「ちょっと、イチノセ。ちょっと待って」
脱走が成功したという高揚だけでもうどれだけ走ってきただろう。ミズシロの息切れした声に俺はようやく自分の体も疲れているのだと気付いた。ふと見上げると青白い半月が東の空に見えている。




く そ っ た れ の 楽 園 に 唾 を




「・・・ね、イチノセ。ここでいったん落ち着いて考えてみようよ」
「・・・何を」
「結局、どこまで逃げられるんだろ」
「さあ」
「休めばヤツらに追い付かれる。はっきしゆってもう無理だよ。逃げ続けることなんて」
「寝ずに走れば話は別だけど?」

力無く笑った。だって、どれだけ走ったかなんて所詮問題じゃない。膜の中をもがいているだけ。そのうち呼吸すら困難になるだろう。弱り切った体は籠の中に連れ戻されて、より頑丈な鍵をかけられる。どこかにあると信じる楽園にかけた一瞬の夢が、夢でしかなかったことを思い知らされるだけ。真夏の夜の蒸し暑い空気が、月光に照らし出されたミズシロの顔や腕をぼんやり浮かび上がらせている。手を伸ばそうとして、やめた。もう何か、意味がわからない。どうして俺たち逃げてんの。どうして俺たち疲れてんの。どうしてここはこんなに静かなの。で、どうしておまえは、こんな時にも笑ってんの。

「認めようよ。僕たち今、絶体絶命、じゃない?」

ミズシロはそう云うと、いつものように「にへらん」と笑った。にへらん。にへらん。正真正銘のお気楽ちゃんだな、こいつ。ミズシロはにへらんにへらんしながら、ほどけかけていた左顔面の包帯をゆっくりほどいていった。大きな火傷の跡(理由をミズシロは絶対に教えてくれない)を隠すため、一匹のモルフォ蝶が精巧に彫られている。ギリギリで生活しながら、その刺青をいれるための貯金もしてきたのだという。ミズシロが笑うと蝶は微妙に形を変えた。それは不気味なくらいリアルで、模様の上をミズシロの涙が流れているところを想像して俺はひとりでゾクゾクした。触れれば光の粉すら指先に付きそうで。俺は、それがミズシロの一番弱い部分だと思っている。誰にも云えないような、シリアスな秘密を秘める、脆く感じやすい部分。いつもは包帯の下にあって、夜眠る時でないと晒すことはない。だからその蝶を見せつけられた時、俺はたぶんひどく興奮した。というか、包帯をほどく仕草に。たぶん。

「なに見てんの」
「ミズシロ、神さまっていると思う?」
「はあ?」
「か、み、さ、ま」
「いねえよばかじゃねえの」
「つれないねえ」
「走りすぎていかれたんじゃねえの」
「・・・だといいんだけどね」

どうして今になって神さまの存在なんか気になったのか。俺よりもずっと、ミズシロの方が分かっていた。分かってしまっていた。つまり、楽園なんてないんだということ。求めているものは、夢のなかにしか存在しえなかったということ。俺の返事に本気で呆れた顔が少し俯く。ふと厭な予感がしてミズシロを睨んだ。一度しか触れたことのない髪が、蜜のように光っている。何も解らないまま、手を伸ばしていた。ミズシロはいつものようにはね除けなかった。今日だけは、そうしなかった。そのことが一層、厭な予感を現実へ近づけた。その時ミズシロが、云った。まるで突き放すみたいな「サヨナラ」を。それだって、ミズシロの優しさだった。歪だけど、俺は解っていた。癖とか、仕草に込められてるひとつひとつの意味とか。そしてミズシロも、解っていた。俺ならその意味を知ってるってことに。気の付かないふりをするに俺たちは互いのことを知りすぎてた。説明なんて要らないくらい。短い言葉とか声の感じとか、さまよってる指、瞬きの回数。解ってる。わかってるんだよこん畜生。

「イチノセ。おまえは、ここからひとりで行けよ。後は僕が足止めするから」

(なあ。すべては平等に無価値だったじゃないか。どうして今さら愛を叫ぶんだよ)

「・・・冗談じゃないぜ。そんなことされたら、生き延びたって気が狂うだけだぜ」

ミズシロは相変わらず笑っているだけ。俺は一度だってこいつの真剣な顔を見たことがない。そのことが今になって無性に腹が立った。「何笑ってんだよ、いっつもいっつも、へらへらへらへらしやがって」。「別に」。俺は、暴れ出したくなる衝動を必死に抑えて、うつむき加減のミズシロを睨めつけている。綺麗に象られた蝶の羽根の下で、その綺麗な隠蔽の下で、ミズシロは今、本当は何を思ってるんだろう。ああ、解り合ってるなんて嘘だ。俺はミズシロの、何も解っちゃいない。笑顔しか見せてこなかったミズシロの、何も。解ろうとも、してこなかった。
世界はとうに壊れた。ある日唐突に。
瓦礫の下でようやく繋いだ手を、もう放したくないのに。出口のない感情は一箇所で澱み、突破口を求めるうちに皮膚を突き破って溢れるだろう。ノーマルでないこの感情だって、我慢さえすればきっと崇高なまま保てたんだ。ミズシロ。もしも違う形で出会っていたら、俺たちははきっと、もっとマシな別の結末を、

(とはいえ傷つきながら爛れていくだけのこいつを今ここであやめられるのは俺しかいない)

半端な慈悲なんて御免だ。生きるとは、優しげな嘘を踏みにじってくだけだ。強い人間を演じながらも結局は傷つくことしかできないヤツを、できるだけシンプルに忘れるために。間違っても、愛したりしないように。不器用な俺たちはわざと粗暴に踏みにじっていくだけ。リピート。生きるとは、その絶え間ないリピート。くだらない。他愛もない。だから神さまにファックを。底辺で誰かが虐げられてるような秩序にはピアスだらけの赤い舌を。プライドだけだ。残りは犬にくれてやれ。神さまにファックを。中指を立てて笑って。くそったれの楽園に唾を。生きてってやる。ミズシロの短い生涯で唯一の善行が無駄になんないように、俺は。行き着くその先が、二人の求めた楽園ではなくても。

040710