覚えている。
 離れで一夜を過ごした幼い日を。
 夕飯の席で箸の使い方が可笑しいと叱責されたことから母と諍いを起こした僕は、亡父の書斎で眠ると聞かなかった。思ってみれば、それを認めさせたいたがめに僕は必要以上に母に歯向かったかもしれない。口論のきっかけなど振り返ってみれば大抵ははっきり思い出せないほど些細なものである。あるいは、思い出せてしまって、却って呆れる。
 母は、不思議なひとだった。
 息子である僕に対してまるで幾人もの人間を相手にするように態度が変わった。たとえば台所に立つ彼女を手伝おうと包丁を握れば、こちらが「おや」と怪訝に思うほど唐突に、用事を思い出したとかで僕にその場を任せてしまうのだった。まるで僕が人を刺したことがあるみたいではないか? またある時彼女は恋人のように僕を慕った。(恋人がどういうふうであるか僕はいまだよく分からないのであるが)。友と遊んで顔や手の甲など見える場所に掠り傷でも作って帰った時には、暁生さん暁生さん大丈夫ですか痛くありませんか死んでしまいそうに痛くはありませんか、などとまるで此方がちっちゃな子どもみたいに扱うのは(実に不本意ながら)常であったし、救急箱を取りに戻るのももどかしいみたいにあろうことかそのまま舌で舐めてしまうのだ。これには僕もいよいよ危ないなと感じるようになり、そういうことはしないでくれたまえと一度きっぱり云い放ってしまった。存外強い口調で。すると彼女は少女みたいに「あら」と目を瞠ったがおそらくそれは僕の言葉を冗談か何かだと思っているかららしく、そうではないのだということを態度で示し続けねばならず、そうまでしてようやく彼女は僕を過剰な庇護の必要な幼子としてではなく一人の人間として扱うようになってくれた、と思う。
 父の回忌で親族が集まれば彼女は、まあ僕の母であるが、しばしば後ろ指を指されているのだった。僕は自分の実母がそのような扱いを受けていることに憤慨も憐憫も感じなかったが彼等が云おうとしていることを何とか聞き取ろうと努めた。まともに訊ねてみたことさえあったがそうすると彼等は一様に強張った愛想笑いを浮かべるものだから僕の満たされない好奇心はますます募るようになった。
 三回忌で彼等の交わす共通語は擦れるような音であるということ、七回忌で「キ」、「キ」、と囁かれているのだが理由が判明しなかったこと、そして十三回忌を迎える頃になってようやく僕は母親が親戚一同からなんと噂されているかを理解したのであった。
 その頃には母に代わり施主を務めていたくらいだから彼等の云うことはかつて僕が焦がれるほど聞きたがった共通語の囁きほど秘密めいた魅惑を有してはいなかったし、正体が分かってしまえば何だそのくらいのことなら僕にだって憚る必要は無かったのにと皮肉の一つも云ってやりたい心持ちになっていたほどだ。
 だから、父方の従兄にあたる立花が僕に話しかけてきた時は云ってやったのだ。
「つまらんな。憚るくらいだからもっとすごい秘密を隠しているのかと思ったぜ」。
  僕と同じ学生服を着ていても立花の佇まいは背広姿の大人の間に並んでまるで遜色なかった。溌剌とした様子や発育の良い体格が同級の女子に人気を誇っていることを僕が知らぬわけはなかったし、従兄弟の関係が知られた時には、これはもう酷かった。たまたま血の繋がっているだけで交友の無い男にどうして僕が手紙やら、事あるごとに得体の知れぬ品などを運送する仲介人にならねばならぬのか。ことごとく突っぱねてきたがそうする度に、立花は善、暁生は悪との実に明快単純な図式が学内に普及してしまったらしく、あろうことか一部では僕が立花を盗られたくないがために全力で仲介役を断り続けているとの噂さえ立ってしまった。
  まだ碌に目も合わせないうちから周囲がそういう状況になってしまったものだから、十三回忌の法事を終えた後に立花が僕を見つけて傍寄ってきた時には本気で「こいつ阿呆だな」と思ったものだ。もしかしなくとも僕は僕を置き去りにする周囲に辟易していた。
「暁生は、面白いことを云うなあ」。
  しかし僕の返答を聞くなり立花はあろうことか笑い声を上げたのだ。法事は終わっていたとはいえ思いがけずまったく場違いなものが聞こえ、よりによってその場に施主の姿があったことでまたしても僕は悪になるであろう。まあ、いいか。悪で一貫していたほうが何かと僕自身やりやすいだろう。
「おい、静かにしろよ」。
「お前が悪いんだぜ。可笑しなことを云われて吹き出すことは止められないさ」。
 こいつも僕を悪にする。
「吹き出すどころじゃなかったけどな」。
  僕は会話を切り上げるつもりで歩き出したが立花はしつこく追ってくる。彼の歩幅は僕より広いため、こちらが些か速足になってしまうのだが、次第に諦めて歩みを止めたのは縁側で、見上げると木蓮が花開いていた。
  だから、だろうか。
「離れが、あったんだ」。
  視線を庭の一角に向けて僕は語り出した。母親に叱られ、一晩を過ごした日のこと。書斎には大量の本が壁を成していたがその間をくぐっていけば開けた場所があり、そこに机と、そしてどういうわけか一台のピアノが置かれてあったのだった。しかもそれは天井に取り付けた窓から斜めにさす月光を受けて曲線の一部は青白く発光しているかに見えた。
「夕也さんは、弾いたのかい」。
  当時目の当たりにした幻想的な光景を思い浮かべていた僕は、立花が口にした人名が自分の父親の名前だったと咄嗟に思い出せず愕然とした。
「君は父のことを、夕也さん、なんて呼ぶのか」。
「つい癖でね」。
 どういう癖なのかは訊かず、先の質問に答えてしまうことにした。
「弾かない。……いや、僕が聴いたことないだけか」。
  母は音楽を嫌いだ。
 ラジオから歌謡曲が流れてくるのさえ我慢できないらしく、僕が聴いていると駆け寄って来て再生を止めてしまう。馬鹿になる、こんなものばかり聴くと馬鹿になるから他のにしなさい、と云って。結局他のをかけたところで反応は同じだから僕は彼女の気配が感じられる時には絶対に音楽をかけなかった絶対に。
「うちの親父は弾くよ」。
「伯父さん?」。
「そんで、時々するんだ」。
「演奏を?」。
「いや、そん時の話を」。
「いつのさ」。
  いつしか僕は立花に質問する側になっていた。さよなら、と立ち去れなかったのは僕が同級の女子とおそらく同様、立花に見惚れてしまっていたからだろう。誓って云うが僕に同性愛の気は無い。少なくとも見上げた立花に対して。かと云ってそれを否定するわけではない。確かなことはただ、立花の横顔が形状として整っていることに感心したからであって、それは僕の持たない、おそらくこれからも持ち得ない性質の美貌だった。
「初体験の時のさ」。
  僕は硬直した。
  そんな親がいるのか。それとも男親と息子とはそういうことも語るのだろうか。
  早くに病で父を亡くした僕だけが何も知らないというだけで。
「その時にね、釦を一個、失ったそうだよ」。
  僕の混乱をよそに立花は話し続ける。
「釦?」。
「そう。だから俺の学生服の釦は一個だけ新しいのだ」。
  よくよく顔を近づけると確かに立花の首元にある一つだけは他と色合いが違った。それだけは校章の彫りがくっきりとしており、輝き方も心持ち明るい様子だ。
「気づかなかった?」。
 からかうような声の調子で僕は彼から体を離した。僕は視力がよくないのだ。
「知らないよ。僕は君に対して女達のような興味があるわけでは無いから」。
「じゃあ、お前なりの興味はあるわけだ」。
  呆れて二の句が継げない僕は立花を睨んだがその顔で微笑まれるとこれは確かに何かが起こるぞ、という気がしてこないでもなかったのだ。
  責任を余所へ転嫁するのならば、きっと開きかけた木蓮が放つ香りの所為だろう。
  離れの取り壊しは僕が小学校へ上がる頃だった。代わりに植えられた樹は、全開しない花を毎年つける木蓮だった。僕の記憶の中で夜空に輝く昴星みたいに青く燦然と輝く一台のピアノは、その時に処分されてしまった。遠ざかるピアノを見送る僕の手には、あの日に見つけたものが握りしめられていた。
  今、立花の横顔を見上げて僕の鼓動は高まる。
「君の制服、伯父さんのおさがりだったんだな。体格が同じというわけか」。
  ほとんど着ていなかったそうで綺麗な状態だったんだ、と立花が云う。
  僕は和室で談話する親族の気配を感じながら、その囁きすべてを「キ」に聞き違えながら、伯父さんの姿を思う。精悍な雰囲気は立花が確かに引き継いだ要素であり、僕に不足した要素でもある。
  親違いの僕の父と、立花の父。
  同時期に二人の男から愛された女性、僕らの祖母の面影は薄い。それだって、見返す機会のほとんど訪れない写真の中で見たきりだ。絶世の美女というわけではなかった。そう感じるのは僕の世代と昔とでは美の基準が変容しているからだろうか、それとも僕の審美眼に問題があるのか。あるいは見目以外で男を惹きつける、抜群の要素を祖母は備えていたのだろうか。
「俺は暁生を見ていると、死んだばあちゃんを思い出すよ」。
  今それを云うか。
  僕は立花には僕の心理を読み解く術のようなものが備わっているんじゃないかとすら疑う。
「僕は覚えていないな」。
「まったく?」。
「ああ」。
「写真で見たことは?」。
「……無い」。
  嘘を、吐いた。
  すると立花は「そっか」と妙に納得したようにさして晴れてもいない空を仰いで、「血が繋がってるって、こういうことなんだなあ」と頷いている。
「太平洋戦争中、ピアノは軍事に利用された楽器なんだ」。
「唐突だな」。
「戦闘機を聞き分けるための音感教育に使われたり、戦場では兵士を鼓舞する役割を果たしたり。もしかすると、ここにあったというピアノも一度は戦場に行ったものかもな」。
  話の意図が見えず相槌も打たない僕を立花はふいに見下ろした。
「そう考えたほうが、夢があるだろう」。
「夢? 戦争に行くことがかい?」。
「いやいや、そうじゃなくて。そうだったかもしれない、と考えるその考え方自体にだよ」。
「そうかな」。
「そうだ」。
  立花の両手が僕の肩をがっちりと掴んでいた。圧迫の痛みから逃れようと僕は身じろいで抵抗を示すが立花は鈍感なのかわざとなのか、自分が満足するまでは解放してくれないようだった。
「いいか、暁生。お前は秘密を知りたがった。だから俺は云おう」。
「はあ?」。
「俺の親父は学生時代、当時好きだった相手と初体験を済ませる時に、制服の釦をどこかで落とした。手がかりは、その場所にピアノがあったということくらいだ」。
  初耳だ。
  そしてそれを息子に云うのか、伯父さん。
「相手の名前まではさすがに聞いてない。だけど、それで俺は制服屋へ行って一個だけ買い求めなきゃならなかったんだ。俺の親父が釦を失くした所為で。……時に、暁生」。
「何だ」。
「お前、さっきから、弄っているものは何だ?」。
  僕は詐欺の露呈した悪人のように狼狽えた。
  ポケットの中で指先が冷たくなる。
  実際、相手の目にどう映ったか知れない。奇妙なことを云い出されて咄嗟に隠し切れない、いや、隠す必要のない戸惑いか、あるいは、図星か。僕の視線は間違いなく立花の顔面をあやふやに彷徨い、最後には困惑したように逸れてしまったのだ。
「何故いけない。何故、俺たちの親が果たせなかった道へ俺たちが進んじゃいけない?」。
  眩暈がする。
「あー、えー、ちょ、待て。待て待て待て、待ってくれ」。
  僕は持てる力を振り絞って立花の両手を肩から落とさせると急上昇した熱を確かめるように額に掌をあてて頭の中を整理した。
 やがて一つの結論に達し、おそらく立花が思い描いたのもそのことだろうと察知する。
 今僕が指先で転がす釦だって、立派な物証となりうるのだろう。
「どうしてそういう考え方をするんだ、君は?」。
 夢があるからじゃないか。
 まったく恥ずかしげもなく立花は繰り返し、またしても僕は二の句を継ぐのを忘れる。強引ささえ忘れさせるほど素早く掠める感触が、向けられた悪意、いや、悪意に違いないと僕が感じ取っていた周囲の状況すべて反転させ、世界は確かにまるでまったくの別物に生まれ変わったのだった。
 まるで善人みたいに親族の輪の中で真昼間から酒を煽る伯父の姿も、木蓮の下で佇む母の正気も、ずっと見ていたと打ち明けてくる立花のいやに真剣なまなざしも、それをまともに受け止めるにはまだ少し時間がかかりそうで反り返って尻餅をついた僕も周囲の笑い声もどれもみな善悪で分けるにはもうちょっと複雑でたくさんの性質を持ち、僕はそれらの妥当な仕分けにふさわしい条件を何一つ持たない、ただの中学生だった。



偲 ぶ 木 蓮 香 る 庭



 亡きピアノを偲んで、今年もまた新しい木蓮が香る。