かざした手は若葉みたいに青い脈を幾つも持ってる。新しい水を吸い上げられる君のまっすぐな姿に憧れていた。温かい頬、唇をうつろう影、瞬きするたび震えていた睫毛の先も。君は僕と違う生き物なのだと教えられる。
光と影、白と黒、生と死、日常的に見せつけられるコントラストは僕らの曖昧を鳴らしながら過ぎ去る。良いものと悪いもの、美しいものと醜いもの、輝くものと輝かないもの。どんな時間も痩せた指のあいだから零れて、疲れた掌を溢れて、また地面に染みて何かを、誰かを潤しにいく。誰かにとっての誰かを血の通うにんげんにするために。
それは僕らの思い出のために。




世 界 の は じ ま り




君の顔に手で触れて「おはよう」とゆってみる。君は疲れた顔を向けた。本気で終わらせようと思っているのなら今すぐそうすれば良い。終わらせることなんか簡単だ。方法はいくらだってある。でもまだしない。確かめたいことがあって、それを確かめたい理由までもを確かめたい。大人じゃない。まだ赦される。この小さな白い生き物には神さまの手だってとどかない。こわがらないで。どうして両耳を塞いで涙を零すの。瞼を縫い閉じて世界を絶つの。だからこわいんじゃないの。そうしているのは君の手だ。
「じゃあキス」
生きてるのは。呼吸を止めないのは。笑うためじゃない。幸せになるためじゃない。何かを確かめるためじゃない。そんなんじゃない。さいしょから意味なんかなくて適当な解釈はそれなりに適当にうつろうから。最後には目の前に残ったほうを信じるしかないんだ。繋いだ手にまだ僅かに見えている、君の握り締めた最後の光を。
ゆっくりと、君から、唇が離れる。眸がこんなにも近い。
「どう、」
「冷たい。鉄みたいだった」



目を開ければ光なんかなくて。信じていた光なんかなくて灰色の地面がどこまでも、有刺鉄線の向こう側までどこまでも続いていた。あれは世界の終わり。空との境目は霞んで見つけられない。(空はいつまであった?)。あれは毒だろうか、砂だろうか、塵だろうか、それともただ僕の目が汚れているの?懐かしい妄想、それは拙い筆先が描いた世界の終わり。「ハロー、ハロー、誰かいますか」。繋がらない回線。辿っていくと千切れてた。受話器に向かって今まで何を喋ってた?やがて一つずつ忘れていく。大事だと思っていたもの。時にはそれがすべてだとさえ信じていたもの。何もかも壊れた時に、確かなものなど数えるほどしかなかったのだとやっと気が付く。覚えようとしたこと、覚えさせられたこと、必死になって忘れていく。生きていくために。意味なんかない、インプットされた命令のようなもの。従うために。だけどそのことが、悪いことだとゆえるの?間違いだと、ゆえるの?



「AI-376。ねえ、きづいてる?」
思い出したふうに君が云う。首から下げられた銀色のナンバープレート。顔に近づけて、自分のナンバーを確認する。瞬きをして君を見た。うん、上手くできた。「何に?」。肌の色が違う。髪の色も違う、眸の色も違う。普通に暮らしていれば出会うことなんてなかった。にんげんとロボット。操作主体と作用体の関係。触れることも赦されなかった。君なんか知らなくても僕は生きていた。そうして今まで生きてきたのに、どうして君を知ってしまってからは君を喪うことにこんなにも怯えているんだろう。今までできていた当たり前のことができなくなる。分からなくなる。ずっとロボットでいられたのなら良かった。陽の当たらない地下の工場、無数に複製された冷たい回路で、与えられた仕事を処理するだけの。君なんか知らずに。君の微熱なんか、声なんか、その寂しい綺麗な眸の色なんか、何も知らずに。
これが愛だとゆうのなら、にんげんは哀しい。
「はじめから何もなかった」
信じていたすべてのことが、辻褄を合わせるための仮説だった。にんげんは積み上げた。寸分の測定ミスも出ないように慎重に。それがある日、傲慢に変わった。それから歯車は狂いだした。
「こわい?」
僕が口にすると卑怯になってしまうせりふだ。だって君は、にんげんだから。だけど、それだから僕は口にした。僕には君の震えをとめてあげられないから。責められるくらいなら僕にだってできると思った。だけど僕は分かっていた。君はそんなことしない。僕はいつも計れるリスクしか犯さなかった。
「こわいかって?どうして?」
君はまだ僕の問いかけに対する答えを考えている。そんなつもりで訊いたんじゃないのに。いつだってそうだ。どんな冗談にも真剣に答えようとする。その視線はいつも遠いところを眺めていたね。何でも良い、自分の手で大切にできるものが欲しかったんだろう?その手で誰かを、救ってみたかったんだろう?
君は確かにそれを望んだ。
僕は従い役を演じた。
君は血の通う肉の塊。
僕は電子で作動する鉄の塊。
だけどそれで良かった。
バランスが保てているのなら。
欠けていた部分を埋め合っただけのこと。
誰も傷ついていない。
何もおかしくはない。
カスタマイズした世界の終わり。
ちっぽけで巨大な我が儘を満足させるための子どもの遊び。
「はじめから何もなかっただなんて、誰にきいたの。君はその目で確かめたの」
だけど通じないものがまだ足元に散ってる。
器用なふりをしようとして気取った指から零れたんだ。
抱き締めた時の体温は疑えないということ。
本当に触れ合えば独りの時の冷たさは忘れないということ。
こうして見つめ合ってたって、分からない。
それは、訴えなきゃ、分からないんだよ。
「おかしい。君はにんげんじゃないか。僕が教えないといけないなんて、本当におかしなことだよ。ねえ、こういう時はどういうふうに触ったら良い?どうやったら君が安心できる?教えてよ。何もないことが怖いことだなんて、今この瞬間に泣かないほうがいいだなんて、いつから信じてるの。誰が決めたの。君を、こんなに、不自由にして、」



ひとつずつで良いんだ。意味を与えていこう。名前をつけていこう。そしていつか君を、君だけの名前で呼んでみたい。はじめに何も与えられていなくても。さいごに何も残らなくても。僕が呼んだように、君が息づいていけば良い。そういうふうに世界が、かたちづくられていけば良い。それがぼくの望んだこと。ぼくが犯した領域への言い訳。カスタマイズした世界の終わり。AI-376、君に触れられる時ぼくは震えていた?君はロボットなんだって、にんげんじゃないんだって、ぼくが一番分かっているくせにね。緊張は伝わらない。君は体温なんて灯さない。それなのにね。どうしてこんなにも落ち着くんだろう。安心できるんだろう。おかしなことだよ。君のゆう通り、本当に、おかしなこと。ぼくは小さい頃から機械ばかりいじって、少し頭がおかしいんだ。そう、これはおかしなことだよ、君に答えを求めるなんて。君に教えられるだなんて。



「AI-376。君さ、ぼくを泣かせたいの。そんなことゆっちゃって」
「結論からゆえば」
汚れた硝子の光みたいだ。大小さまざまのまだらが横切る。散らばった不安を忘れたふりして君が、となりの僕を見上げて笑った。
「へえ、ゆうね。君をつくったのは、ぼくだよ?」
破片を集めよう、ここが世界のはじまり。まだ何も間違いでなく、何も正しくはない地点。触って、口にして、息をしていこう。そういうふうに、続いていく。終わらせた手でもう一度何かを紡ぐ。誰も予想しなかった結末の後で、もう一度何かと、君は僕と、はじめたら良いよ。分別をわきまえない子どもの手で、何度でも。



040918