罵声は空耳じゃない
これは譫妄じゃない
手繰り寄せた敷布の
大小様々からなる襞を
縫うようにして
一本の勇敢な針のようにして
きみはまっすぐに進む
実際には歪んだり曲がったり
しなやかにその目的を目指して
薔薇の花は守られ
砕けることもなく
健康そうな白い手へ渡る
僕は傍で見て嬉しかったのに
一緒になって喜べそうだったのに
さざ波のように聴こえてくる
僕は食い止めねばならない
空耳じゃない、
譫妄じゃない人々の言葉を
砕けて恨む、自身を還すように





HELLO AGAIN

どうして信じていられたのか。どうして笑っていられたのか。どうしてぐっすり眠ることができていたのか。どうして採れた野菜はおいしかったのか。どうして窓辺が恥ずかしかったか。どうして庭の芝はいつまでも輝いて残ったか。どうして側溝に落とした靴を拾いに行ったのか。どうして汚いものに惹かれたのか。どうして脆い傷つきやすさに怯えたか。どうしていずれまた去るものだとして約束を結ばなかったか。どうして公園の樹に眠ったか。どうして子猫に触りたがったか。どうして煙は煙突を出たか。どうしてランドセルは潰しても潰しても蘇ったか。どうして学校は楽しくなかったか。それなのにプールの水面は春先から輝きだしたか。どうして目線は不確かだったか。砂埃のにおい。伝わらない言葉。もどかしい自己紹介。はじめまして。おはよう。ありがとう。さようなら。またね。他愛もないことがかけがえのないものになるって何も知らないでいた日々。ありがとう。またね。またね。またね。





「春の記憶 memory of spring.」

 中指の関節に生じた異変に今年最初に気づいたのはかつての恋人の双子の妹だった。
 よく掻き毟ってしまうからねと妹は自分の身体のように自分の悪癖のように、あるいは、あるいは片割れを語るように言った。そんなふうに言うものだから僕にとってもまったく関連しない事柄のように僕も視線を落として、これをひっかいてしまう本当の理由はね、などと話し出せないでいた。まさか。
 街に吹く風はまだ冷たい。しかし午後二時半、いや三十二分の陽射しは確実にあたたかい。オープンテラスで僕の動悸はすべての音楽を無視して勝手に律動を速める。
 まいった。
 そうか、春が来てしまうせいだ。
 花見の行楽情報、桜色の新商品。フレーバーシロップにまでその名を冠して、誰もが待ち焦がれている、と錯覚させられている、と思い込まずにはやっていられない、ほどに僕だってそうだ。モノクロに慣れた世界に色を刷くのは容易い。誰もが時期を見計らっている。抜け駆けがあればもう駄目だ、気持ちは伝染する。
 僕だって好きだったよ。誰へともなく言いたくてたまらない。たとえばそれを目の前の妹に。彼の妹に。笑うとできる目尻の皺は、きっと似ていたんだろう。彼は僕の前であまり笑わないから覚えていなかった、ということにしたい、だけで本当はちゃんと分かっているんだな、ここのところを。そうでなきゃ何が不満だ。何が不足だ。これから満ちていく暖色の気配に。何を憂える必要がある。これから何年と何十年とたとえ僕が消えたってこの想いは、とここまで考えた時に妹が口を開く。
「ありがとう」。
 いつしか覆い被さるようにして握り締めていたマグカップの表面に何かがぽとりと落ちて、それは見なかったことにしよう。実際に何も見なかったんだから。見えなかったんだから。
 この今、確かに君は妹に乗り移って、初めて会った時みたいに、人を小馬鹿にした顔で突き放すように言うんだ。
 どれくらい経った後だったか、うるさいよ、と苦笑。
 何が、と嬉しそうに訊き返してくる、君の妹は週末に挙式する。相手、もちろん僕ではない。あるわけがないだろう。
 花は咲いて綺麗だろうな。
 三人で一緒に遊んだ山を、今年も多くの観光客が訪れるだろう。そんな場所で産まれた。そんな場所で育って恋に落ちた。そしてその場所を訪れる人それぞれに、別の場所の思い出があってゆかりがあって、もしかすると、うん、かなりの確率で確実に、うん、秘密がある。
「おめでとう」。
「ありがとう」。
 春が来る度にかぶれる中指だって、ずっと何かの記憶みたいだ。
 何も惜しまない。
 散るから、そしてまた巡るから、惜しまないことの大切さをそろそろ覚えなさいよ。って、言うのかな。
 だけど、考えてもみろよ。
 このフレーバーシロップは、今季だけの限定なんだ。
 どうだ、少しくらいは悔しいだろう?





「春のりんご an apple of spring.」

 寝込んだ日は昔のことばかり思い出している。
 今の僕の年齢、このあたりから家族の記念写真は残り始めている。
 三十年前の親を見ながら、もし隣に座っていたらどんな話をしていたんだろうと思う。
 日に焼けた笑顔。正直、気が合うようには、見えない。
 世界のせいにしたいことがたくさんある。
 何も選ばないこともまた何かを選択した結果だと、そんな詭弁はもういい。
 選ばなかった。
 僕は臆病で何も選んだりできなかった。それを無かったことにしてしまうのは、迂回だ。
 道の途中でもすでに何か形ができあがっている。あとは少しずつ消えていくのを、繋ぎとめる術も持たないままおろおろするのはいやだなあ。ほんとうに、いやだなあ。
 風邪で死なないかな。
 季節や場所を選べたらいい。そんな独り言を漏らしたら、「やっとまともなこと喋った」と、見舞いに来た男が笑った。そんなにも普段の僕は愚かか、と愕然としていると頬にりんごがあてられる。むいてくれるかと期待を込めた目でじっと見上げていると、そのまま齧るといい、と指示される。いや、ほとんど命令。僕は老体と化した病身を、待て、今の言い方は適切ではない、近所の御隠居はもっと健やかだ、僕の不摂生によってつくりだされた僕自身の病身を、だ。うん、これでいい。布団の上へ起こして、りんごに歯を立てる。果実のまるかじり。久しぶりの行為である気がする。
「うまいか」。
「あまい」。
 男は満足そうに頷く。
 それからおもむろに近所のスーパーのレジのバイトの女の子について話し出す。
「俺はあの子に告白しようと思う」。
 最後の最後で切り出されて僕は齧ったものを吹き出す。
 え、え、と言葉にならない声を漏らしながらおろおろしているのを五分間ほど放置された挙句、なんてな、と冗談の種明かしをされる。僕は当然憮然とした表情を隠せない。ふくれっ面で芯を放り投げると男は上手にキャッチした。
 僕が幸せでいる限り、その手は自分の遺伝子を受け継いだ子どもの頭の重みを受け止めることもない。
 しばらくすると涙が出てきてしくしくやっていた。
 口に入った滴は蜜の甘さだった。
 芯まで腹に収めて男は黙っている。
 黙って布団の傍らで胡坐をかいている。うつせばいい、と言わんばかりに。
 僕は視線を逸らす。追いかけるか、と仕向けて。
 これ以上は、無いと分かって。





砂漠にあらわれるオアシスのように
ではなくてどしゃぶりの雨のように
虹を運んでこれるように
名前なんてつけないでいて
どこへでもいけるように
誰が信じてもゆるされるように
もしも掟を忘れたその時は
呼んでも喜んで見せたりしないで
こころはいつも守られている
はだかがさらされる限り
どこかで誰かが飢えている
そんな妄想に怯えないでいい
尽きるもののためになんか真夜中
遠くの者を呼び戻すためになんか明け方
目をさまさなくたっていい
二度と訪れない生ぬるい夢をさまたげてまで
目をさまさなくたっていいんだ
尽きるもののために掟を破らなくたっていい
ぼくの名に戸惑う以上きみはきみだったんだ
もどかしさに耐え抜こうとする以上は
明日はきっと誰かの光だ





「山荘で」

流れていくものを留めるためにぼくはここにいた
緑に包まれた山荘
遠い昔に誰かと約束を結んだような気がして
それはもっと大きな理由を隠すための嘘かもしれないけど

例年に倣って
浅いところから深いところへ
この夏もまたひとり攫われて消えていったよ
神様なんだよ
あれは白昼の出来事だったよ
捜しにきたひとは気づいて

見ないふりを、したね

ぼくと目があってとても驚いた様子だったね
そしてほっと安堵したね
今はもう平気な顔をしているの
新しい一歩を踏み出す春なの
ぼくがここを動けない体であなた良かったね

だけどぼくはいるんだ
この山荘にずっと昔からいるんだ
せせらぎだけを聴いて今も生きているんだ
遠い昔に誰かと約束を結んだような気がして
それはもっと大きな秘密を隠すための
嘘に、すぎないんだけど。





飲み込まれていく感覚に自分が震えていたのか
飲み込む感覚にあなたが震えていたのか
分からないけれど確かなことは
それがひとりでは生じさせえなかった感覚ということ

世界じゅうの不幸を吸い込んだような青空の日に
川辺をどこまでも歩いていけそうな散歩の一日に
虚空に見出して話しかけたくなるんだ
ねえ、わざとでしょう?

人はあなたを神様と呼ぶ
わたしにはその理由がいまもまだ分からない
白い犬がじゃれついてきて草の上を転げまわる
今ここにいないから嫌いなんだ
何もかも残してあなたはすべてに共有される





ほとんどのことは言わなければ(言っても)すべては伝わらないけれど、世界にはきっと、言うべきでないことのほうがずっと多いんだろうなあと信じたいのは自分が口下手で、いつも発言を後悔している人間だから?同じだとか違うとか、比べたり比べられなかったり、タイムリミットの有無だとか世間だとか、本当にさみしかったのは誰?すべてを信じないことに決めたよ。ある日きっぱりと宣言してまっすぐに立ってみたらすぐに擦り減った。踏み出してさえいないのに?堂々巡りの疑問符。羽を毟られた蝶々。春がかがやいても出会いや別れが繰り返されても変わらないことがあるんだ。残酷は罪でないと覚えている心と、泣く君を前に何がいけなかったのかひとつひとつ思い起こしてそれでも思い当たるところに至らなかった至らないぼくとはこの先も共存するべきだと言ってくれる。ような人をぼくはこれからさがしにいこうかなあと思っているけれどきみはどうか?靴を履くからいけないんだ。擦り減ることに気づかないんだ。だから裸足で行こうと思う。擦り減ったら痛いから、そうしたらすぐに気づくだろう?間違いだとか正しいだとか、それは自分が痛くてやめたいかどうかっていうそれだけであることを。頷きながら従わないでいること。首に紐をかけられても内側では平気であること。理想や夢はかなわないね。それでいい。照準にピントを合わせるだけで終わってしまうなんてありふれているんだもの。定めた狙いは射抜かなければ。それができなきゃ生まれてこなけりゃよかったと嘆いていい。それができなかったその時だけは。だけど思い出してほしい。きみが生まれて、ぼくは嬉しかった。一瞬の記憶で何度も生き延びた。嘆いてもいい。だけど後悔はいらない。きみの関係のないところで、きみのまったく与り知らぬところで、ぼくは何度も思い出していた。その度に感じた。きみがいつか届くといい。生を受けたことに疑問を抱くほどに人となった時、風が頬を撫でたら。すべての、そう、すべての。あらゆることについて。言葉にならない言葉以前を、何か喋るたびに嘲笑を浴びる定めの上を歩いていながらそれでも言葉にしようと思う時、頬を撫でる風はぼくの言葉以前。声や文字に残らなかった遺言。きみが生まれて、ぼくはほんとうに嬉しかったんだ。





削りながら跡を残して
埋めてくれる
生き物の気配を待ちぼうけて

呆けて
待ってる
空がつながる日を

あなたを
臆病にさせる
ものはない
どこにも
いないよ

なかった
何にも