九月目前、ラジオの天気予報が残暑がこれからしばらく続くことを告げている。
正午十二時十五分を知らせる時報の後、学生の皆さん夏休みの宿題は終わりましたか、と、この時期恒例の質問を投げかけてくる。
飲みかけカルピスの入ったコップを机の端に押し遣ったぼくは、今からです、と呟いた。
一度も開いていない問題集数冊と読書感想文のための原稿用紙を確認する。

正直に云おう。ぼくは割とすきなのだ。

夏休み終了直前、追い詰められながら気合を入れる瞬間が。もちろん終わらないこともある。しかし諦めてしまうにしても、やるだけのことはやった、と思える。それは日々こつこつこなしていった時の達成感とはまた一味違ってイイのではないだろうか。

などと、妄想するのだ。


ネ コ マ ニ


手始めに国語から、と早速取りかかったぼくの意欲が思わぬ邪魔に遮られる。
「マイチ。お客さん入るぞ」
そう呼びかけてくるのは同居人のモンジ。男子高生だ。
ぼくはせめて一瞬嫌な顔をしてみたが、モンジの背後から出てきた「お客さん」を見るなり思わず声を上げてしまった。
「ニキさん!」
仁木さんは近所に住むお兄さんだ。年から云えばモンジの方が近いのだが、仁木さんとぼくは仲が良い。この夏休み中も一緒に川遊びに行ったりデパートの催事場で行われている昆虫展を見に行ったりしたものだ。
つまり、ぼくにとっては同居人のモンジよりよっぽどお兄さんなお兄さんなのだ。

「すまん。モンジくん。お邪魔するよ」
ここはぼくの部屋だと云うのに仁木さんは何故かモンジに承諾を求めた。
「ああ、いいぞ。アヤトも気が向いたらマイチと遊んでやってくれ。悪いことしたら叱っていいからな」
アヤトというのは仁木さんの下の名前だ。
「悪いことなんかするもんか」
ぼくが云い返してもモンジには聞こえなかったみたいだ。居間へ用事を済ませに行った。
「……あ、どうぞ」
いやなところを見られてしまった。
ぼくは気を取り直して仁木さんにベッドをすすめた。
「すまん。マイチくん。急にお邪魔して」
仁木さんは年下のぼくに対してもまったく丁寧に突然の来訪を詫びる。
これから宿題の山に取り掛かろうとしていたタイミングは決して良いものではなかったが、仁木さんなら仕方がない。
ぼくは「いえ、うれしいです」と笑って見せた。
今日、仁木さんは帽子をかぶっていた。
下はデニム、上は白地のティーシャツといった服装にはやや不釣合いな帽子だった。
「今日も暑いですからね」
ぼくは自分で考えた解釈を口にした。
すると仁木さんが小さな声で、ちがうんだ、と呟いた。
「違う?」
「全然違うんだ」
仁木さんはそう繰り返すとぼくの顔を両手で挟んだ。
「ど、どうしたんですか」
仁木さんの黒い目がぼくをじっと見つめてくる。
クーラーの効いた室内にいるというのに汗がにじんでくるのを感じた。
しばらくすると仁木さんはぼくから手を離し、ようやく決心したようにベッドに腰を下ろした。
「いいかい。今からきみが見たことを誰にも云わないと約束してくれ」
それは切羽詰った人間の表情だった。
約束します、と誓うと仁木さんはかぶっていた帽子を取り外した。
押しつぶされていたものが、ぴん、と立ち上がった。
三角形をした耳だった。

えーと。
宿題の山を横目でちらりと見つつぼくは頭の中を整理する。
「えーと。あのですね、いくつか質問させてください」
「ああ。訊いてくれ」
「それ、本物ですよね」
「間違いない」
「それが出てきたのはいつからですか?」
「今朝起きたらここにあったんだ」
ぼくは仁木さんが眠っている間にその二つの耳が黒い髪を押し分けて生えてくるところを想像する。春先の竹の子のようだった。
「えと、人間としての耳もまだあるんですか?」
「あるよ」
そう云って仁木さんは確認させてくれた。
「つまり今、仁木さんには四つの耳があるということですね」
ぼくは気を遣って声量を落とした。もしかすると普通の話し声でもうるさく聞こえてしまうかも知れないと思ったからだ。
「どうしよう。マイチくん。もしもおれのお尻にしっぽが生えてきたら。手のひらに肉球が出てきてしまったら」
そうなったらこの世界は終わりだ、と仁木さんは両手で顔を覆う。
仁木さん一人の都合で世界が終わるのだとしたら無関係のこちらは相当たまらないが、仁木さんの立場になってみればそんな心情にもなるだろう。だいたい今のは例えに過ぎない。ぼくはもっと仁木さんを労わるべきなのだ。
「えっと。だいじょうぶだと思いますよ。うん。だいじょうぶです」
根拠の無いぼくの言葉がどれくらい力になったかわからないが仁木さんはようやく顔を上げた。手で押さえたところが赤くなっている。心なしか目も潤んでいる。
ぼくは仁木さんが取り乱しているところを初めて見た。
物知りで、穏やかで、落ち着いて、何かにあたふたしたことなど一度もない。
ああ、違う。
一度だけ、取り乱したことがある。

(アヤト。お前さ、彼女とじゃなくていいの?)。
ぼくと仁木さんがデパートの昆虫展に出掛ける際にモンジがそう声を掛けた時のことだ。
モンジとしては「いつもマイチの世話ありがとな」的な意味で云ったのは間違いないが、その時の仁木さんは一瞬ぼくが不審に思うほど不自然に咳き込んだ。
ようやく呼吸を整えると、こう云ったっけ。
「おれ、彼女、いないから」
それを聞いてすかさずモンジが云った。
「へえ。お前、かっこいいのにな」
突然仁木さんはぼくを置いて玄関を飛び出した。出てすぐのところで玄関先の鉢植えに躓いて転ぶ音がした。
「すいません。うちのモンジが無礼な質問をしてしまって」
追いついたぼくはモンジの代わりに頭を下げる。
すると仁木さんは「いいんだ」と首を横に振った。
「いいんだ。おれ、好きな人、いるから」

仁木さんのあの返事は微妙に噛み合ってなかったな、と今になって思う。ま、口語なんてそんなものか。
ぼくがふと回顧していた頃、仁木さんの精神は少し回復しているようだった。目覚めたら頭に生えていたという耳を手でさすり、毛繕いめいたことをしている。なかなか素質がある。それもそのはずか。
「うん。ほんとだいじょうぶですよ。全然。いいと思います」
それにしてもどうして仁木さんはぼくのところへ来たりなんかしたのだろう。
ぼくなら誰にも話さないと信じているからだろうか。
確かにぼくの話をまじめに聞いてくれる人間なんていないんだけど。
同居人のモンジだって実際どこまで理解してくれているのか分からない。
「そうだ、仁木さん。何か飲みますか。すいませんぼく全然気づかなくて、」
「ううん、いいよ。話を聞いてもらってすっきりした」
「聞くだけしかできなくてすいません」
「十分だよ」
「どうぞ、良かったら、これ、カルピス。ぼく、コップのは飲めないんで」
じゃ、ありがたく。
そう云って仁木さんはコップに口をつけた。
「ところで、マイチくん。モンジくんの告白の話、どうなった?」
コップを膝の上に置いた仁木さんが唐突に切り出す。ぼくは一瞬何のことだったけなと記憶を探ってみて、ああ、と思い当たった。
「玉砕だったみたいですよ。その日の夕飯の献立で分かりました」

夕食時、ぼくの家には大人がいない。
だから食事を作ってくれるのはいつもモンジだ。その点においてぼくはモンジにとても感謝している。作ってもらうばかりでは悪いと感じたまに手伝おうとすることもあるがその度にモンジに「お前はテレビでも観てろ」と追い返される。ぼくの手つきが危なっかしいせいもあるかも知れないが、モンジ自身、料理が好きなのでその時間を邪魔されたくないようなのだ。
モンジの料理はおいしい。夕食には栄養バランスまで考えられたおかずが毎回、少なくとも三品は並ぶ。
しかしあの日の夕食は違った。
ぼく専用のお皿には蓋の開けられたツナ缶がのっているだけだった。
いつもは一緒に食事をとるモンジがあの日は居間でだらしない格好でテレビを観ていた。

「……そう。そうなんだ。ふられちゃったんだ」
仁木さんはちぐはぐだった。
言葉は残念そうなのに、その顔がちっとも残念そうじゃなかった。むしろモンジが玉砕したことをどこかで喜んでいるようでもあった。
その時ぼくは仁木さんのお尻からしっぽが生えてくるのを見たが本人に云うのは気が引けたので黙っておいた。いずれ分かってしまうことに違いはないけれど。
しっぽは仁木さんの本音を示すように先端が軽く揺れている。
「それは、残念だったよね」
先端が軽く揺れている。

「……うそつき」

ぼくが云うと仁木さんは驚いた顔を上げた。
「おれのこと?」
ぼくは頷く。
「本当は、嬉しいくせに」
分かっていない相手に分からせるためにぼくはあえてきっぱりと云う。
悲しそうな目をした仁木さんの頬が引き攣った。
「え。嬉しいって、おれが?」
「そうだよ。だって仁木さんはモンジが好きなんだ」
仁木さんの黒い目が見開かれた。
瞳孔が縦に細くなっていく。
腕や首が黒い毛で覆われる。
喋りかけた言葉はもう人間の言葉にはならなかった。
人間の言葉を理解することはまだできるだろうか?
定かではないがぼくは一方的に語りかける。
「分かるよ。だってぼくはあなたと同じ……」
その先を云う必要は無いと思った。
仁木さんはさっきまで自分が着ていたティーシャツの中でもがいている。
ぼくは少し意地悪な気持ちで観察する。
その時、部屋のドアが開いてモンジが入ってきた。
カルピスの入ったグラスを一つ手にしている。仁木さんのために作ったものらしい。
「あれ、アヤトのやつ、いつの間に帰った?」
不思議そうに部屋の中を見回すモンジの足元を黒い塊が走り抜ける。
「おわっ。え、猫っ?」
モンジが驚いている間にぼくは残された衣類をベッドの下に押し込む。玄関に脱いだ靴も後で片付けておこう。誰かが履くことはもう無いのだから。

「驚いたな。おれ、今のあいつ知ってる」
仁木さんの走り去った方を見ながらモンジは無意識にだろうか持ってきたカルピスを自分で飲んでいる。
「え。あの黒猫、知ってるの?」
「いつだったかな。木から下りられなくなってたのを助けたことがある。自分じゃ下りられないくせにこっちが助けようとしても寄って来ないんだもんな。やっと肩に掴まってくれた時は安心したよ」
その時の光景を思い出しているのかモンジは「すっげえ臆病。でも、顔はかっこいいやつだったな。キリっとしてて」と愉快そうに肩を揺らした。
(そうか。そういうことか)。
ぼくは仁木さんがモンジを好きになったきっかけのようなものを知る。
「さて、と。少し涼しくなってきたし、ほら、お前も散歩に行くか。おれの宿題とにらめっこしてたって分かんないだろ。お前ほんと人間の真似事みたいなことするよなあ」
モンジが腰をかがめてぼくの首を摘む。
ひょいと肩に乗せられた。
「うん。行く」
その言葉はモンジには伝わらない。
だけどこの声は届くから。

もっとちゃんとずっと願ったらぼくもいつか夢叶うかな?

こんなばかげた考えをしてしまうのは、夏だからだろうか。そうだろうか。夢って叶うんだろうか。それは本当だろうか。いいのにな。そうだったら、本当にいいのにな。


090829