花が咲いた枝は雪の重みに耐えられず、しなった。
 廊下に佇み手元の液晶画面を眺めていた長身の男は、雪が落ちる気配に顔を上げ、広がる銀色に群青色の瞳を細める。







ヴ ァ ン ・ ジ ウ






 病室へ戻ると見舞いの患者はベッドの上で体を起こしていた。
「寝ていないと駄目だろう」。
「つかれた」。
「疲れたって、寝ていることがか」。
「おまえには分からないよ」。
 長身の男は視線で相手を押し倒せることができると信じるかのように力をこめて睨むが、患者はなかなか手強い。微笑を浮かべながら頑なに突っぱね、ついには自分の主張のほうを通してしまうのだった。
 そうなることをどこかで分かっていた男は腹を立てることもせずベッド脇の椅子に腰をかける。長いコートの裾が冷たい床に垂れた。
「サクラ」。
「うん?」。
「咲いていた」。
「ああ、眺めていたのか」。
「あれは冬には咲かないはずだろう」。
「その情報はもう古いよ」。
 患者の苦笑を受けても男の表情は変わらない。それでも黒い瞳には何らかの感情が映ってしまうのか、拗ねるな、と諭すように言われる。
「後で更新してやるよ」。
「自分でできる」。
 アップデートは慣れている。患者は長い時期で一週間ほど目を覚まさない。冬眠に入ったのかと思ったぞ。目覚めた彼を気遣ってそう言えば、冗談を学んだのかと茶化される。
「廊下で何かあったか、ヴァン・ジウ?」。
 ジウ。そう呼ばれた男が顔を上げる。
 ひっそり物思いに耽っていたのを、長年連れ添った相棒には見抜かれたのだ。
「ヴァン・リーの死亡記事を読んだ」。
 雪が、またどこかで落ちた。しなった枝の折れる音する。花は埋もれただろうか。次から次へと降ってくる、花びらより白い結晶の群れに覆われて。
「知り合いか」。
「知らない」。ジウが首を横に振ると、銀色の髪が揺れた。
 好きだ、と患者が手を伸ばす。それだけでは届かないのでジウは椅子を寄せた。自分のより小さな手が無造作に髪をかきまぜるのを黙って受け入れる。おれは慰められているのだろうか。ジウは考える。
 知らないって、云ってるのに。
「おまえ、殺してやろうか」。
 頭上から降ってきた言葉はジウに対しあたたかな蜜のように甘い。雪に垂れて黄金色に輝く。細い窪みは深度を増し、花もたどり着けない底辺へ行き着くだろう。
「意味が無い」。
 ジウは首を小さく振った。
「おまえなら、そう云うと思った」。
「あなたは私を殺せるのか」。
「いま、断ったくせに」。
「質問するだけだ。嫌なら答えなくて良い」。
「すごく嫌だ」。
「分かった。答えなくて良い」。
 患者の手に額を押し返されてジウは体勢を立て直した。ぼさぼさの髪をそのままにじっと見つめていると、患者は咳を我慢する。腕を伸ばしてさすった背中は骨の形がよく分かり、そしてあたたかだった。
「あなたからのばした手は私に届かないが、私がのばせばあなたに届く」。
「何が、云い、たい」。
「私にもあなたを殺せるということだ、サクラ」。
 無理だ、とさえ云わずサクラは笑う。ジウが自分を殺さないことなど一笑に付すまでも無く明らかだった。だから。冗談だと受け止めた確証を伝えるきっかけさえ見失い、黙って、頷きもしなかった。
 相棒の細い首を掴んでいた手を下ろし、ジウは立ち上がる。部屋に備え付けのキッチンでインスタントスープに湯を注ぐとサクラの元へ持ち帰った。
「後ろから見ると死神みたいだな」。
 減らず口をたたくサクラをジウは無視する。黒いコートはサクラから贈られたものだ。おまえの髪が映えると云って。ジウの一張羅だ。
 元の椅子に腰を下ろすとスープが冷めるまでしばらく自分でマグカップを持った。
「ヴァン・リーは、ラボラトリーのサンプルだ」。
「ああ、あの組織。まだあったのか」。
「おれたちのような生き物がいる限り、無くなりはしないさ。変化はしても」。
 生き物。
 ジウには自らをそう分類することにいささかの抵抗があった。生き物を定義するには、寿命の問題が不可欠だったからだ。今、自分の頭には従来の人類が受け継いできた知識や情報がおさまっている。与えられる情報には限りがあるが、組み合わせの自由は残されている。サクラと話をしていない間、ジウは街を散歩しながら、さまざまな組み合わせを考えてはそこに何か真新しいものを見出そうとした。
 サクラには嘘を吐いたが、ヴァン・リーの姿を、一度だけ見かけたことがある。見かけたどころか、触れたことさえあるのだ。群青の瞳と銀の体毛はヴァンに特有の配色だったが、リーほど理想的なヴァンはなかなか生で見られたものではなかった。
 ヴァン、正式個体名称はSILVANというが、ジウもリーも先の世界大戦の遺産だ。
 わずか数十年前まで人類は人体改造に否定的だった。表面上、というだけではあるが。兵器を進化させできるだけ多くの人間を殺すことにかけて尽力を惜しまなかった彼らが、タブーとされていた人体そのものの兵器化についに踏み切ったのは、ある小さな勘違いがきっかけだった。人体を不死化する永久細胞の移植は、発見者本人にさえ気づかれることなく行われた。亜熱帯の原住民と接触した一人の医師が、そこで蔓延していた不治の病の特効薬を開発した。自国で特効薬を完成させた医師は、それを健康な人間に投与すれば滋養強壮の効果もあることに気づいた。医師はそれをまず戦線へ送った。当時、領土を取り合っていた二つの大国が戦争中だった。薬は急速に普及した。多量摂取した人間の細胞の一部が永久に再生を続けることが発見された。ある国の首相が独立の研究機関を創設した。生物から取り出した細胞から新たな個体を作り出す。SILVANの誕生は創設から二年と六か月目の冬の朝だった。人であって人でないもの。戦時中の軍部が開発したSILVANは最前線に送られ、終戦を速めた。犠牲者の数も抑えることができた。平和は再確認された。核兵器を保有した国家が自衛能力を主張することで世界の均衡が保たれ始めた時期と似た様相を示していた。
(分からないのは、不死の返上方法)。
 受け継がれて消えていく、主人の影。
 サクラもジウを残していくだろう。大戦は数十年前のことのようでもあるし、数世紀前のことのようでもある。たしかなことはジウは遺されるということだ。
 その昔、世界のある地方には吸血鬼なんて虚構の種族が物語に頻出したらしい。SILVANもそれに倣って名づけられたものであり、実際それと同様の生き物として理解されている地域がいまだ残存することを否めない。むしろ正しく把握している場合の方がはるかに少ない。それは今となっては軍部の秘匿事実であるし、一部の研究者が違法な人体実験を施すために秘密裏に売買を行う程度の認識しか浸透していない。戦後に産まれた人間は歴史を刷新する。
 事実よりも辻褄が求められた。
 一つの国家が、われわれの世界が、一人の個人の考えのように時として不道徳と呼ばれるようなことを実行するだなんて生者は誰も知りたくはないのだ。
「サクラ」。
 ジウが顔を上げるとサクラが見つめていた。
「見つけることだ、ジウ。おまえのことを、止めてくれる相手を」。
「何にもならない」。
 舌を火傷させない程度に冷めたスープをサクラに手渡した。
 何にもならなかったことなんか何もなかったさ。
 受け取るなりサクラは口に含んで、三度目にジウに口移す。
「その昔、不老不死は人類の憧れだったんだぞ」。
「ふざけるな」。
「冗談を云ってるんじゃないんだ。本当に。当時で云えば、ぼくはまだまだ青二才って呼ばれてるような年齢だぜ」。
「信じられんな」。
「でもそうだったんだよ。このスープ、苦くないか」。
「舌がいかれてるんだ」。
「・・・ジウ。そんなことばかり云ってると、殺してやらないからな」。
 半分より少なくなったマグカップをサイドテーブルに置いてサクラは次のごちそうを引き寄せるみたいにジウの首に手をかけた。バランスを崩したジウはサクラの脚の上に上半身を倒す。
「いい。おれはサクラ以外を探し出せる」。
 咄嗟の返し言葉で云ったものの、ジウにまだ自信は無い。
 分かっているのかいないのか、サクラは平気で「分かった」と頷く。
 ジウにはそれが我慢ならない。
 しかし、我慢ならない自分を曝け出すことはそれ以上に我慢ならないことだった。
「同じ名前なんだぞ。ジウがいつも見惚れている花とぼくとは」。
「ふん。信用できない」。
「できないのは、やり方を知らないだけだ。それだけだ。アップデートしといてやるよ」。
「構うな。自分でできる」。
 サクラの膝の上でジウはうたかたの眠りに落ちる。一歩手前で、分かっていた。
 次に目覚める頃に花は散っているだろう。白銀が降りしきり、もう見つけられなくするだろう。
 一歩分の手前で、それは絶対に分かっていた。
 けれどジウは抗えない。
 髪をなでてくるサクラの手つきの不器用な内に眠りに落ちてしまうことを、それが次の目覚めと同時に絶望の記憶にすり替わる感触となりうるだろうことを際引いても、眠りに落ちてしまうことを。
 もしやこれは永遠かもしれないと、信じ続けることだけを。ただ、ただ。
 これは、死なない者の消えていく祈り。
 これから百年かけて再生を繰り返すだろう、幻影の原型、その光景だ。



fin.