夜の黒に蝋燭があけた橙の穴。中から声がする。ちいさく笑っている。やさしく声をかけている。何かをひきずる音がする。それから、何もしなくなる。窺っていると白い手が見える。白すぎる手、たぶん生きているひとの物じゃあ無い。




北 へ




「風が冷たいな」
柊が咽だけで笑う。髪がなびいている。分からない。このひとはどういうことを笑っているのか。
最初に外れた留め金が落ちて、支えきれなくなった別の部分も落ちて、かろうじて繋がっている部分も錆び付いてしまって。すべてがいつ音を立てて千切れるか分からない。そう遠くない気がする。
柊は人間じゃない。
この森に古くから住む最後の神様だ。昼間は白い狐になっている。夜になると人間の姿になって、ぼくと話をしてくれる。でももうそれだって、近い内に成り立たなくなるのだ。柊はこの目に明らかに朽ちてきている。彼らの所為だ。柊から大切なものを奪った。
「北から流れ込む海流が、冷たい風を運んでくる」
ぼくは昔祖母に教わった通りを柊に教えた。その祖母ももういない。ぼくがこの森に置き去りにされる時、祖母は全力で抵抗してくれた。誰だって怖い。この森に入ることはそのまま死を意味する。ここは人間の領域じゃない。神様の森だ。それなのに木は切り倒される。土は痩せる。異常に雨が多くなる。森は減っていく。霊たちも住処を失って消えていくしかない。生け贄だった。ぼくは子どもで。
「北には何がある」
柊が訊ねる。
「神様の国。知らないの、柊、神様のくせに」
ぼくは答える。
北にはまだ残されているらしい。綺麗な空気とやわらかな豊かな土壌、若葉が新しく芽生えるのに十分な。
「そうか。知らなかった。紅太は、物知りだな」
柊を喜ばせたかった。だけどそれもうまくいかない。いつもこうだ。
ぼくじゃあのひとのかわりにはなれないのだ。
「綺麗だね、この手が、あいしてくれたの」
どこへ行くにも柊が離そうとしない体から垂れている。薄い皮と骨だけになった生き物、たぶんそれは手で、ぼくは繋ぐ。前はこの体にも赤い血が流れていて、柔らかな肉が骨を巻いていて、触れればくすぐったがって、話しかければ頷いて微笑み返してくれたのに違いないのだ。
「綺麗なひとだね」
彼らが奪った。
それはつまり、ぼくらのことだ。
「ごめんなさい」
「何を謝る?」
「奪ってしまったものについて」
「お前のしたことじゃない」
柊はそう云うと亡骸を抱え直した。頬だろうか。唇を寄せて少し傾げる。紫、と呼びかける。返事なんかないのに。
「雨が降るかも知れないな」
ぼくは明日の天気を気に掛けるふりをして目を逸らす。
「ねえ、柊」
ぼくにその深さを理解できるはずがない。本当に大切なものを見つけたこともないくせに。分かったふうには云えない。いえない。
「柊、ひいらぎ、」
こんなに近くて遠いものがあるなんて知らなかった。声が届かないだけで不安になるなんて知らなかった。生け贄だったぼくを柊は殺さなかった。ぼくは刃を向けられたなら躊躇わず柊に協力するつもりでいる。鋭く尖った歯が首筋に食い込んで、この肉を引きずり出して、それで柊が満足するのなら。おとなたちは云った。あの優しい祖母でさえ云った。森の狐は凶暴だ。野蛮で、冷たい眸をしている。あの森は病んでいる。
「柊、どうして殺してしまうの。殺したら、それがつづくだけだよ。繰り返すほど、おわらないんだよ。柊の手が傷つくだけだ、哀しみが、増すだけだ、」
柊は哀しそうだった。分かっていたからだ。きっともう自分ではどうしようもないのだ。
「紅太は、紫と同じことを云う」
彼らは知らない。
取れてしまいそうな骨を何とか繋ごうとする手つきの繊細さを、日毎に翳っていくあの色の哀しさを。追いやられていく。頑なに首を横に振るのに。届かない。伝わらない。叶わない。
「柊、だめだよ。もう、だめなんだ」
夜が明ける。朝陽が射し込む。柊はゆっくり獣に戻る。言葉が解らない生き物に。ぼくを忘れてしまう。太陽が東に現れる頃、里へ下ってまた人を、殺してしまう。


紫は泣かなかった。そう云った柊の目が泣いていた。ある夜、柊は打ち明けてくれた。紫の最期。寒い日。安らかでなかった結末を。この耳から注がれる事実に頭が追い付かなくて、ぼくは朦朧とする。紫はその時起こった激しい痛みを何で紛らわしたと云うのだろう。人間は楽しそうに歌っていた。すぐには終わらせなかった。柊は紫を助けてやることができなかった。叫ぶこともできなかった。それなのに全部を見ていた。汚れていく紫の体を、人間の衝動が何であるかを。理不尽な仕打ちに紫はどうやって耐えたのだろう。答えは明らかだ。何かを守りたかった紫の祈りの強さだ。「紫は泣かなかった」。柊は呪いなんか口にしない。ぼくなら耐えられない。紫のことをぼくはあまりよく知らない。会ったことがない。柊と会った時、紫はもう今の姿だった。けれどもぼくは知っている。座敷の奥にはもう何年も伏せられたままの額縁があって、そこにいる紫と柊は長いこと褪せない。不思議な力を宿した生き物の命のように、息絶えることがない。紫の声をぼくは知らない。だけど柊が紫のことを語る時、ぼくは同時に紫の響きを聞く。紫のもたらした奇跡が、いつも柊を救っていた。途切れそうな灯火を、繋いでいた。だけどそれも、長くは続かなかった。


何度繰り返したなら、本当におわるんだろう。


「紅太、すまない」
ある日柊が明け方に帰ってきた。太陽は昇らない。獣の姿だ。意識が最初に覚醒する。言葉は通じるらしい。背には矢のような棒が何本も突き刺さっている。
「ひいらぎ、どうしたの、なにがあったの、」
柊はもう目を開けられない。壁を手探りながら座敷まで行き、紫を探そうとする。ぼくはおろおろしながらその後をついて行った。柊の姿がだんだんと人間に近付く。柊の引きずる着物の裾が、柊の流した血をひきずって伸ばす。
「撃たれたの、」
「だいじょうぶなの、」
「歩いてはだめだ、」
声をかけたかった。できなかった。柊の全身から溢れ出す、紫への執着がぼくの存在を酷く小さなものにしていた。柊は座敷の奥まで辿り着くと、すっかり骸になってしまった紫を見つけた。どこかへ連れていくのかと思ったら柊はその場に座り込み、紫を抱き締めて、何か呟きだした。ぼくは耳を澄ます。


あなただから。望むのが、あなただから、だから、もう、ころさないんだ。


その時、乱暴に戸を叩く音がする。銃を構えた人間が座敷の中に入ってくる。畳の上を、柊の血の上を、たくさんの足が踏みにじっていく。柊はたちまち囲まれた。一斉に銃口が向けられる。誰かがぼくを抱きかかえた。座敷の外へ連れ出そうとする。奇跡だ、と声が聞こえた。生きている、と。
「いやだ、はなせ、柊に何する!」
めちゃくちゃに足掻いても無駄だった。
ぼくは無力だ。
ぼくはちっぽけだ。
だって、
ぼくは、
人間なのだ。
視界を手で塞がれる。最後に柊はぼくを見ていた。その顔は、今まで見たことがないくらいに優しかった。微笑んでいた。どこか安らいでいた。「さよなら、ありがとう」。柊の唇がそう云った。視界が塞がれる。もう何も見えない。誰かが引き金を引いた。続いて次々と銃声が鳴る。
「だめだ、いやだ、撃つな、柊は、わるくない!」
やめてくれ。
「柊は、」
やめてくれ。
そんなに撃たなくても柊は、死んでしまうんだから。

人間はまた何かを殺した。最後の神様はいなくなった。この森に、神様はいない。北へ行こう。ふと思った。ひとりで行こう。誰にも云わない。北へ。北へ。北へ。こっそり持ってきたんだ。座敷の奥の額縁を。着物の中に隠してある。

「あんたは、運が良い。よく生きていたね」
嗄れた声がする。知らない女の背中に凭れて、ぼくは眠っている。
夕焼け。誰かの体内に似ている。温かい。涙が零れそうになる。どうしてぼくは、
「ぼくは、生きてる?」
「ああ、生きてるよ」
「そう・・・良かった」
揺られながら森を下って行く。北へ行こう。ひとりで行こう。ぼくは。誰にも云わない。ひとりで行こう。ひとりで北へ。

040920