いつだってゆるされていたんだ
光のまんなかで
弱った猫をなでる人差し指ていどの
圧力の世界で





一貫させようとすりゃそりゃ辛いよ。この家のテレビは映りが悪い。ぼくはテレビのある部屋をひさびさに見た。まだ必要? そんなもの。カーテンは引かれて天気どころか時刻もしばしば分からない。「たった一人であろうとするなら」。耳の傍で何かが光ってライターの火だと分かった。煙草の匂いが漂ってぼくは体を起こす。「止血だけ」。だからね。ちゃんと病院へ行きなよ。たいして心配していないふうに云う。心配されれば無理をしたがる性格を見抜いている。生ぬるければ虐殺したくなる。ただしその衝動は内側にだけ向いていた。「結び目がほどけそう」。「いじらなければ大丈夫だ」。「グレープフルーツ食べていい」。「そのためにある。もちろん?」。皮を剥かずに歯を立てると野生だと笑う。何かがおかしかったのか。「自分が誰かを傷つけたことに傷ついた顔をした。だからもう要らないと思った」。苦い皮と同時に吐き出した。煙草の煙が揺れてまた笑われたと思った。「ああ、懺悔ね。もっと聞こうか」。「もう無いよ。そんなもの」。結び目をよりどころに半渇きだった血が凝固する。「分かっていた気がする」。「今度は何だあ?」。「どうすればぼくが自分を刺すかを。あの男は分かっていた気がする」。だから今日は損をしたんだ。嫌いでさえもないやつの望みをかなえてやるなんて損も損、大損だ。「もう行くよ」。硝子の瓶に硬貨を入れて立ち上がる。お安い口止め料。聖なる無法地帯。真夜中は一時的なものだが、それは一日としてこの街への訪れを忘れたことがない。





「湖畔」

永遠は少年の骨格に宿る
確かにこの場所だったよ
だけど満月が水に蓋をしてしまう
いったいいつまで僕らを待たせるのだろう





まだ色のない朝
夜を産むこの朝に今
世界の翡翠を約束しよう





「真夜中はトランプ倶楽部」

床に散らばったそれらが凶器
規則正しい不規則の規則は正しい

ハートの女王が笑う
スペードのキングが笑う

そしてまさかのまさかさま
あのジョーカーがつられている

四つ子のジャックがどこにも見当たらない

予備のカードを誰か知りませんか
訛りの抜けきらないポリスが声を張り上げる
予備の行方を誰かご存知じゃないのですか

紳士も淑女もやさしい気持ちで思ったものだ
云われるほど犯罪も悪くは無いものだなと

誰からともなく拾い集めた
残りのカードで彼らはゲームを始めた

すっかり母国語にかえったポリスが
月を追って惨劇の小部屋をぽーんと飛び出す





「リンネ」

きみといると僕はどうやらずっとひとりぼっちになってしまうようだ。
生命は二つ以上でも排他せずそれなりに寄り添って生きていけることを知ってしまうから。
壁の向こうで誰かが絶望を唱えてそれが耳にとって美の讃歌に等しい。嘆きは沈黙より潔く望みを絶つことがない。だから僕はずっと黙っている。代わりにスピーカーが世界のどこそこから拾ってきた雨や波や草と草の触れ合う音なんかをとめどなく流し続ける。見慣れない自分の背骨の形に伸びたシルエットに永遠は宿る。
フィナーレはどんな姿で愛人を呼ぶんだろう。問いへの答えは遅れても必ずやってくる。僕は何も期待しない目で、昏い空が隠したかろやかな星が何かの拍子でもう一度奇跡みたいにして当然みたいにしてのぼってくるところを見つけてやりさえすればばいいのだから。
ずっと昔にちぎられたはずの指がもういっぺん、今度は違う場所から生えてくる。
それは血の繋がった兄だったかも知れないひとの、唯一の、ひとになっていたかも知れなかった、しこりの、単なる残留。なれのはて。
手術で完全に分離したはずの細胞の一部が僕の体内で実は地道な蘇生を続けており、ある日こうして体外に出てきてしまうようなのだ。
笑わない主治医のことを思い出した。つもりだった。
どんな顔をしていたっけ。どんな声で話しかけてきたのだっけ。どんな手でどこに何をするのだっけ。僕は体のどの部分で彼を(彼女を?)覚えていたのだっけ。
こちらが悶々とし始めるとしこりは明らかに震えるのだった。舌の根の上で消えていく味のように正体の無いものが、狭い世界を嗤われてこちらへ来たのかも知れなかった。
僕の中で、赤の他人である主治医に対する感情と、兄だったかも知れないしこりのなれのはてが仲悪く反発している。
兄は切除されたくなく、主治医はしたくなくても切除をするだろう。命じられた言葉だけ実行する機械みたいに。従順という言葉さえ感じさせない。無感情という言葉さえ感じさせない、冷たいという温度さえ、静かな、という気配さえ、気配というものの存在さえ感じさせないただの主治医として、兄の名残である肉塊を切除するだろう。その説明のつかなさは文字に似ている。主治医、と書いたこの三文字がなければ、主治医自身さえ、この世界のどこを探しても見当たりっこないに違いない。だからって幻なんかじゃないんだけど。うまくいえない。何かをうまく云えたことなど僕には一度だってないんだな。
僕は(これもまた生き別れと呼ぶのかしらん)と、今やっとすることを思い出したみたいに瞬きをしてみる。長いこと忘れていた、と云わんばかりにばっちりと。
そうか。
僕が自分の肉体に執着をしないのは、体内に兄を飼っているからか。
それは答えではないだろう。いくつかある可能性の一つに過ぎない。
壊死するのは僕であったほうがいいかも知れない。浸食されていくのも悪くないかも知れない。
「狂える」。
望んだものに。
あの日々に置き去りにされひとりしくしくと子どものように泣きながら大人になった僕は新たな異物の芽生えを咽喉仏の下に体感しながら、その時に金魚鉢の向こうで青空が陰って、ほら僕ときみの待ちに待ったあの夕立ち。この部屋の名前を忘れさせ、僕の思考をこの手記の一行目へと戻してしまう夕立ちが幕を引いてしまうよ。
やり直し。
まだ狂えず、人はさみしい。





「解放」

それは故郷の土の匂い
左の肩に銃弾の跡
白い頬にラズベリージャム
人が引いた国境を越えて

思い出は青い石の中
人質にされたものは繋がった血の愛
ぼくらは泣きもせず東西で首を刎ねた
大地の豊穣を収穫するみたいに白昼堂々

体は遠く隔たれて
記憶はいつも鮮やかな夢になる
刎ねて歩きながら調律していくんだ
穂の名ひとつさえ口ずさまずに





「未完」

学校の花壇に埋められた遺書
なんの命の足しにもならない
遂げられず初恋は永遠に漂う
眼差しは八月の空に閉じ込められる





どこを目指せばよかったんだろう
月は東にエデンは北に
夜に消えた乙女は誤った角を曲がる
明日消える黒猫は流星の軌跡を追ってこの世界をはみ出す
(傷口から今にも漏れ落ちていきそうな、僕やあの子の腸みたいにさ)。





「惜別」

何でも揃っていたこの場所から
幼なじみはある日突然に離脱する
置き去りの部屋と記憶と約束
あの池は何だって浮かせるというのに

一週間行方不明だった
わきあがる混乱と心配
おしかける事情聴取
人々の目に浮かぶ同情とたまに
そして確かに少しだけの羨望

ぼくはそれに似た感じを知っている
みんな何かを心配したい
みんな何かを憐れんでたい
そうあれは看病に似ている
幼い頃にあったぼくの周囲に

たとえば手紙なんてものはなかった
きみの部屋に机なんてなかったのだし
あっても文字なんて残さなかったろうね
きみは時にとても賢い
お蔭様でぼくは憶測を気にせずいられる

野良猫が橋の下で丸い
あれはきっと飼われてる猫だ
光源の交代時
この一瞬のたちは相当に悪くて
与えてから奪う手法
ヘッドライトにテールライト

めぐるものなんて信じない
一度きりが続いていくだけ
まるでそれで一つみたいに

この川にもさようなら
浮かんでいても同じこと
ぼくはやがてきみを思わない
その頃この橋の上には
星座にもなれなかった無数の星が降ろう