「うまれた」

ひび割れていく
地平線と垂直に
海水はごうごうと裂け目に落ち
美術館も樹齢数世紀も
あっけなく反対側へのぼっていく
たったいまもはや数えきれない
たくさんの生き物たちが
殻を破って次から次へと産声をあげる
見ろ、これはまったくあたらしい世界だ
ぼくの腕は抱ける相手を待ちわびていた





「うしなわれた呪文」

そしてひとりとほうにくれた
きえた魔法を呼びもどそうとして
まだ名前をつけていなかったことを
たったいま気づいたみたいに

となりのアパートの窓から
赤いドレスの誰かが身投げした
窓辺に駆け寄り
地面をのぞきこむと
ゆうべとちがってそこにはもう
百年分の薔薇が咲いている

棘の密集した繁みに埋もれてしまったのは
彼なのか彼女なのか沈んだ月か
白かもしれなかった薔薇を赤く染めたのは
彼女なのか彼なのか夕陽なのか
いくら問いかけても答える相手はいない
鳥は遠くで啼くけれど

こうしてどれだけとほうにくれてみても
うしなわれた魔法の名前は思い出せないでいる
おとなにならないまんまでいる、窓しかないこの部屋の夜は明るい





「処刑人と緑」

彼には音が聞こえているのだろうか
いま目の前の惨状が映っていない瞳は当然確かとして
規則正しいタイプライターが口ごもるように止む
制帽の下で微睡むに似た冷徹が瞳孔に潜んだのをぼくは見る
罪人はそれでも彼の睫毛に憩う郷愁に訴えたい
鉄格子の外は緑の根が燦々として萌えている
幾人もの命乞いの染みた土はその根を伝って
天に這いずる祈りに後押しされ芽吹いた若葉は奔放に光合成した
青い瞳の処刑人を誰も名前で呼ばなかった
タイプライターが再びスタッカートを打ち付ける
事切れた罪人の体液が排水溝へ流れ落ちる
地下の密室は格子から射す一筋の光によってかえってその絶望を深める





もっと重くなって
もっともっとも軽くなって
捨てながら飲み込みたい
吐く行為はどこか吸い込むに似ている

板書した絵が
まったくべつの怪物に見えた
どうやら画才がないらしい
ぼくは何か救おうとする気持ちを捨てよう

街へ出たら名作が目に入る
美しいものからそうでないものまで
信じるものを挙げていったらきりがない
疑心暗鬼を軸に生きてこう

寒空の下で野良猫の親子が増える
風が帽子を巻き上げて
守るもののなくなった頭に雪が降る
あれは過ぎ去った夏のほうへ飛んでいったよ





「ヴァン」

刹那に焦がれて
インソムニア、今にも消えてしまいそうだ
緞帳を落とせるのは自分だって
ちいさなころから名前のように信じてる

紙が足りない
青色のインクも
あの初恋に何年費やしているんだろう
皺だらけの皮膚に不変の手のひらを重ねては泣く

置き去りにされる
からだ

魂のようなものはとっくに先へ行って別物に生まれ変わったろうに
この骨とこの肉とこの血とこの皮が十代の頃のように存在している
戸惑うことにも飽きてしまって古いドレスで着飾る夜もあるよ

昨晩はまた誰かがぼくを置いていったな
寝ては目覚めるお気に入りの棺からは今朝も真白い花があふれる





「布と弦」

その目がぼくにぼく自身の見え方を教える
さっきまでの微笑が刷毛で拭われたように消えるのを
鏡越しに素知らぬふりをして長いこと見ていた

何がどちらの優越をぼくに教えたのだろう
羊の腸をひっかく遊びには飽きてしまったみたいに
変形した指先を恵まれないあなたへ捧げたがった

知らずの内に与えられていたものをどうして拒めるだろう
生まれながらの中毒症を誰に癒すことなどできただろう
世界は黒い布で覆われるあるいはぼくの限りない視界が

馬の尾が掌の中に残り月と太陽は交互に光を降らせている
この光景を見ることができなくてよかった
自分の意にさえ支配できない原動力は心臓にあって温め続ける
取り返しのつかないほど冷え切ってしまいたがるこのからだを





「航海空間」

部屋
窓だらけの部屋
電気の無い部屋
漂流する部屋

憧憬を抱いて
捨てられないものを捨てて
寄った場所すべてが故郷で
人種不問の目鼻立ち

国境を蹂躙して
命日を課して
誰の罵詈や雑言からも
まして賞賛からも解かれて
病める神童の尾を引いて
遠く彼方から彗星に似る

誰も知らない
この密室は流れる
永過ぎる旅の行く末
僕もいまだ見果てぬ





「雪と弔い」

葬列が銀世界をゆく
氷河を渡る舟のように
光りながら黙ってゆく

幼い弟をたずさえて
ほんものはいつも美しいとわかって
醜くはなかった
だがそれだけではだめだったとわかって

ナイフやリボン
骨や鳥かご
チェスやミトン
銃やら包帯

尾行者はそれらをひらうことだろう
盗むことだって可能だろう
持ち主は同じ道を二度とは通らないのだから

まだ盗まれてはいないものは
この世界でいまだ凍てついていない一滴
甘い言葉で誘ってみても最後の奇跡は
ぼくの心臓の中にあって今も断罪を叫んでいる

記憶がこぼれおちるのをただ見ている
血の赤より鮮烈にそれは雪原に痕跡を残す
上空から見れば誰かは何かに見誤るだろうか
はぐれた葉脈の一本と映りうる瞳もある世界だったならば





「その朝」

きっと離せないと思ったから掴まないでいた
冬の空は吐きかけたあたたかい息で弱視めいて曇る
濡れた窓が内外の気温差を教える
揺らめいた蝋燭にぼくは終わらない未明を望んだ
隣室から木枯らしのような呻き声が聞こえる
ぼくはそれを遮るために耳を手でふさぎもしない
何も、期待も持たないくせに生きてきたほどに怠惰なんだ
結晶の上に剥離を繰り返して核に辿り着こうとする手つきの
不自然なほどに器用だったのをあなただけは気づいて笑った
満天の星空を気にも留めないで顕微鏡の倍率を狂わせ続けている
人は生きながら死んでいく生き物だと口だけの存在を覚えている
宵闇が波のようにさらっていってくれないのでぼくはまた居残る
明日海岸線を俯いて歩けば自分の骨の一部を発見するのだろう
肉と皮を捜し集めて元通りにする作業はぼくにも、昨日のあなたにだってできない
正常を証明してくれるカルテが欲しくてたかが人間の手に甘えている
何者になることをも拒み続けたくせに置き去りにされたと寝言を云う
こんなぼくを置き去りにして夜は行き過ぎ
閉ざされた隣室ではぼくの骨を持った新しい生命がいままさに産声を上げた





絶望は優しさから生まれる
エデンを歩くふたりは
迷子になった記憶しか無いと口をそろえる
優しさは絶望から生まれる
瓦礫を踏みしめてふたりで
辿り着かないから目指していられるんだと当然を云った

水平線に沈む夕日が
これがこの世の終わりだといわんばかりの輝きを放つ
だけどきみの自尊心が支える雫からぼくは目をそらせないでいる

心にもない愛国歌が海を越えて遠い祖先へ響く
窓をつくって自分達が隔たりますように
凍傷にも火傷にもかかることのありませんように

神様は悔しがってふたりからふたりを取り上げようとする
夢想家のぼくらは花瓶を落としてその横暴を阻止する
ざまをみろと吐いた唾を海原は行方知れずにしてくれる
年の数え方も舌の動かし方も知らないで生きてこられたんだ





だれのことも嫌いだ
否定の言葉はきみから発せられ
正しさにぼくはいつも泣きそうだ
太陽も月も見えないこの時間を愛している
名前をつけてみたいとも思えないようなこの
呼びようもないからどこへも伝えようもないものが
声にも文字にも頼らずにだけど伝わっていくような
留まらない海流でつながる青白い世界の住人のような

ここにあり続けぼくらに互いを認めさせる
たとえようのないものであるということが
これからもずっと何よりの幸せだ

新世界につかまる鉤爪を研ぐ音が次の船を呼ぶ
視界を持たないものに光る汽笛を
聴覚を知らないものに鳴る光の洪水を
ぼくが与えたい相手に与えたいものをすべて
すみずみまで行き渡らせることのできる世界の、さあ始まってゆく終わり