イオリさん、と呼びかけながらおれは冷え切った暗い研究室に足を踏み入れる。
スイッチの在処を探すふりをして結局灯りを点けなかったのは、自分に甘く運命は捻りたく好きな人には意地悪なおれの決断。
「風邪、ひいちゃいますよ」
こちらに背を向けて置いてあるソファを上から覗き込む。
イオリさんは眠っている。
だんだんと目が慣れてきて僅かな反射光をとらえられるようになってきたから分かる、その顔は以前この距離で見た時より少しやつれて、髪は乱れて、眉間には皺が寄っている。
テーブルの上には冷め切ったインスタントコーヒー。吸殻の溜まった灰皿。どうしてこう体に良くないことばっかりするんだか。それでも科学者か。いや、前言は撤回しよう。科学者だから体に悪いことはしないとは云い切れない。現にイオリさんがいるじゃないか。
「起きて下さい、冷えちゃいますから」
もう二三度イオリさんの名前を呼んだ後でおれは起こすことを諦めることにした。いや本当は前もって決めていたんだ、確信していたんだ、ずるいこと、分かっているから、おれは今夜ぜったいにイオリさんを起こさない、って。
まっすぐな廊下をゆっくり歩きながら、そう決めてた。
(どうしてこうなってしまったんだろう)。
窓の外で雪が降り出した。
おれは脱いだ上着をイオリさんの肩に掛ける。
「……どうも」
返事があって、驚いたおれは硬直した。
眠っているとばかり思っていたイオリさんは目を閉じているだけだったのだ。
こうなるとおれの立場は随分と弱い。おれは弱い。
「あ、はい」
しどろもどろになる予感。
「終電、無くなったんじゃないのか」
困ったことにイオリさんは時刻まで把握している。
「そう、みたいですね」
おれは忙しなく瞬きした目を自然とイオリさんの顔に落とした。
相変わらずだが三十代とは思えない。
「おまえ、またおれのこと、うわこいつ童顔だな、とか思ってんだろ」
この場合は完全に被害妄想だ。また、と云われるほど過去に云った覚えは無い。思ったことはあるが。それともおれのことを別の誰かと混同しているんだろうか。
「や、思ってないです」
「少しも」
「はい、ぜんっぜん」
「ふうん」、潤んだ目がゆっくりと開かれた。
ソファに寝そべったイオリさんはうんと気持ち良さそうに体を伸ばした後で起き上がった。肩に掛けた上着が床に滑り落ちる。身長はおれより低い。頸の位置は、あのひとより、低い。
「だったら、全然、なんて付けるな。もっと自然に否定しろ、バカ」
「……バカ?」
「よし、そうだ、それでいい。それが自然というものだ。苛立つことがあったら睨んで来い」
「……はあ」
おれはイオリさんの散らかした書類を片付け始める。落ちた上着はそのまま落としておいた。
「おい」
呼ばれておれは微かに口元を歪める。
今さら、じゃないか。
イオリさんは名前なんて呼ばない。
いや、例外があった。
「見慣れないな。おまえ、おれの学生だっけ」
そう、イオリさんは、あのひとのことだけは、名前で呼ぶんだった。
「はい。一応」
「一応?」
「いえ。はい」
「なんなんだ、おかしなやつだな」、声を立てずに笑う。
おかしなやつ。
それは、あなたじゃないか。
あのひとはもういないんだ。 あなたの前から消えたんだ。 あなたを置いて消えたんだ。 あなたがどんなに不味いコーヒーを飲んでたって。 あなたがどんなに煙草を吸い潰したって。 用も無くこの研究室に現れて小言ばかり云っていた、あの、おれにとってのあなたみたいなひとは。 いない。
「黙るな。薄ら寒い。何か話していろ」
「あ、はい。えっと、研究に関することじゃなくても良いですか」
「構わないが」
新たにコーヒーを注いでいるイオリさんの背中におれは歩み寄る。あの時もこうした。こうしてあのひとの背後から近づいて、頸を。
「人を、殺しました」。
コーヒーを注ぐ音に変化は無い。聞こえなかったはずは無いから冗談だと思ったのだろうか。だとしたら随分おれは会話のセンスが無いと受け取られたに違いなかった。
「ふうん。それで、」
イオリさんが振り返る。その姿を月光が淡く照らす。いや、あれは雪。月光を受けた青い雪か。
「それで、って。信じてないですね」
「勿論だ。だいたいおまえが誰を殺したのかも分からないのに」
「ヒヤマさんですよ。ほら、あなたの同期で。いたでしょう、しょっちゅうここへ世話を焼きに来ていた」
「さあな。そんな男は知らない」
「本当に」
「知らない」
「覚えていないわけじゃなくて、知らない、と」
「そうだ」
「確かですね」
「繰り返させるな」
「それもそうですね」
これ以上同じ質問をすると、淹れたての熱いコーヒーを顔にかけられそうだったのでおれは大きく頷いた。
「でも、ヒヤマさんが男だなんて、おれからは一言も云ってませんからね」
間髪入れず、ふざけるな、とイオリさんが眉を寄せる。こういうところは案外潔い。そう、昔っから。学生時代から。

頭の中が白く埋め尽くされる。
吹雪のような桜。
高校の入学式。
花に見とれていたおれの肩に誰かがぶつかる。
相手はちらっと目を向けてきたが謝罪しなかった。
何故かおれが謝罪する。
下げた頭を上げる隙に名札を見る。
イオリ。
この時は、まだ知らなかった。
どちらがいなくなっても駄目になるくらい落ちてゆくこと、まだ何も知らなかった、青い二人だ。


ル ミ ノ ー ル の 桜


「なあ、おい」
ネクタイを引かれて前方によろめく。
「こんな方法で確かめに来るなよ……ヒヤマ」
イオリの顔がすぐ前にあった。
「こんな方法って、どんな方法」
どちらからどういう力が加わったからなのかもう分からないが、イオリはソファに倒れ込み、おれは何とか背凭れに片腕を付くにとどまった。
プラスチックのコーヒーカップは床に転がり暗示的な染みを作っていく。
おれが殺された日の犯人の足跡。
会話。
その後に出入りする無数の足跡。
浮かんでは青く発光し、残像が消える。
「なあ、ヒヤマ。これは、嫌がらせか」
イオリは落としたコーヒーカップのことなど気にしないようだった。おれを見据えている。
「嫌がらせ。まさか。違うよ」
「じゃあどうしてこんな方法で確かめに来るんだ」
「確かめるって、何を」
仰向けのイオリは間違いなく若い。その青白い頬に血が通っているようには見えないし、今すぐ朝日が部屋に射し込んでくることもないだろうから確認の手段はまだとうぶん手に入れられないということだ。
「云わせるな」、イオリの顔が引き攣る。
一見無表情、しかしこれほど感情豊かな男を知らない。無表情であることは無感情であることには必ずしも繋がらない。イオリと出会ってそれを学んだ。
「云ってくれないと分からないだろう」、 冷たく突き放すおれの目を、イオリは恨めしそうに見上げてきた。その仕草がどれだけ自分自身の意図するところとはかけ離れた効果をもたらすことになるか、イオリは知らない。そういうところは鈍感だ。
「おれがおまえのことをちゃんと忘れているかどうかを、だ」、云いづらそうにしつつも正確に答えるイオリの声はか細く震えている。
この時おれは自分が宿っている若い体のあからさまな反応を感じ取る。奥が熱い。この熱さで手を伸ばしたらどうなるんだろう。おれはイオリをどうしてしまうんだろう。
「……何とか云えよ、ヒヤマ」
イオリがそれを望んでいるようにも見えるし、あるいは、この肉体の持ち主である学生の、今は潜在した滾りの中に覆われた本心に因るものがおれをしてイオリをそのように見せているだけだとも考えられる。判断はつきかねた。
「イオリ。こいつは、おれを殺したんだぞ。おれを殺しておきながら何食わぬ顔をしてあんたの研究室の学生ぶって今でも平気で出入りしてる。自分の遂行した犯罪について、警察同様、あんたも何も知らないと思ってる」
淡々と教えながら、抵抗を知らない手首を頭上で束ねる。室内に暖房が入っていないらしく、肌が冷たい。
おれじゃなく、こいつこそ、死人のようだ。
「何が不満だ。復讐でもしていて欲しかったか」
体勢的に完全な不利な状態であることを自覚しつつ挑発的に尋ねてくるのだから策士だ。そういう相手に限っておれが強く出ないということも知り尽くした上での手だ。
「例えば、同じように頸を絞めるとかして」
「いや、そういうことを云っているんじゃない。純粋に疑問なだけだ」
「純粋な疑問なんてこの世には存在しないと思うけど」
「だから、そういうことを云っているんじゃない」
話ベタだな、とイオリは笑う。
本当に殺してやろうか、この、童顔三十路男が。
「だって、いずれにしてもあんたは遠くへ行くつもりだっただろう」
「は。何を云ってるんだ」
「しらばっくれるな、ヒヤマ。おまえは高校時代からそうだったぞ。誰より社交的でありながら、誰にも心を開かない。あんたを好きな人間は山ほどいたが、あんたを嫌いな人間はほとんどいなかった。これが正常であるわけがない。人間ってのは他人から嫌われてやっと人間らしい人間なんだよ」
「それは、イオリの理論か」
「理論なんてたいそうなものではなくて、見解だよ」
「理論と見解の間にどれほどの差異があるのかは分からないが」
「分からなくても問題は無い。どっちにしてもあんたは」、そこでイオリは一呼吸置いて、「あんたは、おれを置いて行った」。
自分の鼓膜がとても薄いのが分かる。
その声を振動としてとらえられたから。
イオリの瞳は子供みたいに大きくて。
でも子供みたいに物分かりは良くない。
「憑くんなら別のやつにしろ。少なくともこいつだけは除外すべきだ」、両手が不自由なイオリは比較的自由な方の膝でおれの腿を強く蹴った。
「それじゃ面白味が無い。蹴るなよ」
「面白味なんて求めている場合か。自分を殺した男の体を借りて、その手で恋人に触って、よく自尊心が平気でいられるな。こっちは混同しそうになってるってのに。しかもそいつはおれのことが好きなんだぞ」
「だから、蹴るなって」
「痛いのか。それは不便だな、幽霊のくせに」
「くせに、って何だ。おまえな、祟るぞ。まあ、痛くはないけど、この学生が目覚めた時不審に思うだろ。変な痣とかあったら」
「寝惚けてベッドから落ちたんだろうとでも思うさ。どうにでも解釈する。それに、おれがこの体を蹴っているのは元を辿ればおまえが原因なんだからな。だいたいな、おまえはそういうずるい人間なんだ、高校時代だって、大学に入ってからだって、」
おれの、いや、正確には、この学生の胸が締め付けられるように縮まる。イオリの目に涙が浮かんでくるのを見たからだ。
涙を拭おうとする手を余計きつく戒めておき、もう片方の手では、そむけようとする顔を掴んで固定する。
「何、するんだ、離せ」
「嫌だ。このまま見ている」
「気持ち悪いな」
「いや、おれは気持ち良い。泣いているイオリは素直でかわいい」
かわいい、と繰り返すと、イオリの目が、すっ、と細くなる。
「死ね。……と、云いたいくらいだ」
「……とっくに死んでて、ごめん」
おれは微笑んでイオリの肩に顔を埋めた。少しずつ意識が遠のいていく。だが完全に消滅するでもなく、夜を這う月明かりのように薄っすらと漂う状態。

桜の下で初めて出会った日のことを、昨日のように思い出す。そればかりか、明日またその日は訪れるような気がする。窓の外で地上に落ちてはすぐ消える雪が同じ重さの何かを地上から空へ昇らせる。夜毎行われていることだが、一人につき一度しか体験することはできない。水に溶解する塩の結晶みたいにおれはイオリから夜に溶ける。数え切れない数は数値でなくなり、世界の濃度はきっとずっと変わらない。

「雪が降ってる」
唐突にイオリが目を逸らす。
跨っていたおれは毒気を抜かれた気分で背後を振り返った。
カーテンの無い窓からは黒い空しか見えない。
「どうして分かった」
おれの動作でイオリが身を捩る。
「だって、見える」
おれはイオリが見ているものがおれだと知った。
ルミノールの桜。
その花のように粉雪が辺りを埋め尽くし記憶の軌跡を無に戻しても、おれの指は行き場を求めて彷徨っている。
真夜中。
いつか経験した過去のような、これから経験する未来のような、あやふやで定義を持たない感覚。
満開の桜の木。
高校の入学式。
花に見とれていたおれの肩に誰かがぶつかる。
相手はちらっと目を向けてきたが謝罪しなかった。
何故かおれが謝罪する。
下げた頭を上げる隙に名札を見る。
イオリ。
もう一度。
なあ、おれはおまえに殺されたかった。


100106
伊織と檜山。