまくいかない。おれはあんたの期待にそえない、と。しかし、男が失敗し罪が露呈した場合、罰を引き受けるのは兄一身だった。大人は兄を捕えて罪の何たるかを教える。ある時は神の名において。しかしその神の存在を兄がはなから疑ってかかっているため悪癖はついに卒業まで矯正されることがなかった。
 貧しい生まれだった。
 親の顔もよく覚えていない。おぼろげに浮かんでくる二つの顔も、果たして血の繋がった肉親のものかどうかも分からない。
 男の記憶は兄から始まっている。
 もっとも古く、原始的なイメージだ。
 口も手癖も悪いが自分に向けられる表情のどこにでも愛情を見つけられないことがなかった。その事実が、男を兄に逆らえなくする。
 周囲は兄弟を誤解した。
 優秀な弟、不良の兄。神童と悪童。あのような兄とは手を切ったほうが君のためだ。
 真摯な言葉も何度となく聞かされた。その声は教師であったり級友の数名であったりした。 彼らの中で男はあくまでも善人であり兄は常に悪人だった。
 一方で、兄を慕う者もあった。彼らが惹かれるのは兄の尽きない悪行の数々であったり稀な容貌であったりその両方であったりした。ただし誰も口にはしなかった。表面上では兄を罵りながら、弟の立場を慮り男に同情した。そしてやはりみな同じことを云うのだった。あの兄とは手を切れ。早ければ早いほどいい。そうしなければ君の人生まで堕落する。滅茶苦茶になる。ほろびる。君の兄は君に依存し過ぎている。君だけに与えられた才能のことを妬んで、君を自分と同じ道に引きずり込もうとしているのだ、と。男は否定しなかった。肯定もしなかった。そんな時は黙って思った。本当にそうだろうか。自問をした。答えはいつも決まっていた。分かっていた。おれの才能を妬んでいる? おれの人生を堕落させる? 
 だけど、寝顔をおれ以外の誰も知らない。
 張り詰めた緊張に偽装された仮面が剥がれ落ちた無防備のままの驚くくらい幼いのを。
 知らない、くせに。
「命令、といわれても・・・」。
 男は珍しく躊躇した。
 お菓子などと口実をつけているが兄が他に理由を隠している気がしてならなかった。
 最近は直視することを避けていた横顔に目を向けると、緑色の目がじっと自分を睨んでいたことに気がつく。
「ロッソ。おまえ、寝てないだろう」。
「寝ている」。
「何時間だ」。
 二十時間、と一週間分の答えをすると、一日の何時間だ、と嘘を見抜かれる。卒業して少しはまともな嘘も吐けるようになってきたかと思っていたが相手が悪い。嘘は見破られるものだという先入観が植えつけられている。
「息抜きが必要だ。出かけてこい」。
 兄は窓の外に目をやる。
 庭の緑が光って兄の薄い輪郭をさらに淡くしていくのを、男は見つめる。自分と異なる黒髪の頭も、首、肩から腕、手首、指、爪の先に至る線を、網膜に焼付けようとしている自分に気づき嫌悪する。
「・・・だが、しかし、」。
「おれのせいにするな」。
 兄が振り返って釘を刺す。吊り上った目は庭の緑の光をじゅうぶんに吸収して同じか、それ以上の輝きを放っている。男は催眠術にかかったようになる。
「出かけてこい。店の皆には、おれのせいでいいから」。
 おれのせいで、いいから。
 兄の眼差しの意味はいつもそれだったのだと男は初めて言葉として受け止める。命令を果たすとき、悪事をこなす直前、罪を犯す自分に怯えて振り返れば兄はいつもその目をしていた。その目で男を見つめ返した。
「・・・さっきと云ってることが逆だぞ」。
「煩い」。
「・・・分かった。ならこの件はしばらく考えてから答えを、」。
「今だ。今決めろ」。
「無理を云うな」。
「日にちも決めてあるんだからな」。
 男はメモに視線を落とす。確かにそこには何時にどこ、というふうに時間設定まで細かくされている。
「景色を楽しめるような道程を組んでやったからな。素晴らしい兄貴を持ったことに感謝しろよ」。
 得意そうに兄は笑う。
 男は椅子から身を浮かせる。
 それから、ほとんど諦めたような笑みを浮かべた。
「・・・ありがとう、兄さん」。
 男がこめかみに頬を寄せて感謝の言葉を述べると兄は大きく肩を揺らした。不意打ちだと抗議してくるが男は構わなかった。口づけた場所に額を押し当てて目を閉じる。次第に兄も静かになって目を閉じた。
 ありがとう、行ってくる。
 そう告げたのが八日前。
 発ったのは七日前のことだ。
 ちょうど、一週間。
 男は擦り切れた一枚のメモを陽にすかした。そこに文字が浮かび上がるのを期待するかのように。文字は浮かばなかったがある考えが男の頭に浮かんだ。
 兄の姿を思い出す。緑の輝きが溢れる庭、光に押しつぶされそうな体の輪郭。

「兄さん!」。

 その瞬間、ガラスが割れる音がした。
 男は入口で立ち止まり、肩で息をした。
 見開かれた緑の目が男を凝視している。その手はつい先ほどまでそこに携えていた花瓶の形のまま硬直しており、床には水に濡れた破片と裁ったばかりの草がばらばらの方を向いて散らばっていた。
 抱えてきた荷物、中身のほとんど廊下に落としてしまった紙袋を入口に置くと、男はゆっくりと歩み寄った。近づけば逃げてしまう幻である危惧も否定できない。最初の内は緩やかに静かに近づいていき、手の届く場所に到達したことが分かるやほとんど暴力の強さ、捕食者の獰猛さで体ごとを覆った。
 は、は、は、と小刻みに、笑いのような息が零れる。
 外の冷気を纏った外套が兄の痩せた体を縮こまらせていることは承知だったがどうすることもできなかった。手を離した傷口から血が溢れて痛みが再発するのを恐れるように男はますます締め付けを強める。苦しい、と兄が訴えるのも無視してついには股間を蹴り上げられた。
「・・・ばか、おれを、殺す気かっ」。
 兄は本気の怒りをぶつけてきたが弟は構わなかった。すまない、と言葉で謝罪しながら泣き笑い、裸足に近い兄の脚が破片を間違っても踏みしめないよう抱え上げ寝台の上におろす。
「旅先でいいことあったか?」。
 ようやく落ち着きを取り戻し主導権を支配しようとする兄だったが弟は黙って首を振り、兄の上体が完全に仰向けになるまで頭突きした。
「・・・なんだよ。どうした。ロッソ、うん?」。
 体格の良い弟にのしかかられて力の入らない兄はかろうじて自由になる右手で赤毛を梳く。くぐもった声がその下から何か喋っているが聞き取れない。
「聞こえないぜ」。
「・・・兄さんがっ」。
「うん?」。
「・・・おれを遠くに行かせたのはっ」。
「うん?」。
「自分がひとりで消えるためにそうしたなんじゃないかと、思った・・・っ」。
 廊下に落ちていた色とりどりの宝石のようなお菓子を拾いながら後をついてきた子どもたちがようやく個室の前に追いつき、開け放たれた部屋の様子を外から窺って笑いを噛み殺している。
 ロッソが泣いているよ。
 あの、大男が。
 黒い山が揺れてるみたいだ。
 ひそひそと聞こえてくる話し声を耳にした兄は吹き出しそうになるが男のほうはそれどころではなかった。
「ばかだな、ロッソ。そんなに自分の兄貴が信じられないかよ」。
 しばらくの沈黙の後、「られない」と断言する男に兄は苦笑をこぼした。
「無理ない、か」。
「そうだ」。
「でも仕方ねえよ。お前はおれの弟なんだから」。
 大きな体で寝台に乗りあがり子どものように嗚咽する男の広い背を兄は撫でた。
 黒い生地が毛羽立っているのが目の前に見える。鼻先で赤毛が揺れている。くすぐったく感じ身を離そうとするが逞しい腕がそれを妨げる。
 兄は、山の頂にある残雪のような自分の手の甲を見ていた。
 こんなにも愛されている。それが自分のことだとは思えなかった。だから心の中で男に謝罪をした。
 おれはお前から、お前の兄であるおれ自身を奪うよ。奪って、しまうよ。連れていってしまうんだ。そう遠くない未来に。
 そう、ただ思っただけなのに男は何か感じ取ったように背を丸くする。兄は平気な声で「はいはい」となだめるように声をかけてやりながら、ついに悪事から切り離されることのなかった白い手で黒い外套の背を繰り返し叩いた。
 白い部屋の、白い布の上で。すべての光が集まるこの部屋の誰かが殺人者になる。
 それでも、綺麗。
 きれいだ。



121014