あ、忘れないだろうな。
と思った。
忘れないでおこう、と思ったことは大抵忘れてしまうものだけど、こういうふうに、あ、これは忘れないだろうな、と思ったことは全て覚えていられるということ、僕は、この十五年という、短いのか長いのかよくわかんない人生の中ですでに学びました。


拝 啓 、 ひ つ じ 先 生


ふと見上げた時に視界に入った窓の外の枯れ木が昨年死んだ祖父に見えて気持ち悪くなって体を起こした。先祖に見られながら×××なんてかなりぞっとしない。
今になって気づいたことだけど、あ、理科室の床って冷たい。
硝子を隔てた向こうには日常っていう名前の秩序があって、そこを何も知らない無垢たちが通り過ぎていく。笑い声。何か虚構めいてるけど、これも一応現実。
僕は進路を相談しに来たんですけど。
すぐ立ち上がろうとしてだるかったので、それはやめた。
三十分前の自分にはもう戻れない。でも僕は、ほんとは、進路を相談しに来た生徒を装っていた狼だったんだ。
「自慢したいわけ。ソレ」、とひつじ先生に訊ねられたのでやっと気づいて手首に見えていた古い傷を隠した。そういう見られ方、僕は好まない。
僕の不機嫌に気づけないひつじ先生はちっとも乱れていない自分の胸元から銘柄の分からない煙草を取りだし火を点けた。その間に僕はだらだらと釦を留めた。あの感じだと上から二つは飛んだだろう、と思っていたのにどこも千切れてなかったので、ああ良かった、と思った。僕の身近に裁縫の得意な人はいない。
「自慢?それも良いかも知れないですね」
「良くないよ」
自分から誘導しておいて、良くないよ、なんて云う。
短い沈黙。
沈黙を沈黙とわざわざ呼ぶほど喋っていたわけではないけれど。
「で、きみは何をしに来たんだっけ」
「進路相談です。でももう良いです。何故か疲れました」
あんたのせいで。
「ひつじ先生は何で先生になったんですか」
「あ、怒ってる。俺がひどいことしたから心底怒ってる」
「嬉しそうに云わないでください。中学生ですか、あんた」
「だと良いけどね」
生憎大人ってやつになっちまってね、と云いながらひつじ先生はまだ吸える煙草を携帯灰皿に突っ込んでさっさと準備室へ戻って行った。いつまでも冷たい床の上にいる気もなくて僕はのこのこと後ろをついて行く。

「で、どうだい、優等生の最近は」
ひつじ先生の仕事場は汚い。
なんて云うか、こう、逆に体力使ってこうも散らかしたんじゃないのか、ってくらい汚い。
紙は積むものであって築くものじゃないだろ。
っていう。
絶対いつか崩壊する。
散る、んじゃなくて、崩壊。積んだものではなく築いたものなので。
「変わり映えないです。そちらはいかがですか」
「生きてるだけで、償えない罪を日々積み重ねてってる感じ、あはっ」
あはっ。
ムードもへったくれもないひつじ先生が机に向かって座ったから、僕は自然その机の上に座った。
「へえ、何がしたいの」
「邪魔がしたいんです」
それこそ中学生みたいな目で、別に意識してないんだろうけど上目遣いに、ほんとそれだけ?って繰り返されたら、も、無垢してる場合じゃない。
またか、またか、またなのか、と思いながら今度も名前を呼んでしまう。
狼は羊を食べる。
羊は狼を食べない。
でもそれは狼が羊より強いからじゃなくって、羊が狼より弱くないからだ。血を見てでも食べなきゃ居ても立ってもいられない、っていう、そういう劣等感の裏返しだとは、思わない?
僕は思うよ。
「先生」
「うん?」
「太陽が見える」
汚れたカーテンの隙間から。

忘れないだろうな、と思った。
きれいじゃない部屋できれいじゃないことをしたことや、本当に羊を食べたくて食べている狼なんていないんだと理解したことや、大人に相談すれば問題は大方解決できるって信じる中学生はとっくに絶滅したんだと気づいたことや、無垢でも無垢じゃなくてもそれなりに生きていけるんだろうな、って感じた日のこと。日付は忘れても、その日があったことは絶対忘れないだろうな、と思った。

もしも残念なことに明日の今頃まだ僕が生きているんだったら、もう二度とチャンスは巡ってこないだろうな。
僕が明日死ぬってったってひつじ先生は止めない。冗談だろって思ってるわけじゃなくて、冗談じゃなくたって止めないよってだけだ。それだけのことだ。
レシピに書いてあった材料は揃った。料理はもうすぐ完成するんじゃないのかな。僕がシェフするディッシュとしての僕はいよいよ完結できるんじゃないかな。
っていう矢先のことだった。
「ねえ、ひつじ先生」
「うん?」
「どうにかして生き残れないかな、僕は」
呆れた。
このシェフはついさっきまで仕上げに熱心な風を装っていた癖に、最後の最後でこういうこと云うんだ。も、信じらんね。
「ん、俺でも愛せば」
だるかったけど瞼を開ける。一瞬だけひつじ先生の顔が視界に入る。女だったら惚れる。女じゃないから惚れない。
「俺でも愛せば」
冬の太陽、今はもう汚いカーテンに覆われて僕には見えない。
だけど、消えてなくなったわけじゃないんだな、これが。
見えないけれどそこにあるね。聞こえないけれどどこかで鳴っているね。
世界中の嘘が死んでしまったから、僕のまなじりには涙が浮かんだ。
「な。俺でも愛せって」
「繰り返されたって、やです」
ああ、そうか。
この汚いカーテンは、誰もが昔めくった童話の表紙。
その奥にある頼りない恒星こそは、今や子どもじゃなくなったことを自覚してしまったひとびとが一生懸命かかげたものだったんだ。
「ねえ、ひつじ先生」
「うん?」
「劇的な何かが起こらなくたって、今泣いたって良いですか」
「・・・・・・、」
ひつじ先生は僕の鳩尾に額を押し当てて何か囁いた。きちんと聞き取れない。ひつじ先生の声ってやつはいつだってそうなんだけど。いつもきちんと聞き取れないんだけど。
「え、何ですか。聞こえない。はっきり」
「いや、これだから冬は良いね、と云ったんだ」
驚いたことにそれは鼻声だった。
どういう心境の変化か分からなかったけど、僕の顎の下でひつじ先生の方が先に泣いた。
も、何。ほんとやだこの人。僕が先だって云ってんのに。
「ああ、ですよね。ほんと冬って良いですよね」
ひつじ先生の生徒からの呼称が“緋辻先生”ならぬ“ひつじ先生”たる所以であるところの癖っ毛を指で梳いてやりながら、その役目を独占してしまいながら、ぼんやりと、ああ早く順番回って来ないかな、って、僕は思ってた。
太陽から隔たっていても誰かの前で泣ける幸福の順番を、何も云わないでずっと待ってた。

11:48 2006/12/21
大上(おおかみ)くんと緋辻(ひつじ)先生。