夜は良い、夜は何したって良い。
闇には悪いのとかきれいじゃないのとかたくさん隠れているから、ここにいる自分達がどんなことしてたって平気。夜は良い。朝なんか来なきゃ良いのに。のに、
「起きたら布団畳めよ」
貧乏な先生の家はワイシャツが二枚しかない。昨日着ていた方は通り雨で濡れたから、夜はそれを乾かす暇もなかったから、今日はどうしたって、先生曰わく「どちらかと云うと気に入っていない」方を着なくちゃいけない。
「良いな、こういうの」
「何が」
「きょうのおおかみせんせい。っていう、NHKの教育番組でやってそうなテイストの番組なの。それを一番最初から観られんの。普通の生徒は途中からしか観られないの。じゃあ俺ってすごい特別で幸せだなあ、と」
「くだらん」
「くだらん。ばっか云うと老けるよ。まだ四十かそこらなんだろ」
「来月で三十六だ」
「・・・先生、怒る?」
「いや?」
「ああ良かった。一瞬地雷踏んだ気がした。あはっ」
「ただし」
「ただし?」
ただし、さっさと起きて布団を畳め戸締まりを忘れるな食器洗っとけ鍵はいつもの場所だ玄関から出るとこ近所の人間に見られたらぶっっっ殺す。
と云い残し先生は颯爽と出勤なさった。
一人で部屋に残された俺は、うっかり忘れ物した先生が慌てて引き返してきた時に「ああもうこいつはっ」ってうっかり思っちゃうような表情と格好でちょっと待ってみる。けど、あの先生が忘れ物なんかするわけがないか。
ああもう、まったく、世話を焼いたふりして。
ぶっっっ殺す。
って、それ云いたかっただけじゃん。おおかみ先生。


拝 啓 、 お お か み 先 生


「くま先生は風邪でお休みなので、今日の理科はおおかみ先生が見てくださいます」。
熊じゃない、球磨先生。狼じゃない、大上先生。
ちなみにうさぎ先生ってのもいる。本名は宇佐義一。生徒の手にかかればなんてことない。大半の教師が動物になってしまうというこの学校の七不思議。
「おおかみ先生が来てくれるんなら、くまなんか一生来なくて良いよねえ」
女子の喜びを横目に見ながら、先に誘惑しちゃってごめんねえ、って、顔の前で両手を合わせる。勿論、頭の中で。
あれは俺のだから、も、ほんとごめんねえ。
って感じ。

三時間目の理科に備えて一時間目と二時間目は睡眠を貪る。こういう時、いつも寝てるやつは得だ。日頃から居眠りしているやつが今さら二時間ぶっ通しで居眠りしたところで違和感は生じない。何事も日頃の行いが大事だということで。
だということで。
三時間目が始まる頃に俺は眠気なんか微塵も残してなかった。

何回も目が合った。
だけど、一回も目が合わない方がもうちょっとドラマチックだった?って疑念が生じるくらい、ちっともスリルじゃない。先生って役者だよなあ、と思いながら頬杖を右から左へ、左から右へ移しながら首を傾げる。
あの手が良いんだあの手が、と思いながらチョークが別の物に見えてしまう、っていう、これは何の罠だよ。って、
「じゃ、お前。問一から問五まで解け。全部な」
思い出し笑いしてたら指名された。
「え、全部」
「そ、全部」
こんな時だけ、俺ににっこり笑ってる。
ぶっっっ殺、
さ、ない。
せ、ない。
も、だめ。

すっごいどきどきした何の暗号かと思ったねえ今日のあれは何なわけ何ていう愛情表現なわけ?って問いかけに反応が無い。っていうのは当たり前だったからそんなに気にしなかったんだけど、フライパンの上で野菜炒めが焦げていた時、あ、別のこと考えてる、って分かった。
誰も知らないだろうけど先生は料理が得意なんだ。
野菜炒めごときを焦がして失敗したりしないんだ。
「なあ、話したいことがあるんだ」
台所の白熱灯が先生の顔を、手術室の中央で立ち尽くす外科医みたいに見せる。
その目が見下ろしている少女は人形みたい。お腹のあたりを解体されて、そこにガーゼやテープをあてられてる。黄色い脂肪がぬらぬら光ってる。先生の尖った顎から汗が滴る。青い床に落ちる。もったいないな、と思って眺める。先生はひっくり返った亀を見るような目で、その程度の目で、還らない少女を見ている。俺は自分に云い聞かせてる。
この後この人が何云ったって、うん、って云えなきゃ嘘だ。
って。
責めたらそれは嘘だ。って。
質したらそれは嘘だ。って。
喚いたらそれは嘘だ。って。
詰ったらそれは嘘だ。って。
世界中のそこかしこに嘘ばっかが溢れていたって、嘘じゃない、俺と先生は、嘘じゃないよ。
「なあ、話したいことがあるんだ」
「良いよ。俺たぶん平気だから」
例えばそれを。少女の死と亀の転倒は等しいわけ?って、糾弾するか。
それともそれを。亀の転倒は少女の死と等しいわけ?って、微笑むか。
は、今の俺に委ねられている判断なんだろう。
こういうとき、人間ってほんと自由だな、って思う。自由で自由で、やんなっちゃうな。縛られたいな。首輪欲しいな。引きずられたいな。
何も裁きたくない。誰のことも善や悪で呼びたくない。目に見えないものについて話したくない。だからって目に見えたもので物事を判断したくもない。
ただ続けば良いと思ったのに。
「もう終わろうか」、先生は、そんなふうに云う。
俺の返事なんか決まってる、「やだ」。
「もう、終わるんだよ」
事務的な口調に腹が立って、いや、腹が立っているということにしたくて、その腕を強く握った。
「本当にそう思うわけ」
「うん?」
「先生が自分でそう思って云ってるわけっ?」
焦げた野菜から煙が出る。先生は冷静に換気扇のスイッチを押す。
ああもうあの指が俺のじゃなくなる。
ああもう俺もこの人のじゃなくなる。
「ねえ。先生が自分でそう思って云ってるの、って」
「ああ、そうだよ。自分の言葉だよ」
「・・・おおうそつきだね。そんで、下手だね」
知らない癖に。
あんなに気持ちの良い指を、知らない癖に。誰も。誰も。
それなのに、誰が、誰が、告げ口をしたんだろう。
知らない癖に。
何にも知らない癖に。
「基本的に、大人は大嘘吐きだよ」、先生が俺の腕を引く。勢いを借りて俺は子どもぶる。大人の肩に額をのせる。ただ、それだけ。それ以上は何もしない。いつも、何もしない。黙っていたら先生の指が俺の髪の毛を引っ張って遊ぶ。ただ、それだけ。そういうことだけで良かったのに。これからもずっと。
卒業したら、とか。そういう約束だってできたんだと思う。だけどどちらも云い出さなかった。そういうところは似ていたと思う。約束が嫌いってところ。夢を見ないってところ。朝が怖いってところ。みんなが赦される夜が好きってところ。
「しかし、ほんと、すごい癖っ毛だな。これじゃ正真正銘、ひつじだ」
そういうところだけ、すごくよく似ていた。



夜は良いね、夜は。何をしたって何も云わない。太陽は酷いね、太陽は。きたないものがきれいなものに溶け込もうと切実に目論む時、あるいはその逆のパターン、において、無情にも晒してしまうんだから。ほんと、やなやつ。こいつとだけは、友情を結べる気が永遠にしない。
「あ、鼻水付けたらクリーニング代請求しますから」
「おおかみは相変わらずうるさいな」
相変わらずって何ですか相変わらず、って。
「ところでさ、きみの叔父さん元気?」
いきなり身内の話を出され大上がかなり訝しそうな顔をする。人間として正しい反応だ。うん、わざと唐突に云ったよ。
「え?僕の叔父が何ですか」
「実は俺ね、きみの叔父さんの教え子なんだよ。きみの叔父さん、理科の先生をやっていてね。知ってる?俺、その人に憧れて理科だけは頑張ったんだけどね。そんで今、こうやって理科の先生やってるんだけどね。ちょうシンプルでしょ、俺の人生。あはっ」
本当ですか、と大上が目を丸くする。
「いや、叔父が以前教師をやっていたというのは知っているんですが、まさかひつじ先生が教わっていたとは聞いていなくて。そうですか。へえ。仲、良かったんですか」
仲、良かったんですか。か。
おそろしく鋭いな、と大上を見たけど、そういう意味はなかったらしい。
「仲はそんなに良くなかったね。俺は優等生から程遠かったし。そういう生徒って基本的に好かれないだろう」
「そうですか?僕は、劣っている生徒は劣っていることを武器に他人の関心を集めることができる、って、逆にそう思いますけど」
「そこまで知ってて、きみは何で優等生してんの」
「していると云うより、僕が優等なのは生まれつきですから。ちなみに僕が正直なのも生まれつきです。・・・あと、基本的に、って言葉は意味がないので使わない方が良いと、僕は思います」
「きみさあ、友達いないだろ。ま、俺はそういうのも良いと思うけどね」
きみはたぶん思春期の事情で俺を求める。
俺はたぶん懐古の過程できみを求める。
優等生の事情、先生の事情。
子どもの事情、大人の事情。
夜の事情、朝の事情。
ひつじの事情、おおかみの事情。
「あ、で、きみは泣かなくて良いの」
「順番待つ間に冷めちゃいましたよ。ひつじ先生が子どもみたいにいつまでもぐしゅぐしゅぐしゅぐしゅやってるから」
「あはっ。そいつは悪かったねえ。いや、ほんと悪かったって。・・・でも、きみの声聞いてたら、自分が学生だった頃のこと、色々思い出しちゃってさ。喋り方とかは全然違うんだけどね。声だけなんだけどね。だってきみはまだ子どもだもんねえ。・・・あの人は、大人だったよ。傷つけられる方が傷つける方よりずっと楽なこと、知ってた。それ知っててあの時、俺を傷つけてた」
良いのにな。
これもまた、嘘じゃないなら。
「何ですか、さっきから。僕と誰の声が似てるって云うんですか。わけ分かんないです。ひつじ先生」
「分かんなくても問題ないよ」
うん、問題じゃない。
うん、どこにも問題ないさ。
だから、だから、安心して消えてろよ、太陽。願わくば、二度と会いたくねえよ。

19:14 2006/12/22
おおかみ先生←ひつじ先生←おおかみくん