頭の中で手足の無い生き物が蠢き、身を捩る。じれったそうな様子からそれはもともと手足を持っていた生き物だったということが分かる。最初から手足を持たないものはこんなかたちに体をひねることはないだろう。それは、視力が正常だった人間が失明後の世界に絶望するのと似ている。最初から持たない者は絶望などしない。彼らは知らないからだ。無知は幸福だ。知らないということには覚悟が要らない。知らないで居続けることは尊い。この世界で、知ることは、容易い。知る手段に事欠かないこの世の中で、だからこそ、知らずにいることのほうが真に幸福だった。





透 名




 白い画面上でカーソルが点滅するのを眺めていると、雨が降り出した。いつもの夕立にしては激しい。下校途中の生徒が騒ぎ出す声が聞こえ、いくつかの足音が窓の外を過ぎ去った。夏の天気は分からない。覗き込むように首を伸ばして遠くの空を見やると淡い水色をしていた。どうやらこの地域の上空にだけ、局地的に雨雲が集まっているらしい。
(今夜はごろ寝だな)。
 おれはベランダに干してきた布団のことを思う。今朝、雨の気配はまったくなかった。
 その時資料室のドアが開いて一人の生徒が入ってきた。降雨と同時に薄暗くなった室内に気づいて、入口横のスイッチを押す。
「落ちますよ」
 生徒はおれの前を横切ると窓辺に立って空を見上げた。当然のようにノックも無く、当然のように断りも無く、当然のように資料を載せた机に座って足を組んだ。
「視力が」
「……スギサト、お前なあ」
「それにしても、すごい雨。もしかして溜まってた洗濯物、干してきました?」
 おれが黙って目を細めるとスギサトは、やっぱり、と笑った。
「センセイが変わったことすると雨が降るんだ」
 云われるがあえて返事をしないのは図星だったせいもある。
「まだ帰らないのか?」
「この雨の中?」
 間髪入れず切り返してスギサトは面白がるようにおれを見下ろした。
「そうだ、一つ訊いて良いですか」
「唐突だな。ああ、いいぜ。但しプライベート以外でな」
 おれの皮肉にスギサトは真顔で頷いた。
「センセイはどうして白衣を着てるんですか。国語教師なのに。あ、これはプライベートなことでしたか?」
 やばいな、と思う。
 締め切りは三日後に迫っている。原稿は一文字も書き出せていない。それに今夜は寝る布団がない。明日、明後日と休みだとは云え、寝不足の頭では冴えた文章を書ける気がしなかった。
 こんな時に限ってスギサトは挑発してくる。
 彼の瞬きの緩やかさには眠気を覚えているのではないかと思うくらいだ。だがそういう時、スギサトはほとんど眠気とは逆の状態にある。
 愉しんで、やがる。
 支える人間の重量が増えた分、椅子の骨格が鳴った。
「……カーテン」
 高校時代、身長のほとんど伸びなかったおれとは違い、スギサトの身体は日に日に成長しているように見えた。おれが自分の母校であるこの学校に赴任してきたのは今から一年ほど前だが、その頃スギサトの背丈はおれと同じか、むしろ低かったくらいなんだ。それが今では目線の高さが逆転してしまった。
 カーテン、閉めろよ。
 そう要求したおれに向かってスギサトは今日見せた中で一番本物らしい笑顔を見せる。
「せっかちだなあ、シーたんは」
「シーたん、だと」
「みんな云ってるよ。シーたん、生徒と年近いしさ。童顔だし。センセイって気がしないんだよね」
 スギサトの台詞から完全に敬語が取り外される。
 片足で椅子の上に膝をつき、もう片方でおれが逃げるのを妨げている。
 二人の真上にある蛍光灯がスギサトの顔を影にし、おれは自分の見ているものが何かに映し出された像であり実物ではないに違いないと疑うようになる。
 スギサトはおれが考え事をしていることに気づいて表情を曇らせた。
「あいつじゃないんだ」
 怒ったような声が被さってくる。唇、と身構えたがそうではなかった。スギサトはおれの肩に顎を乗せ、続けて体重をかけてきた。ローラーが転がり、後退を始めた椅子は備品が入っている引き出し棚に当たって止まった。
「スギサト。おーい、スギサト」
 背を軽く叩いてやるとようやくスギサトが顔を上げた。怒りの表情が恨めしげな視線に変わっている。
「おれは、あいつじゃない」
 云ったら殴られるだろうか。でも、似てるんだよ。それは明かして良いことだろうか。いや、明かすべきじゃないことくらいおれにだって分かる。だけど、これこそがおれがスギサトに持ちうる唯一の手札だった。
 お前に残ったあの人の面影は、お前がおれに向き合うたび、おれに錯覚させるよ。
 ただ、そのせいでお前はおれのほうから後生の別れを切り出されることも無いだろう。
「シーたん……」
 スギサトはもう一度おれの肩に顔を埋めて懇願するように呼んだ。
 おれは思い出す。
 まだ小さなスギサトを背負って畦道を歩いていた。水田に青空と入道雲が映って、空のただ中を歩いている気分だった。そう云ったらスギサトは喜んだ。
(そういやあの頃はまだかわいかったな、こいつも)。
 畦道をどこへ向かっていたのだろう。おれは小学生だった。夏休みに入ったばかりの小学生。うちに遊びに来たスギサトを、送り返す途中だったのだろう。
 スギサトの家は当時のおれの足で十五分ほどの距離にあった。背中に誰かをおぶっているのならもう少しかかる。途中の神社で休憩する必要があるからだ。
 シーたん、シーたん。
 耳の後ろから小さな声がした。二人とも汗ばんでいた。ティーシャツの背中は濡れていた。べたついて気持ち悪いだろうにスギサトはおれの背中から下りようとしなかった。右手側の雑木林からはじゃわじゃわと蝉の声がしている。スギサトのおれを呼ぶ声は澄んで聞こえた。
「なに」。
「ひとやすみ、しよう」。
 スギサトの指が神社の入口を示す。
「やだ」。
 おれはそちらを見もせず歩を進めた。
 背中でスギサトが身を捩るのが分かった。
 おれはそれも無視する。
「だめ、シーたん、やすむの」。
 しまいには愚図り出す。
 スギサトが足を振るから、肩から提げた水筒が腰骨に当たって邪魔だった。おれは顔を上げた。麦わら帽子の下から前方を見ると、スギサトの家の塀はもう見えていた。畦道をまっすぐ進むだけだから、ずっと見えてはいたのだけど。屋根瓦の一枚一枚が鱗のように見て取れるようになってきたところだと云うのに、いや、だからか、スギサトが帰り着くことを拒むように愚図り出す。おれは唇を噛み締めた。
「おれがやすまないって云ったら、やすまないんだっ」。
 背中で捩る動きがおさまったと思うと、ぐず、と鼻をすする音がした。畜生。舌打ちだってしたくなった。
 びいえええ。びいえええ。
 帽子に蝉でもとまったのかと思うくらいけたたましいそれは鼓膜を叩いた。
 スギサトが泣き出したのだ。
「うるさいうるさいっ」。
 おれは歩みを止めると体を揺すったり跳ねたりしてスギサトを泣き止ませようとする。うまくいかない。スギサトはしゃくり上げながらまだ神社に立ち寄ることを主張している。どこまでも強情な奴だ。そしておれは折れた。

 本当に、これが、あの、スギサトか?
 もう背負うことはできないだろう。こうして抱き止めることはできても。
 それにしてもおれは途方に暮れている。椅子は引き出し棚の位置で停止している。おれの上に跨るようにしてスギサトは肩に顔を伏せている。泣き声がしない分、不気味だった。
「おい、スギサト。機嫌直せよ」
「……は、……じゃない」
「うん?」
 切れ上がった二重が、おれを睨みつける。生徒の間ではこの目つきが権力の象徴にされているようだったが、こいつの幼少期を知っているおれには効き目が無い。ほとんど変わってないのだ、あの頃から。
「おれは、あいつじゃないっ」
 おれはハイハイと頷いてスギサトの後頭部を撫でてやった。
「シーたん、分かってねえだろ。ハイハイって適当に返事してりゃ、その内おれが諦めて引き下がるとでも思ってんだろ」
「いや、お前がそれほど聞き分けのいい子じゃないことは一番分かってる立場だけどね」
「だったらもっと真面目におれに構えよっ」
 一呼吸。
「……おい。何で泣いてる」
「泣いてねえよっ」
「……そうか、スギサトの汗は目からも出るんだな」
 からかうとスギサトは肩で罵声をくぐもらせた。
「杉村。杉村悟」
 出席を取るときの調子でおれは呼びかける。
「いるんなら返事しろよ」
 スギサトはおれの白衣に顔を埋めたまま「死ね、シーたん死ね」と返してきた。
「うん。いつかね」
 おれは腕に力を込める。
 顔の前でもぞついている頭に鼻を埋めると微かに汗のにおいがした。スギサトの全身から力が抜けていくのが分かった。触れて欲しがっていることは分かった。だけどおれはそれ以上何もしない。できない。
「スギサトは嫉妬深いな」
「シーたんの愛がダダ漏れ過ぎんだよ」
「そうか。それは気づかなかった」
 悪かった。
 謝るとスギサトはもう何も云わなかった。
「雨、やんだな」
 庇から雫がぽたぽたと落ちている。
 おれは、あの日、神社の境内から眺めていた景色を思い出した。
 そうだ、あの時、雨が、降ったんだ。
 濡れなくて良かったね。やっと泣き止んだスギサトは自慢そうに云った。ぼくのおかげだろ。そう云いたげに。
 おれは、ああ、と頷きながらも心のどこかで残念がってた。濡れていたら、もっと良かった。長い一本道を、弟を背負って、家まで送り届けてくれたおれのことを、あの人はどれだけ褒めてくれただろう。

 憧憬はいつも夏の景色。
 蝉の抜け殻がいくつも境内に転がっていた。汗で張り付いたティーシャツをぱたぱた仰ぐ。腹側から入った空気が前髪を軽く吹き上げた。

 スギサトは意地になってんだ。
 おれがあの人しか見てこなかったから。
 
 十六才だった。
 制服を着たことの無いあの人はいつも寝ていた。
 布団が敷かれただけの和室。
 何度訪れても起き上がった形跡は見当たらなかった。
 瞼は落ち窪んでいた。
 唇は薄くて乾いていた。
 それなのに頬には艶があった。
 声を聞いたことはなかった。
 だけど微かに表情が変化する。
 おれはそれを見つけるのが嬉しかった。
 遊ぶよりも何よりもあの人を見つめていたかった。
 家の人間はあの人を何と呼んでいただろう。
 いや、あそこでもやはり、あの人はあの人だった。
 名前を呼ばれているのを聞いたことがない。
 名前とは本人に呼びかける時に聞くものなのだ。
 あの人は会話にのぼることこそあれ、混ざることはなかった。
 だからおれはあの人の名前を今になっても知らない。
 あの人の十七才の誕生日が迫っていた。
 あの人は一度だけ目を開けた。
 傍らに座っていたおれを見て云った。
 シーたん。
 弟が、いつも、そう、呼んでいるね。
 おれはかたまったまま「はい」と掠れた声で答えただけだった。
 毎日祈りを捧げていた絵の中の人物が、動いたところを見たような気持ちだった。
 あの人と会話したのはそれが最初で最後だった。
 年を取らなくても、人は死ぬことがあるのだ。
 おれはあの人の息絶える瞬間に立ち会って、それを実感した。

「スギサト」。
 帰り支度を始めた彼に声を掛ける。返事をしても振り返らないのは、赤い目元を見られたくないからか。
「おれは、不純だよ」
 スギサトが手の動きを止めたのが分かった。
「時間、かかるよ」
 保存する物が何も無いパソコンの電源を落としたおれは、白衣を脱ぎ捨てると鞄を手に取った。
「で結局、だめかも分かんないよ」
 それでも、なのか。
 問うと、静かに頷いた。
「じゃ、一緒に、帰るか」
 その言葉にスギサトが振り返った。
「え、何。素早い反応」
 指摘されたスギサトはたちまち顔を険しくしたかと思うと、おれを置いてさっさと出て行ってしまった。
「どっちなんだよ、あいつ……」 
 部屋を出て行く時、おれは後ろを振り返った。
 窓の外が桃色に染まっている。明け方より美しく日が暮れる。そんな日も、あるだろう。

 医者に、なりたかった。
 成績は届いていた。それでも文系の道を歩むことにしたのは、スギサトは生きているからだ。家中が病弱な兄ばかりに構う中、なまじ殊勝な性質を持ち合わせていた弟は、駄々もこねず甘えもしなかった。ただ一人、いとこのおれを除いては。スギサトは本をよく読んだ。杉村家にある子供向けの本はすぐに尽きた。スギサトはおれに物語をねだった。おれは内心面倒くさいと思いながらも、あの人の弟だから、と適当に紡ぎ出した。スギサトはおれが適当に作った世界観に耳を傾けた。期待に満ちた目で「この先はどうなるの」と続きをねだられれば夜通しででも考えてこないわけにはいかなかった。
 今、思えば、おれの方向性を決定づけたのはあの人じゃなくてスギサトのほうだったんじゃないだろうか、あの頃から。
 不純だ。
 不埒だ。
 ふしだらだ。
 おれは椅子に掛けっぱなしの白衣に目をやる。もはや意味の無い執着。自分の生きる理由を他人の存在に押し付けようとした成れの果て。
 窓の外で空は色を変えていて、おれはゆっくりと踵を返した。
 人間の思い込みはつくづく恐ろしいもんだ。
 だけど今の段階でそう告げても、スギサトは信じはしないだろうな。
 雨上がりの校庭で、蝉がじゃわじゃわ鳴いている。一体どれくらいの蝉がいるんだろう。
 膨大な暗号に忍び込まされた数文字を解読するように、その時おれはふいに、あの人の名前を思い出した。
「   」。
 唇を離れたその名前が澄み切った空に、躊躇することなくのぼっていく。
 もう二度と口にはしないその名前。
 短く、清く、儚いその名前。
 もう。
 二度と。
 とぼとぼと歩き出してしばらく後、顔を上げる。
「シーたん。遅い」
 そこには不貞腐れた表情のスギサトが、おれが追いつくのを待っていた。


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