石灰で指先を白くして
黒い板の前に立ち尽くした日から
何かが分かったことなんて一度も無かった

雨の日に甘い匂いになる木造建てや
上向きにされた校庭の蛇口
誰かの足跡の残る花壇の柔らかな土

楽しいことはみんな教室にあって
誰も外を見なかった
ある日花壇の土が不自然に盛り上がったのも
その形が最近消えた人に似ていたのも

誰もそれを見なかった
何もなかった私以外は

行方不明の上級生
空は雨と光を交互に降らす
つまりは何にも変わらない
タンジェント
時を止めても
だからもう席を立って行くべき場所へ私は行くの





「一兆一億夜」

影は闇を味方につけて
夜の海を潜りここへ辿り着いた
虫の夢に魘されていた僕は
雪を食べたように目覚めたんだ

唇に何かがそっと押しつけられて
呼吸を乱さない僕は知っている
それが君の唇じゃないと知っている
ささくれ立った小波のような感触を
右腕じゃないほうにきみが持っているのを

(       )、

世界の音は止み
いや違う、
ぼくの耳がその声以外を拒絶し
その声だけを受容し

他に理由などないと思った
生きるにおいても死なないことにも

同じ酸素を吸って
同じ光を浴びて
同じ日に終わりを迎えたがるような
溶けあい方は望んだりしない

僕は痴れた仕草で眼球を転がせて
窓から見える観覧車は
人じゃなくて
夢を
悪い夢をね空に投げてんだよ

異国の言葉で
さみしい眼差しで
僕はひとり夜に語りかける
本当は誰も溶けていない夜の奥に





生まれて初めて見た死は
五月の晴れた日
朝のプールに浮かんだ
見惚れるような
ぼくの初恋だった





「低体温」

本当に一人だったのは誰だ
何枚も経験した白紙を
まるで見慣れないものみたいに
感じて動けなくなったのは誰だ

庭園を忍び足の影
名前もあてどもない
昔日のように自由な住人
ぼくは硝子の割れ目から隻眼の
肩に銃身を感じながら考えあぐねる

若葉は目に眩しく
書き記すには苦すぎる
そう云って夕暮れを待つことが
何も産み出さないことをぼくは知っている





万事尽くしてどうしようもなかったものを
救うのは誰もが納得するような
正しさとか優しさじゃなかったかもしれない





「女学生」

刺繍の鳥がはばたいて
わたしを残そうとするから
ハンカチを水に浸けて
羽毛の生き物を殺した





「とかげの名付け親」

落としたものを拾いに行くのはやめよう
忘れものに気づいたふりをして振り返るのも
何か咲いていたとよそ見をするのはやめよう
さえずりの正体を知りたくて耳を澄ますことも

ぼくは本当に知らない
何も知らないのだから

帰る場所を知りたくて迷子になってみたよ
何までなら食べられるか知りたくて悪食におぼれたよ
いつまで平気か知りたくてひとりで生きてきたよ
するといつしかいちばんとなりに座ってて
人に与えられないものなど何ひとつないあなたが笑ったんだ





「郷愁逃避」

逃げ場を奪って
どこか遠い場所へ行きたい
遠くて高くて静かな場所へ

禁忌の正体は祈りだったろうか
ぼくが覚醒すると風船は指を捨てて
溶けきらない色に触れるため死んだ

聖性はたやすく黙殺される
幻は三歳児の姿で折檻される
所詮こんな世界と呪うのはぼくが
いまだもってしがみつく動機にしかならない

寿命以上を生きる大樹はあたたかくて
虫も鳥も彼を怯えないのはすごいことだ
黙って死ぬことの無意味を訴える
同時に生きることの無意味さも与えながら

あてもないのに逃げたくて
知りもしないのに目指してて
半分だけしか瞼を開けなくても
世界は容赦なく輝いて
胡散臭い目映さだなと嗤って眉を顰めても
裏切らないあなたをぼくが守る





「夜明け前の密約」

光が朝を走る
妖精は消えた
消えた
きえた

欄干に立って
善悪を隔てようとするきみの
脆さと壊れやすさに
どうしようもなく憧憬している

何もない
いない
何もいない聞こえない

見えないことは怖いけどうれしい
外套に隠されて出番を待つのが
ナイフであろうと花であろうと





「闇夜の兄弟」

子供がひっきりなしに
無いと無いよと泣いている

いったい何を損なった
兄の唖が指先で問い
彼だ彼らだと
聾の弟が吃音する

真夜中を猫がゆく
棘を避ける柔らかな肉球は
乙女の死に顔を踏みしめる

失われた順序
来て去る繰り返し
季節は兄弟を疲弊さす
それでも美しいものは今宵作られていく





「地続き」

不治の少女が歌う
柔らかな骨が折られる
皇帝が羊飼いに懺悔する
少年が生き方を忘れる
どれも同じ空の下で