0 ある雪の日

 ある朝、おんぼろアパートの一室で、一人の青年が息を引き取りました。
 雪の降る寒い日でした。
 彼の枕元には、ふわふわの髪をした少女の絵が何枚も何枚も散らばっていました。
 死の間際に青年は、たったひとりの同居人である自分の飼い猫へ向け、途切れがちにこう言いました。
「おれが死んだことを知ったら、エリーは哀しむだろう」
 青年は痩せた掌で、猫の背の丸みを撫でてあげました。
「お前と会ったのも、こんな寒い日だったな。お前は箱の中で今みたいに、そう、そうさ、元気に鳴いていた」



 猫は青年のことを励ますように鳴き続けました。
「お前はいつも元気だな。……せめて、」
 笑っていた青年の声が次第に掠れていきます。
 猫はついに鳴くのを止めて耳を立てました。
「せめてお前がエリーを守ってくれたら良いのに、な」
 優しいすみれ色の瞳の中に自分の姿が映っていたことを、猫はしっかりと見ました。
 背中を撫でてくれた手が横へ滑り落ち、猫は青年の死を知りました。
 雪の降る寒い日でした。
 それから猫は、あたりに散らばっている少女の絵を青年の顔のまわりに丁寧に並べました。
 少女の笑顔は春の花のように青年を彩りました。
 青年は穏やかに笑っているように見えました。
 雪の降る、それは寒い日でした。



 1 お祈り
 
 むかし、むかしのこの物語。
 国の中に街があり、街の中に通りがあり、通りに建つ赤色屋根の豪邸、その三階に窓があり、窓の前には月へ祈りを捧げる痩せた猫の子がいました。
 彼の名前はロミ。
 青く磨かれたギヤマンのような瞳をもった男の子です。その金髪と青い瞳と、どうされたって人間に懐くことのないようなツンとしたところがかえってこの豪邸の主人であるサマンサ公爵に気に入られ、邸宅最上階の一室に飼われているのでした。
 ロミはここへ来てだいたい三ヶ月になりますが、自分を気にかけてくれるサマンサ公爵のことがいまだに好きになれませんでした。サマンサ公爵は街中で有名な紳士です。しかしロミはサマンサ公爵が館の中では随分とわがままで甘えん坊であることを見て知っているのです。それにロミは食事が充分に与えられるけれども不自由な環境と、その日の食事を捜すのにも苦労しますが一日まるごと自分の自由にできる野良猫だったころの環境とでは、どうしたって後者の日々が輝かしく思えるのでした。


 真夜中をとっくに過ぎ、もうすぐ明け方だというのに、ロミは白んだ空に今にも溶けて消えてしまいそうな月へ向かってもうずっと長いことそうして、まばたきさえ忘れてしまったように、一心にお祈りを続けているのでした。
 組んだ両手の間には、小さなルビーがきらりきらりと光っています。ロミはその宝石を自分にくれた青年のことを考えているのです。
 青年の名前をロミは知りません。知っていることといえば、青年が貧乏な郵便配達人であること。正門から豪邸の玄関までの長い道のりをさっさと歩いてくる時のぴんと伸びた姿勢、長い足、そして、帽子の庇の下からのぞく優しいすみれ色の瞳でした。
 ロミは最初、青年の姿を三階の窓から眺めていました。サマンサ公爵に拾われた翌朝のことでした。慣れない着物とやわらかすぎるベッドでは寝付けず、窓辺に引き寄せたソファの上で寝返りを打った時、ロミは青年の姿をはっきりと見たのです。それ以来ロミの心は青年のことでいっぱいでした。正門が開く音に耳を澄ませては、青年が手紙を運んできたんじゃなかろうかと窓辺に駆け寄り、人違いだと分かると耳を伏せてまた退屈な本に目を落とすという繰り返しが何日も続きました。
 そんなロミが青年と初めて対面することになったのは、サマンサ公爵が家政婦のマーガレットに手紙を渡しそこねたおかげでした。
 サマンサ公爵は夜のうちに親戚や知人へ宛てて書いた手紙を翌朝大量に郵便に出します。その数があんまり多いのでサマンサ公爵は自分がポストへ赴く代わりに郵便配達人である青年に直接手紙を渡しているのでした。
「おはよう、ロミ。今朝私は寝坊してしまってね。マーガレットに手紙を託すのを忘れてしまったのだよ。彼女は厨房で昼食の下ごしらえをしているところだろうから、お前、代わりに配達夫にこの手紙の束を渡してきてくれないか」
 ロミが承諾しないわけがありません。いつになく従順に頷いたロミは手紙の束を持つとただちに玄関先に行き、呼び鈴が鳴るのを待ちました。
 青年はほどなく呼び鈴を鳴らしました。
 ドアを開けたロミを見下ろし、青年は軽く庇を持ち上げました。そして、ロミの姿をじっと見下ろしました。ロミは自分からは手紙を受け取って貰えないのかとどきどきしました。しかし心配は無用でした。青年はロミの頭に手を置いて、えらいね、というふうに撫でてくれました。ロミは嬉しくて仕方がありませんでした。青年は赤い顔をやっと上げたロミを見下ろして親しげに微笑みかけてくれました。『薄いすみれ色をした瞳がいつまでも自分を見ていてくれたら良いのに』。この時ロミは初めて人間を好きになりました。青年はロミから受け取った手紙の束を鞄の中にしっかりと仕舞いました。それからくるりと踵を返し、来た道を帰って行きました。ロミはせめてその姿が遠くなるまで見送っていようと思い、いつまでもドアを開けたままにしておきました。すると、どうでしょう。青年が再び振り返り、ロミの方へ戻ってくるではありませんか。驚いているロミの手の中に、青年は内ポケットから取りだした何かを滑り込ませました。冷たくてすべすべとした感触の正体はルビーでした。ロミはその宝石と青年の顔の上に目線を往復させました。青年は、小石で地面に次のように書きました。

  おれのたからもの
  きみにあげる

 翌日から青年は姿を見せなくなりました。三日経っても四日経っても五日経っても、とうとう一週間経っても現れませんでした。ロミは来る日も来る日も窓辺から青年が来ないか見ていました。正門が開き、青年がぴんと伸ばした背筋でさくさくと道を歩いてくるのを待ちました。
 一ヶ月が経過しました。青年はまだ現れません。代わりに別の郵便配達夫がサマンサ邸を訪れるようになりました。彼はロミの気を惹きませんでした。ロミはどうしてあの優しい目の青年が来なくなったのか、色々に想像をめぐらせました。ロミは居ても立ってもいられませんでした。考えれば考えるほど、青年が今何かとてつもなく苦しい状況にあるのではないかという考えにとらわれました。しかしロミにはどうすることもできません。ロミが自由に行き来できるのはサマンサ邸三階の角部屋、この小さな空間だけなのですから。
 そんなある日、ロミはまたとないチャンスに見舞われました。
 前日遅くまで家政婦仲間と飲み明かしていたマーガレットが、ロミの部屋に鍵をかけるのを忘れて寝てしまったのです。ロミの部屋に遅い夕食を運んだ帰りのことでした。ああ、ありがとう、マーガレット! ロミは太った家政婦に心の中で礼を言い、サマンサ邸を飛び出しました。

(あのひとにあえる! ぼくはもういちどあのひとにあえる!)

 ロミの胸は悦びでいっぱいでした。ロミは青年の家を知りませんでしたから、彼を捜して街中走り回ることになりますが、それすらロミには苦痛ではありませんでした。それに、ロミはもともとこの街を自由に遊び回っていた野良猫なのです。苦痛でなどあるはずがありません。
 やがて夜が明け、日が昇りました。
 ロミは町はずれの墓地に辿り着きました。小さな白い石を立てただけの墓石が点々と並ぶ、さみしい墓地です。しかしロミはそこに青年らしき姿を見つけたのです! 朝露の光る草をしっとり踏み分けながら、ロミは青年の背後から近寄りました。青年は郵便配達夫の格好をしてはいませんでした。くたびれた白いシャツに裾のすり切れたズボンをはいていました。真冬だというのに青年は上着一枚羽織っておりませんでした。ロミは、お墓には誰の名前が書いてあるのだろう、と不思議に思いました。
「エリー、おれのエリー。きみは本当にこんなところにいるのかい。どうしておれを置いていってしまったんだい」
 エリー。
 聞き覚えのない名前でしたが、ロミにはそれが青年のいとしい人なのだということがすぐに分かりました。青年はぼさぼさの髪をいっそう掻きむしって何度も「エリー」と呼びました。墓地に他に人はいませんでした。ロミの目から見ても青年は不幸でした。冷たい地面に膝を突き、エリーと呼んでは髪を掻きむしり、放っておいたらいつまでもここに居座るんじゃなかろうかというふうに見えました。しかし青年は現実を分かっていました。しばらく嘆いた後ですっくと立ち上がり、やはりあのぴんとした背筋でさくさくと歩き、墓地を後にしました。青年がロミに気づくことはありませんでした。
 ロミがお祈りを始めたのはその夜からです。




 2 女神との約束

 ある晩のこと、ロミの願いがついに叶う時がきました。三日月の夜でした。ロミは手の中に握り締めているルビーがぶるぶると震え出すのを感じました。ふと顔を上げるとそこには、月と美の女神アフロディテが目映い光を全身から漂わせて立っていたのです! アフロディテはロミの頭に手をかぶせました。ロミは猫の子どもなので人間の言葉を喋ることはできないのですが、アフロディテの言葉は体内にそのまま流れ込んでくる意思でした。ロミもまた同じ方法で疎通できます。
「猫の子ロミ。願い事を一つだけ叶えてあげましょう」
「アフロディテ様。ぼくを、エリーにしてください。彼はエリーに会いたがっています。元気なエリーを見たら、彼は郵便配達を続けられます。ぼくは彼に会えます」
 アフロディテは頷きました。
「わかりました。あなたをエリーにしてあげます」
 ロミはその言葉を聞いて顔を輝かせました。サマンサ公爵がこの笑顔を見たらきっとその夜は盛大なパーティーでも開かれたでしょう。
「ただし、条件があります」
 アフロディテはロミの頭から手を下ろさずに続けました。
「条件、」
「エリーになったあなたは、誰とも喋ってはなりません」
「そんな。恋人と喋ってもいけないのですか」
「なりません。誰かに何かを問いかけられたとしても、答えてはなりません。誰かに何かを問いかけたくとも、問いかけてはなりません。如何なる時も噤んでいなければなりません。そしてあなたは自分の正体を何人にも打ち明けてはなりません。これが、条件です。それでもあなたはエリーになりたいと思いますか」
 ロミは、本来叶うはずのない願いが叶うのだからこれくらいの条件はあって当然だと思いました。
「はい。エリーとなったぼくは、誰とも喋りません。たとえ自分の恋人である彼とも。誰かに何かを問いかけられたとしても、決して答えません。誰かに何かを問いかけたい時にも絶対に黙っています。そしてぼくは、誰にもぼくがぼくであることを明かしません。エリーのままでいます」
「わたくしに誓えますか」
「あなたに誓います」
「もし誓いを破ったら、あなたの体は月の粒子になり、二度と人間にも猫にも戻りません。それでも」
「はい。誓います」




 ロミが頷くとアフロディテは右手にたずさえた杖を軽くひとふりしました。その先から真珠のような球状の光がいくつもあふれ出て、ロミの全身を包み込みました。ロミは自分の体が変わってゆくのを感じました。短かった髪がふわふわ伸び始め、ぺったんこだった胸もふくらみました。ロミは少しだけ怖くなり、あの日青年からもらった手の中のルビーをぎゅっと握りしめました。
 ロミが気づいたときにアフロディテの姿はどこにも見あたりませんでした。
 ロミはサマンサ邸の正門の前に立っていました。アフロディテと会ったことは夢ではないだろうか、とロミは自分の姿を見下ろし、体つきがすっかり人間の少女になっているのを確かめると、やはり夢ではなく自分は確かに青年の恋人エリーとなったのだ、と信じることができました。

 エリーとなったロミは翌朝一番に郵便局へ行き、青年の似顔絵を受付に差し出しました。受付の女性はエリーの顔を見るとあんぐり口を開けました。一瞬時が止まりました。ロミは不安になってにこりと笑ってみせました。それが合図だったように受付の女性は大慌てで青年の家までの地図を書いてくれました。どうやら女性はエリーのことを知っていたようです。二人は誰もが羨むような、お似合いのカップルだったのでしょう。



 3 すてきなアパート

 エリーはついに青年の住んでいるアパートに辿り着きました。嵐がくればたちまち倒壊しそうな古い建物です。エリーは青年がどの階に住んでいるかわからなかったので一階で待つことにしました。青年がアパートに帰ってきたのは正午を過ぎてからでした。
 どうやら青年は今、夜の工場で働いているようです。油のにおいのする作業着を着ているのがかつて自分から手紙の束を受け取ったあの青年だと気づけなかったエリーはうっかり見過ごしてしまうところでした。
 エリーは階段から立ち上がりました。
 青年は一度エリーを見ましたが何も見えなかったようにエレベータのほうへ歩いて行ってしまいました。しかしすぐに引き返し、そこに立っているのが紛れもなく自分の恋人エリーであると分かると口元を両手で押さえました。青年はエリーを強く抱き締めました。その体は骨張っていました。しかしエリーを抱き締める力はとても強いものでした。あまりの嬉しさに二人は喋ることができませんでした。

 エリーと青年は青年の部屋で一緒に暮らしました。
 外見はおんぼろアパートでしたが、内装はなかなか素敵なものでした。それでもやはり淋しい部屋でしたので、エリーと青年は一緒に買い物に行って、水色と白のストライプの壁紙を買いました。部屋の中はかなり明るく見えました。玄関の電球も付け替えました。足の折れていたテーブルも直しました。汚れたお皿が積み重なっていた台所もピカピカにしました。くずだらけのカーペットも捨てました。虫に喰われた洋服は捨てました。枯れた花は捨てました。穴の開いた靴下は捨てました。伸び放題だった髪は切りました。髭も剃りました。
 要らないものはとにかく捨てました。二人は何もかもを忘れて新しい生活を始めようとしていました。
 冬の午後は春に似ていました。二人はいくつも球根を買って鉢に植えました。あたたかくなれば綺麗な花がたくさん咲くでしょう。痩せていた青年は少しずつ体力を取り戻し、じょうぶな体つきになりました。ますますハンサムになりました。濁って見えていた瞳の色も、エリーと付き合っていた頃の綺麗なすみれ色に戻りました。
 そうして一年が経った頃、青年は仕事へ行かなくなりました。そうしている間にポストには請求書が押し込まれました。たくさん、たくさん、たくさん、たくさん。ポストはがたぴし言って壊れました。それでも二人は二人でいることだけが幸せで、他のことはどうだって良かったので、壊れたポストを直そうともしませんでした。
 やがてお金は底を突きました。

『あした たべものが ない』
 青年はいつもするように紙に文字を書きました。テーブルの上はめちゃくちゃで、部屋の中はエリーが来る以前よりもっと酷いことになっていました。
『おかね かせぎましょう』
 エリーは同じ紙の上に別の鉛筆で書きました。
『だめだ 今からはたらいたとして きゅうりょうびは3しゅうかんごだ せいきゅうしょも たまっている』
 青年はエリーの頬に手を伸ばして『ごめん』と書きました。
『だいすきな きみを こんなめに』
 エリーは首を横に振りました。
『しんぱいしないで わたしに いいかんがえが あるの』
『おしえて』
『たからものを かくしてあるの ぎんこうに それがあれば いままでみたいにくらせるの とてもおおきなほうせき』
 エリーの書く文字を追っていた青年は何かを書きかけ、やめました。
『まっていて ユーリ あすのあさ もどるわ』
 エリーは赤いワンピースの上に青年の革のジャケットを羽織りました。エリーが部屋を出ていく様子を青年は不安げに見ていました。

 その夜、サマンサ邸から高価な宝石が一つ、消えました。



 4 エリーとロミ

 高価なワインをまるまる一本空にして、エリーと青年はソファに寝転んでいました。青年の胸に額を押し付け、エリーはロミだった頃のことを思い出しました。
 あの頃あたしはサマンサに飼われる哀れな猫の男の子だった。誰もほんとうのあたしなんか見ようともしてくれなかった。
 エリーは眠っている青年の顔を見上げました。まだ一度も言葉を交わしたことのない恋人の寝顔を見ながら、エリーは、自分のしていることが良いことなのか悪いことなのかわからなくなりました。




 ユーリは自分をエリーだと思っている。
 だけど本当は自分はロミであってエリーではない。
 青年が本当に愛したエリーではない。
 しかしあのままでは青年はエリーの後を追って遅かれ早かれ死んでしまったに違いない。
 だけど、本物のエリーの後を追って死んでしまえることは、青年にとっては幸福であったのではないだろうか。
(あなたは 幸福 なの?)
 しかし問いかけるわけにはいきません。
 エリーは自分が泣きたがっていることにようやく気づきました。
「ねえ、ユーリ。ぼくの、ぼくのほんとうの名前はね、」
 青年の瞼がぴくりと動き、ロミの決意は臆病に震えました。
(言えない!)
 ロミは口を閉ざしました。
「ん、エリー?」
 あたたかな手がエリーの、いえ本当はロミのふわふわの髪を撫でました。
 ロミは青年が目覚めたのだと思い「もう終わりだ」と思いました。
 しかし青年はただ夢を見ているようです。
「エリー、おれたちは、ずっと、だいじょうぶだよ」
 ロミは青年の幸せそうな表情を見ていると、また、何もかも分からなくなりました。本当と嘘。これらのうちの一体どちらが今の自分達を幸せにしてくれるのか、判断するすべを持ちませんでした。
「元気になってくれたら、と思っただけなのです。こんなにユーリのことを欲しがるつもりは。ぼくはどうしたら良いのでしょう、アフロディテ様」
 その時です。
 アパートのドアが、どんどんどんどんどん!と力任せに叩かれる音が響きました。



 5 ジャッカルの追跡

「おい、ユーリ。管理人のパークだけどよ。お前さんに会いたいっていう人物が一階に来てるんだ。おい、いないのか」
 その声に体を起こした青年はロミを見、表情を強張らせました。
 その時ロミは「宝石を盗んだことがついにばれてしまった」と思っていました。しかし何故このアパートをヤツラが嗅ぎつけることができたのかまでは分かりませんでした。
 とにかく二人はベランダの非常用ロープをつたってこっそり部屋を出ました。
 アパートの正面玄関の方が何やら騒がしいです。
 ロミは危険を察知しながらも確認せずにはいられず、角からひょいと顔を出してみました。
(あっ、ジャッカルたち!)
 そこにいたのは、サマンサ公爵に飼われている、鼻の効く猟犬たちでした。
 月に一度、サマンサ公爵は飼い犬のジャッカルたちを引き連れて山へ狩猟に行きます。ロミは一度だけ一緒に連れて行ってもらったことがあるのですが、その時にジャッカルたちの猟犬としての有能さと獰猛さは見知っているので、体中に鳥肌が立つ思いでした。数頭集まれば野生の熊でさえ噛み殺すジャッカルたちは、さっきまでロミたちがいた部屋をまっすぐに見上げています。大きな耳が左右の音を聞き分けようとピンと立っています。抜群に視力の良い鋭い目が脱走者を逃すまいとせわしなく周囲に注意を払っています。ロミは危うく目を合わせてしまいそうになり、頭を引っ込めました。しかし嗅覚も普通の犬より並はずれて優れているジャッカルたちのこと、ロミと青年が部屋からいなくなったことに気づくのは時間の問題でしょう。
 ロミは青年のもとへ戻り、無言でその手を引っ張るとジャッカルたちの気を引かないようアパートから離れました。青年はロミのすることに素直に従いました。

 街を出たロミと青年は海岸通を港へ向かって走っていました。海を渡れば臭いも途絶えるだろうと考えたのです。それに港には果物や魚介類の市が立つので臭いが複雑になりやすいのです。もうどれくらい走ってきたでしょう。ふたりの体は疲れ知らずでした。しなやかな手足は楽に走る方法を心得ていました。ロミは、猫の自分がそうなのは当然としても、青年までもが何故こうも走りやすい走りを心得ているのか不思議に思いました。
 青年は、ロミが何故今自分を引いて走っているのか解っておりませんでした。数日前の晩にロミが持ってきた宝石がサマンサ邸から盗み出されたものであると、彼は知らないのです。さっき部屋のドアを叩いた管理人が言っていたのも、電気会社の人間であるというふうに思い込んでいましたので、ロミが港まで向かう理由がいまいちよくわかりませんでした。しかし筆談している暇もないのです。
 ロミはさっさと船に乗ってこの町を出てしまおうと思っていました。ところが港へ来たロミは絶望に打ちひしがれることとなります。なんと、寄港しているすべての船の乗降口、待合室、その他至るところでジャッカルが目を光らせているのです。さらに最悪なことに、この日は市が立っていませんでしたので、風上に立てば彼等はすぐにロミを見つけ出すでしょう。たとえロミがエリーの姿をしていようとも、彼等はロミを掴まえサマンサ公爵に引き渡すでしょう。その後どうなるか、ロミにも分かりません。ただ、宝石のあった部屋に残っていた臭いと一致する体臭を持つ人物を宝石強盗の犯人として裁判へかけることは間違いありません。サマンサ公爵の、ジャッカルたちへの信頼はマーガレットへのそれよりもはるかに高いのです。そして、サマンサ公爵に逆らう弁護士などこの街にいやしないのです。




(とにかく、このまま港にいるのも危ない)
 ロミは港を離れようと踵を返しました。その時、人ごみの中に紛れていたジャッカルの肩と青年の肩がぶつかりました。ジャッカルは青年を振り返ると鼻を鳴らし、その手を繋いでいるロミの方に目を遣ると口角を上げました。
『ここにいたぞ!』
 ジャッカルが他の仲間へ合図を送ります。すると、あちらこちらから応答がきます。ロミは青年の手を引いて駆け出しました。逃げ切れるはずがないとたかをくくっているのか、合図を送ったジャッカルは後を追ってきません。事実、月に数回の狩猟で培われたチームワークをもってすれば、ロミと青年を取り囲むことなど彼等にとってはままごとのようなものでしょう。
 ちょうど一隻の船が昇降口を開け、そこからたくさんの乗客達が降りてきました。ロミと青年は混雑に紛れ身をやつそうと思いました。
(助けて、アフロディテ様、ぼくたちを逃がして!)
 ロミが心の中でそう叫んだ時です、さっきまで晴れていた空がいきなり翳り、見上げると黒い雲がもくもくと湧きだしているのでした。雨が降ればジャッカルたちの嗅覚力はぐんと低下します。ロミは「雨よ降れ、雨よ」と繰り返し念じました。すると雲はロミの願いに応えるようにますます重くなり、ついに最初の一滴が青年の手の甲に落ちました。
(雨!)
 ついさっきまで余裕だったジャッカルたちがにわかに色めき立つのが見えます。
 こうしてロミと青年は不思議な雨雲のおかげでジャッカルたちから逃れることができました。



 6 雷

 ぼろぼろになった靴を脱ぎ、ロミと青年は乾いたわらの上に脚を伸ばしました。ふたりは畜舎に逃げ込んだのです。わらは思っていたよりも柔らかくふかふかでした。仰向けになった青年の腕にロミは頭をのせました。
 屋根板が一枚外れており、そこから星が見えました。不思議な雨雲はもうどこかへ去ってしまったようです。一体ぜんたいあれが女神アフロディテの力によるものなのかそれともまったくの偶然なのか、ロミには分かりませんでした。とにかく助かったのです。ジャッカルから逃げ切ったのです。ロミは、あんな奇跡が起こったのは自分と青年が一緒にいることが神様に祝福されているからだと思いました。
 ロミは唄いました。
 それはずっと昔、自分が兄弟と一緒に育っていた頃に、よく餌をくれた女の子が唄っていたものでした。あの女の子が今どうなっているのかロミは知りません。その歌がどこの国の歌で、どういう意味の歌なのかロミは知りません。しかしロミが知っている歌ときたらそれくらいでしたので唄いました。ロミは唄いたい気分だったのです。青年は黙ってロミの歌を聴いていました。
 ロミが唄い終えた時、夜空にもう一つの雨雲が出てきたのが見えました。雨雲の数はじょじょに増え、再び雨が降り始めました。春も間近だというのに冷たい雨でした。屋根板の隙間から落ちてきた雫がロミと青年を濡らしました。青年はポケットから、いつも持参している鉛筆を取り出すと壁に書きました。
『きみはふしぎ だけどおれは きみがゆうれいでも』、
 その続きはロミの心を痛ませました。かつてのロミなら青年の言葉に笑顔を見せたに違いありません。しかしロミは自分の存在を青年に知って欲しいと思っていました。エリーとしてではなくロミとして。
(ぼくは、あの日あなたにルビーをもらったロミです)
 しかしロミはアフロディテと約束を結んでいるのです。
 雷が鳴りました。一度、二度。暗い畜舎内がぴかっと光りました。遅れて、どかん、という大きな音。
ロミはワンピースを乾かしながら外を見ました。雨はまだひどくなりそうです。ロミが溜め息を吐いた時、再び雷が鳴りました。それは畜舎から少し離れた木に落ちたようです。ロミは、いっそあの雷がこの畜舎に落ちれば、と願いました。そうすれば自分達を追いかけてくる者からも永遠に逃げられる。
ロミは青年を振り返りました。また雷が光り、その時の青年の表情をはっきりと映し出しました。
 青年はとても驚いた顔をしていました。
 不思議に思ったロミは青年の肩に手を掛けましたが振り払われました。青年は再び鉛筆を取り出すと次のように殴り書きました。

『エリーが せかいでいちばんこわいもの → かみなり』
 
 青年が手を伸ばしてきたのが怖くてロミは一歩後ずさりました。

『きみは だれ』

 ロミは裸足のまま畜舎を飛び出しました。
 雨の降る野原を一人駆けながらロミは思いました。
 あれが現実、あれが現実。
 青年が知っているのはエリーだけ、ぼくのことではない。
 彼はロミというぼくについて何も知らない。
 あれが現実、あれが現実。
 きみ、だれ。
 ぼく、だれ。
 ぼくは、ぼく。
 ぼくは、エリー。
 ぼくは、あなたの恋人。
 ぼくは、ロミ。
 ぼくは、サマンサの猫。
 ぼくは、ぼくは。
 あなたを愛してる。

『しりたいだけ ほんとうの きみ』



 7 公園で

 三日後の朝、ロミは隣街の公園にいました。足元で鳩が地面を啄んでいます。公園にはロミの他に誰もいませんでした。……いえ、いました。その人は男か女か分かりませんが、新聞紙にくるまって眠っていました。頭も顔も白髪だらけでした。道を歩く人がその人の上に新聞紙を捨てていきました。ロミはおそるおそる近づくと今朝の新聞の記事に目を凝らしました。
『サマンサ邸の宝石盗人逮捕さる!』
 記事では、盗人が逮捕されたのは昨夜のことのようです。犯人の青年はジャッカルが張り込んでいた自宅に帰宅したところを捕まったようです。青年の年齢は推定二十歳前後、よれよれの靴に泥だらけのスーツを着ていました。年齢が推定なのは、青年が一言も喋らないからだそうです。ジャッカルが何を訊ねても、刑事に問いかけられても、一言も発さないのです。青年は現在警察署に拘留されています。サマンサ公爵の依頼で、本日正午には裁判が始まるそうです。
 逮捕の決め手となったのは、青年の部屋や体から宝石犯人とおぼしき人物の体臭と酷似した臭いが漂っていたことと、そして、青年の部屋の戸棚から当の宝石が出てきたことの二点です。これはひっくり返しようのない事実であり、また青年には弁護士を付けるほどのお金も残っておりませんので、青年の有罪はほぼ確定でした。




「よりによってサマンサ公爵の館から宝石を盗むなんざ、大した男だねえ」
 いつの間にか一緒に新聞を読んでいたホームレスの男が横から言います。
「しかしこの裁判、逮捕されたほうの不利は間違いない。下手すると死刑かも知れねえ」
 死刑、という言葉にロミは反応しました。ロミの表情から何か読み取ったのでしょうか、ホームレスは「世の中は不公平さ」と笑いました。
「おれの公園仲間にビルってやつがいた。いつものようにビルは公園や駅のごみ箱を漁っていた。しかしその日はついに食べ物にありつけなかったんで、とある家の裏庭に入ってったんだ。なあに、お金を取ってやろうだなんて考えたわけじゃない。ビルが欲しかったのはその家の残飯だよ。裏庭のアルミ缶の中に詰まった、生ゴミのことさ。しかし運悪くビルは物色中にその家の人間に見つかっちまって強盗扱い。通報で警察が駆け付け、ビルは捕まった。裁判の結果、依頼人の要望通り無期懲役で服役中さ。ビルは今も刑務所にいる」
 死刑、という言葉がロミの頭の中を駆けめぐりました。ありえないことではないかも知れない、と思ったからです。
「あ、おい、どこ行くんだ! せっかくかわいい話し相手を見つけたと思ったのによう!」
 ロミは走り出していました。長いことちゃんとした食事をしていなかったのでロミはくたくたでした。しかし休みも取らず走り続けました。

 法廷に立った青年は面々をぼんやりと眺めました。正面に座っているのは裁判長と速記者、横にはずらりと陪審員。自分の左側の椅子についているのは、サマンサ公爵と検察官。後ろには証言者としてジャッカルが付いています。青年は弁護士も付けられないまま被告席に座っていました。
 後ろからひそひそ声が聞こえてきます。
「サマンサ公爵の邸宅に忍び込んだんだってさ」
「しかし可哀想な青年だよ。彼はまじめな郵便配達人だった。恋人のエリーに先立たれてからは別人のようになっちまったけどね」
「だけど彼がエリーといるところを見たって人に会ったよ」
「まさか!」
「世の中に同じ顔の人間は三人いるというからな」
 青年は膝の上に目を落としました。彼はエリーのことを、いえ、エリーによく似た女の子のことを考えていました。
 ある寒い冬の朝、夜間の仕事を終え工場から帰宅した青年は、アパートの一階でエリーによく似た女の子と出会いました。青年は一瞬、自分がついに幻覚を見るようになったかと気が気ではありませんでした。しかし女の子は間違いなくそこに生きている人間でした。
 青年は彼女がエリーではないことを、最初から分かっていました。それでも青年は彼女をエリーとして扱うことに決めました。何故なら彼女の目は、青年が今まで誰にも打ち明けられずにいた秘密と同じ色を持った光を宿していたからです。
 青年は、エリーになりきったエリーではない誰かに対し、自分が青年であるかのように振る舞いました。二人の生活は時にとても奇妙でした。ちぐはぐでした。二人は一度も言葉を交わしませんでした。その内、鉛筆を使って筆談することを覚えました。恋人のようなこともしました。しかし二人は不器用でした。当事者の目から見ても、ままごとをしているような日々でした。
 しかし、青年は信じたかったのです。
 自分はあの日の青年で、彼女もあの日の彼女で、二人は誰もが羨むカップルなのだ、と。



 8 宝石強盗事件裁判

「それでは、ただ今よりサマンサ邸宅宝石強盗事件の容疑者への審問を行います」
 審問は滞りなく進みました。青年は、自分に不利になるすべての質問にも頷きました。青年は、自分さえ逮捕されてしまえば、エリーが安全であることを知っていたのです。
 エリーとは残念な別れ方をしてしまいました。本当のことを確かめようとした途端、エリーは怯えて雨の中へ飛びだしてしまったのです。あの後青年はエリーの姿を捜して歩き回りました。しかしとうとう見つけられず、自分のアパートへ戻ったのです。そこにエリーがいるかも知れない、と。あの冬の夜、自分を待っていたように。青年はエリーを責めるつもりなど微塵もありませんでした。それどころか青年は、エリーを演じているエリーではない誰かの本当の名前を知りたかったのです。ずっと、ずっと。しかしエリーは青年に自分の正体がばれてしまうことを極度に恐れていました。そこで青年はあの機会を利用して事をうまく運ぼうと思ったのです。しかしそれは裏目に出ました。
「被告人、前へ」
 青年は法廷の真ん中へ立ちました。陪審員の視線が青年の姿をじろじろと眺め回します。青年は自分が奴隷になったような気がしました。そして、もう二度とエリーに会えなくなってしまうことを哀しみました。
「宣誓を」
 そう言われましたが、青年は喋るわけにいきませんでした。ですので、裁判長が読み上げる言葉に首を縦に振るだけで良いと言われました。
「わたくしは法廷内で訊ねられたこと、意見を求められたことに対し、神の名において虚偽を申しません」
 青年はこくりと頷きました。
「それでは、最初の質問です」
 検察官は前へ出てくるなり大道芸人のような大袈裟な身振りで自分をアピールしました。彼は随分と立派なスーツを身に纏っていました
「サマンサ公爵の邸宅から宝石が盗まれた二月三日の夜、あなたはどこにいましたか」
 青年は紙の上に「じたく」と書きました。その紙を裁判長が読み上げました。
「自宅です、と言っておる」
「ふむ。なるほど。では、誰といましたか」
 青年は同じ方法で答えました。裁判長が読み上げます。
「恋人のエリー・ルビーと、と言っておる」
 検察官はニヤリと笑いました。
 彼がパチン、と指を鳴らすとジャッカルの一人が写真を数枚持ってきました。裁判長の許可を得ると、その写真を陪審員席に回します。
「皆さんどうぞご覧下さい。これは、ある墓地の写真です。ここに、被告人の青年が映っています。そして、これが彼がお参りしていた墓石です。拡大した写真が三枚目です。どなたか、墓石に書かれていることを読み上げていただけますか」
「エリー・ルビー 永遠の 恋人!」
 陪審員の一人が読み上げました。聴衆席がざわつきますので、裁判長が「静粛に!」と叫びます。
「エリー・ルビー 永遠の 恋人。陪審員の皆さん、この墓石に書かれてあることの意味はお解りでしょう。この青年の恋人エリー・ルビーは、すでに亡くなっているのですよ。とすると彼は今、嘘を吐いたことになります。ついさっき神の名において宣誓したにも関わらず、です。そのような青年の言うことを信じられますか。仮に彼が嘘を吐いていなかったとしましょう。とすると彼は幻覚を見ていたことになります。これは彼の精神が正常でないことを証明しています。これからの彼の発言にも虚偽がまじらないと一体誰が言えますか!」
 青年は、エリーは幻ではなかったと主張したいと思いましたが、そうするわけにはいきませんでした。




「被告から反論がないようですので、次にこれを見ていただきたいと思います」
 検察官はケースに収まった宝石を取り出しました。
「これが、容疑者の青年の自宅から発見されたのです。発見したのはサマンサ公爵の誇る最強の番犬集団ジャッカル。ご存じのように彼等は、心優しきサマンサ公爵に養子として引き取れた孤児たちで、公爵への感謝の念と奉仕の精神にはそれこそ嘘偽りがありません。もはや宣誓の必要さえもないでしょう!」
 ジャッカルが高らかに吠え、葉巻をくわえたサマンサ公爵は満足そうに煙を噴かします。
「また、彼等は普通の犬の数倍もの嗅覚を有しています。その並はずれた能力でもってこの宝石のありかをつきとめたのです」
 聴衆席から、盛大な拍手が起こりました。
「さらに、被告人の青年はかつてサマンサ邸宅の地区を担当していた郵便配達人であることが分かっています。そうだね、マーガレット」
 検察官に名前を呼ばれたサマンサ邸の家政婦は、うわずった声でこたえました。
「ええ。わたくしは何度か彼に手紙を託したことがありますもの、間違いありません」
「結構です、ありがとう。被告人の職業はしがない郵便配達人。同僚からの評判は決して悪くありませんでした。しかしその正体は、勤務中にサマンサ邸から宝石を盗み出す計画を立てている凶悪犯だったのです」
 青年は思わず立ち上がりました。検察官は青年の方へ親しげに腕を回しました。どうやらそれも彼お得意のパフォーマンスの一環のようです。
「ええ、今だから言える話ですが、実は私も今の職業に就く前はこの青年とよく似た状況でした。その日の食費を稼ぐのに精一杯で、裕福な人間を見かけるにつけ、世の中はなんて不公平なんだと嘆きました」
 青年はうんざりして天井を仰ぎました。
 しかーし、と検察官は声を張り上げます。
「私は決して諦めなかった。私が夢を諦めなければ、きっと神様は願いを聞き届けてくださるだろう、と。私は小さい頃からの夢だった検察官になるために勉強を始めました。もちろん独学です。わずかな貯金をはたいて教科書を買いました。わたしは仕事の合間にも黙々と勉強しました。そしてついにわたしは検察官になったのです。そして今、この法廷にいます。みなさん、私とこの青年とを比べてみてください。年はそんなに変わりませんが、なんという違いでしょう。楽をして大金を手に入れようと悪の道に踏み出した青年と、神の加護を信じ不断の努力の末に夢の一歩を踏み出した私とでは天と地ほどの差があります!」
 陪審員の中には検察官の話を聞いて涙ぐんでいる者さえいました。気づいた時には法廷内のすべての人間が青年の有罪を叫んでいました。
 青年はぼんやりとエリーの笑顔を思い浮かべていました。
 ついに自分はこの饒舌な検察官の言うところの凶悪犯になってしまった、だけどエリー、きみがほんとうは誰であろうと、きみだけは、生きて幸せに。何故ならそれがユーリの願い、そして、おれの願い。おれと、ユーリの、願いなのだから。



 9 ロミの宝石

「それでは、陪審員十名の総意により被告人に有罪を、」
 その時、法廷の後ろのドアが勢い良く開き、薄暗かった室内が教会のように明るくなりました。
「裁判長、待って下さい。本当の犯人は、ぼくです!」
 警備員の制止を振り切って一人の少女が聴聞席の中央を歩いてきます。
「彼、ユーリは悪くありません。ぼくが、ぼくが盗んだ!」
 何かを喋るたびに、少女の姿は変化していきます。彼女の歩いた後には金色の屑のようなものがたくさん零れていました。法廷内は驚きで静まり返っていました。早くも少女の正体に気づいたジャッカルたちが吼えかかります。やがて少女の姿は猫の子ロミになり、サマンサ公爵を驚かせました。
「ロミ! ああ、ロミではないか。一体どこへ行っていたのだね。お前が盗んだ? そんなばかな話はおやめ」
 サマンサ公爵に首輪を握られロミに飛びかかることのできなくなったジャッカルたちは忌々しそうに歯軋りをしています。
「いいえ、サマンサ公爵。本当に、ぼくなのです。あなたの宝石を盗んだのはぼくなのです。ジャッカルたちに訊ねてください。あの部屋からしていたのはぼくの臭いでしょう」
 誰の問いかけにも、答えてはならない。
 約束を一つ破ったロミの足元から砂金のようなものがわき出しました。しかしそれは月の光です。溶けたロミの一部でした。
「ぼくは彼を助けたかったんです。いけないことだとわかっていました。だけど、」
 ロミがどうしても自分が犯人だと言い張るのでサマンサ公爵はすっかり言葉を失ってしまいました。
「きみ。きみは『ロミ』というのか?」
 被告席から下りてきた青年は、ロミの顔を両手で包みました。
「きみって。ああ、やっぱり猫の子だったんだ!」
 ロミは初めて青年が喋る声を聴きました。
 その時ロミは、青年の足が自分の足と同じように月の光になりかかっているのを見ました
「……ユーリ、まさか。きみも、アフロディテ様の力を借りている猫の子なの」
 誰にも問いかけてはならない。
 ロミがその約束を破った瞬間、手指もさらさらと光になってしまいました。

「そうだよ。おれの本当の名前は、ジル。ユーリに飼われていた猫なんだ」

 問いたげなロミの口を人さし指で封じ青年は話し続けました。時間がないのです。

「ユーリは自分が重い病気にかかっているってことを、死ぬまでエリーに告げられなかった。自分が死んだらエリーは哀しむだろう、せめてお前がエリーを守ってくれたら良いのに。ユーリはそう言って死んだ。寒い夜だったよ。窓の外なんか真っ白で何も見えやしない。看取ったのは猫のおれだけさ。貧しいんでお葬式も挙げられなかった。お墓も作ってもらえなかった。エリーはユーリの死に気づかなかった。ユーリは自分の死期を予感して、わざと距離を置いていたんだ。
ユーリが死んだ日、その日からおれは祈った。来る日も来る日も窓辺に跪いて祈り続けた。どうかおれを、どうかユーリにしてください、どうかおれをエリーのいとしい人に……どうか、どうか、エリーの愛したユーリに。そしておれはついにアフロディテ様に見出してもらい、ユーリになることができた。エリーはある日突然喋ることのできなくなったユーリでも受け容れた。思えばその頃にはすっかり正常じゃなかったよ。もしかするとエリーはおれが本物のユーリではないと分かっていたのかも知れない。ユーリの死をすでに誰かから聞いて知っていたのかも知れない。だけどおれたちは相変わらず仲良しだった。おれはおれの飼い主ユーリのことも、エリーのこともだいすきだったから演技なんかじゃなかった。
その内おれはエリーのことを愛していた。ユーリとしてじゃない。ジルとして、おれ自身として、愛してしまっていたんだ。エリーが死んだのはそれからしばらくしてのことさ。ユーリの病気が移ってしまっていたんだな。二人は本当に仲が良かったんだ。 
そしておれは今度こそひとりぼっちになった。ユーリに死なれ、エリーにも先立たれ、おれは本当に孤独だった。もう誰も愛することができない、そう思った。そんなある日、おれはサマンサ邸の玄関で、きみに、出会った」
 ジルはロミの前髪に唇を押し当てました。
「きみはおれに恋をしたね。だけどあの瞬間、おれだってきみと恋に落ちたんだ。だからルビーを渡した。ユーリがエリーに送ろうと思っていた婚約指輪」
 喋っている間に青年の姿はたちまち猫の子になりました。
 ジルはロミと同じ猫の子に間違いありませんでした。ただし、耳は茶色で尾も斑だったのですけれど。
 すべてを悟ったロミは、輪郭だけ残した両腕でジルの姿を抱き締めました。
「ぼくたち、お互いに、嘘を?」
「ああ。だけど、おれ、知っていたよ。ロミ。きみがエリーでないこと、おれはずっと知ってた。だけど自分の正体を明かせなかった。ロミ、おれは、ユーリとしてエリーのきみを抱いている時でさえ、きみの存在を感じ取っていた。いつもいつも、きみのことをきみの本当の名で呼びたいと思っていた」
「ああ、ジル! ぼくは、ぼくの名前は、ロミです」
 言葉を交わせないまま、約束を破れないまま、それでも二人はついに自分のいとしい人と出会いました。その名前を口に出して呼びました。
 ロミはジルの姿をこの時初めて見たのですが、その姿はあの日自分が手紙を託したユーリにどことなく似ていました。帽子の下に見えた美しいすみれ色の瞳、それはジルの瞳の色とまったく同じでした。いつも、ぴん、と伸びた背筋。猫のようにしなやかに走る体。すべての謎には答えがありました。
 
 誰とも喋ってはなりません。
 自分の正体を何人にも明かしてはなりません。
 
ロミとジルがアフロディテとのすべての約束を破った途端、ふたりの体はすっかり月の光になってしまいました。今や法廷内はあふれんばかりの目映い白でいっぱいでした。聴聞席の人々も陪審員もサマンサ公爵も検察官もジャッカルも裁判長もみな目を瞑りました。光の中央で二つの影が互いをしっかりと抱き合っていました。影はやがて一つに解け、光となって弾けました。



fin.