遠く船の汽笛がする。ざらざらとした波の音。心地よい室温。深い紺のタートルネックに口元を覆わせた君は、椅子に座った前屈みの姿勢で、眠そうな目を擦っている。その手を取って何か言葉をかけてあげたい、のに君の手は僕の気持ちには気付かずカテーテルの位置だけ確かめる。今日もこの肺は呼吸している。心臓は脈打っている。時は消えた。あの日君がどこかに隠してしまった。この薄暗い部屋と空とを繋ぐ唯一の窓は、厚いカーテンに閉ざされたままだ。何日も、もう何日も。




八 日 目




「今日で、何日目?」
その問いかけに君は、三日目、と答えた。チェスナット・ブラウンの柔らかな髪に触れたい。
「触らせて」
君は少し笑うと、顔を近づけてくれた。僕は思い通りにならない指で、瞼や唇や、そんなところにばかり触れた。
「金色は、元気?」
それはふたりの小鳥の名前。僕はもう何日もその姿を見ていない。声を聴いていない。その小鳥のこと、僕はもうすぐ忘れてしまうかも知れない。すでに思い出せないことはたくさんある。自分の名前。ついさっき交わした話の内容。笑顔のきっかけ。何故こんなにも物を忘れてしまうのか、それすら分からない。もしくは、覚えていない。記憶は乾いた砂のようにいつも零れる。二度と元の場所に戻らない。でも、いつか本当にすべてを忘れてしまう時がくるとしても、最後まで残っているものが君の姿だったら良い。君の名前だったら良い。そう願うから、何度でも呼びかけるんだ。ディートリヒ。

「さっきから何してるの、ディートリヒ」
流しに立ったディートリヒの手は、何かを迷い無く切っている。真新しい銀の鋏が切り落とすのは、何?瑞々しい、しなやかな、誰かの細い指先のような。近頃眼球がうまく動かせない。限られた視界のその隅で、僕はディートリヒの紺色を探す。なぜかいつもより寂しくて寂しくてたまらない。君が近くにいないと、怖くて怖くてたまらない。いつから僕はこんなにも臆病になってしまったのだろう。
「ほら。クラウの好きな花だよ」
振り返ったディートリヒは、花を挿した瓶をこちらに差し出す。
「クラウ?……誰それ」
わざとそんなこと云って、僕はディートリヒを哀しませる。寝台脇の棚に瓶を載せ、ディートリヒは何事もなかったかのようにカテーテルの位置を確かめる。その瞬間の世界が嫌いだ。すべてが僕を拒んでいるような気がするから。なら忘れたふりなんかしなければ良いのに。やめられない。悪い癖だ。ディートリヒの眸は時々、魚の鱗のように美しく光る。その眼の下には隈ができている。寝ていない。あの夜から、一睡もしていないのだ。それを思うと僕は、僕が早く消えてしまえば良いのにと願わずにいられない。
「……ねえディートリヒ」
「うん?」
「もしも。もしも僕が死んだら、棺なんかには入れず、裸にして、手向けの花も握らせないで、昔よく遊んでいたあの森の、奥の、つめたい土の中に埋めて。そこには標も立てず、君は泣きもせず去ってよ。僕は汚く腐りたい。動物の死骸のように、枝を離れた枯れ葉のように。雨に打たれながら、虫に喰われながら、なるべく時間をかけて、土に戻りたいんだ」
ずるい。
ディートリヒが相槌なんて打てないのを知っていて、何かから解き放たれたような面持ちで、自分ばかりが美しいふりをする。それなのにディートリヒの指は、黙って眦をなぞってくれる。ああ、その優しい微熱、ほんとうは誰にもわたしたくない。誰にもわたしたくはないのに。
今、枕の下に、回転式小銃がある。
「……もしも、の話だよ」
僕は、ずるい。

暗い天井ばかり眺めているものだから、目はだんだんと光を忘れていく。そんな時でもディートリヒの姿だけは紛れもなく鮮やか、他は皆死んでしまった。遠く船の汽笛が聞こえる。ざらざらしたノイズ。心地よい室温。迫り上がる悲愴に身じろきながら眠ることもできず、寝返り打ちながら僕は何度も、ディートリヒの名前ばかり呟いている。カーテンの僅かな隙間を掠めてこの部屋に刺す光は、ああ、灯台か。海は遠くないのかも知れない。耳障りなノイズ、とばかり思っていた音も実は優しい波音だったのかも知れない。僕はかなりの時間をかけて寝台の上で体を起こし、繋がるカテーテルを、またかなりの時間をかけて引き抜いた。寝てばかりいたから足に力が入らない。蹌踉めく体を結局寝台に横たえると、深い眠りの中にいるディートリヒをしばらく見た。眠る青い頬を、誤ってこの部屋に迷い込んだ光がずっと撫でている。生きていないような肌だ。ディートリヒの家系は皆がそんな肌をしていた。幸せになるべくして産まれた、そう形容したくなるような美しい一族だった。眸は深い碧をしていた。髪と同色の睫毛は長く、触れると柔らかかった。人形のようなディートリヒが、乞食同然の僕と出会って、仲良くなっていった経緯も、もう思い出せない。
もっと光が欲しい。
僕はカーテンを開けようとし、やめた。
「外が見たい」
いつかそう告げたことがある。難題を云ったつもりはなかった。けれどディートリヒは僕のその欲求にひどく困った顔をした。「空が見えなくて怖い」。ディートリヒはますます哀しい顔をして、それでもなんとか笑顔になって、「今日は曇ってる」。曇りでも良い、雨でも良い、いつか一緒に見上げた空が、今もちゃんとそこにあるのかどうか、それさえ確かめられれば良かったんだ。けれどその望みは、あの時のディートリヒの絶望ほどは強くなかった。きっと。だからもう望まなかったんだ。

思い出せない何かを思い出そうとしながらディートリヒの頬に手をあてていると、どうしてか涙が出てきた。理由は分からない。温かかったから、というのが一番正しい気がする。頬が、温かい。ディートリヒは、ちゃんと生きている。これからも、この温かさで生きていくのだ。それは僕が近くにいてもいなくても変わらない。こればかりは奪えない。たとえば、ディートリヒが死なない限りは。下唇を切れるほど噛み、枕の下にそっと手を入れた。取り出した小銃は僕の手の中、黒光りしていた。前に持った時よりも重さを増した気がする。ゆっくりと、その銃口をこめかみの高さまでかかげていく。やがて静かに目を瞑り、安全装置を外そうとした。
「……待てよ、」
外し損ねた。まさか気が付くなんて思っていなかった。目覚めたばかりでいつもよりきつい目が、不満げに僕を見ていた。まだ虚ろな眼差しは焦点が定まっていないのかひどく頼りない。幼すぎる。子どもみたいだ。
「……どうして、クラウ、」
耳に届いたのがその声でなければ僕は、彼をディートリヒと分からなかっただろう。彼はもうほとんど別人のようだった。僕は知らない、こんなに必死なディートリヒを。汽笛が強く鳴った所為かも知れない。ノイズが聞こえる夜だから。疲れた脳掻き乱すように。その目は語っていた。知っていた、と。僕の隠し持つ切り札の存在などずっと前から知っていた、と。
「……一人でそうしようとするくらいなら、どうして僕に、一緒に死んでとゆってくれないんだ……」
ディートリヒの顔を覆う手は痩せ、指の隙間から、僕が初めて見る彼の涙が零れ落ちた。
息がとまる、と思った。
小銃は冷えた床にぶつかって音を立てた。

閉ざされたカーテンの向こうにあるのは、もう碧い空なんかじゃない。耳障りなノイズの出所は銃声、瞬く光は森を焼き払う閃光だ。遠く鳴る汽笛は、逃げる者たちばかり乗った方舟。廃墟と化したこの国にはもう、君を埋められる森なんかない。
ディートリヒの掌には、七本の線が引いてあった。
「八日目は、今日だよ」
緊急避難命令なのだと云う。八日目、その意味するところを知りたくなんかない。ディートリヒが嘲っているのは僕なのか彼自身なのか、それとももっと別の何かなのか、知る術を持たない。知りたいとも思わない。何も考えたくない。もう何も。
「金色は、逃がしてくれた?ちゃんと、逃がしてくれた?」
震えの止まない指を、シーツの下に隠そうとした。けれどディートリヒはそれを赦さず、痩せた手でもっと強く握り締めてきた。覗き込んでくる碧、もうすべて委ねてしまう。
「鍵はとっくに外してある。本当に生きたいのなら、自力で飛んでくだろう。金色なら、心配は要らない。……クラウディア、あのカーテンの向こうには何もないんだよ。毒と鉄骨、灰の闇だけがすべてだ。飢えた野良犬は逃げ遅れた病人を喰らってる、噛み千切られたその腹からは子どもの指とか出てくる。気を違えた母親が赤ん坊の頭皮を毟っていたよ。感覚の麻痺した他人同士が、互いの四肢を千切り合ってる。すべては毒と鉄骨、灰の闇が引き起こした悪夢……どうしようもない、ほんと、どうしようもない」
話しながらディートリヒが顔をしかめる。すべては本当のことなのだろう、と思う。それだってすべてじゃないけれど。
「世界はいつから変わってしまったの」
「ずっと昔から、こうだったのさ。もう誰も覚えていないくらい、昔からね。金のある者は新天地へ逃げた。貧しい者に作らせた方舟でね。実際の方舟づくりに関わった者で、その方舟に乗れた者なんて唯の一人もいないはずだ。重量の限られた方舟に乗るには、生き残るにふさわしいのだと認められなければならない。そしてその選出には、多額の金が必要だ。理由なんてどれを取っても醜いのさ。それがたまたま金だっただけだ」
「……ディートリヒ。君の一族は決して貧しくない。君はその方舟に、本当は、乗れたんだろう。それなのにどうして君は、まだここにいるの」
やっぱり僕は、それをディートリヒに云わせるんだ。
「クラウがここを出られないからだ」


八日目の朝、それは起こった。凄まじい震動に崩れ落ちてく。何もかも、音を立てて崩れ落ちてく。過去も未来も、今この瞬間ですら。最初の爆音に右の鼓膜は破れてしまった。ディートリヒの胸に左の耳を当てたなら、まだ思い出せる。色と、熱と、日々。瓦礫の下の僕らはぼんやりと、遠い時間を巻き戻していた。小さな金色を拾った時の碧空。不吉な予感を微塵も感じさせないひだまり。僕らを隔てるものなど何一つとしてなかった。階級も出身も関係ない。緑の風は髪を舞わせるだけ。時は静かに過ぎてゆくだけ。何も否定せず、何も肯定せず。ディートリヒの白い手を握るのが、ひどく汚れた僕の手でも、すべては自然の中で赦されていた。ずっと続くのだと疑いもしなかった。幼いふたり取り巻く幸せな日々。何回も巻き戻しては、飽きもせず見続けた、硝子の眸でふたりはずっと。


040325