タロの置いた煙草の煙が消えたら、どっちかが何か喋らないといけないかな。




三 食 の は じ め に




理由もなく触れ合えるのは一種の特権で、もし今日が最後なら、明日からは、触るにもいちいち理由が必要なんだな、と思った。面倒だな、と思った。 まるで縁日で通り過ぎた屋台。まるで手を離した風船。まるで引っ越し当日に発覚した初恋。 幸福はいつも既に届かないところにある。それとも、届かないからそれが幸福であるかのように見えるんだろうか。どっちが正しいのか解らない。右の左は左の右、みたいな。埒のあかない言葉あそび。人生あそび。
昨夜の喧嘩を思い出す。タロの「ごめん」で終わった喧嘩。
ごめん。
か。
悪くないのに。
これを云ったら傷つくだろうな、あれを云ったら哀しむだろうな、という計算自体がそもそも自意識過剰なんだ。人の心はそう簡単に左右されない。少なくとも、ぼくのは。
だから、タロは、悪くないのに。
「良い?ヒミ」
「・・・う、うん」
必要ないのに、許可なんか。
「じゃあ、遠慮なく」
タロの手のひらがテーブル越しにぼくの頬を包んだけど、それはもう昨日までのタロの手のひらじゃない。あるいは、そう感じるぼくが。
「救える、と思っていた。救わなきゃ、と思っていた」
タロのもう片方の手のひらがやはりテーブル越しにぼくのもう片方の頬を包んだけど、両方とも、もうすぐ、ぼくのものじゃなくなるんだ。だって、昨日、酷いこと云った。要らない、と云った。棄てる、と云った。他人より他人、と云った。云ってしまった。試すようなこと、わざと云った。
灰皿の横にある、コップの中で、氷が溶けていくのを、ぼんやり見ていた。
せめて頬が火照らないように。気持ち悟られないように。氷を見たからって体温を下げられるわけじゃないけど、せめてもの。抵抗。
「でも、過去は消せないんだよな。人に人は救えないんだよな。昨日、ヒミに云われるまで気づかなかった。ずっと自惚れていて、ごめん。ヒミの嫌な過去消せるとか思って、それができるのは俺だとか云い張って、ごめん」
ゆっくり目を上げると、知らない顔がそこにある。知ってる。でも知らない。
だいすきな朝食を前にしているのに、ふたりはこんなにも不幸せで最悪。
黙っていたら、何かが起こる。
例えば、地震。とか。落雷。とか。タロが行ってしまう。とか。
「・・・って、何で泣くの」
何で泣くか、って?
だって、やっと、とけたんだ。
目の奥が、心が、からまっていた糸が、その厄介な結び目が。
地震も落雷も小さい頃から大嫌い。その項目に「タロが行ってしまう」が並んだんだ。もう、疑いようがない。このまま沈黙を続けられない。
「タロ。天使のポジション狙わなくて良いよ。お前さ、もう、生きたぬいぐるみでも良いよ」
予感が薄くなっていく。
哀しい朝は経験したくないな。世間から汚名を着せられても逃げ続けていたいな。哀しいことから。苦しいことから。生きてるだけで充分だってことはないと思うけど、たまには、やまない呼吸を褒めてよ。やまない鼓動を褒めてよ。笑える何かを探し求めること、這いつくばって光に手を伸ばすその姿勢、褒めて、えらいね、と褒めてよ。
人一人が死なないでいる状態は奇跡なんだ。
「だから、だから、もっと一緒にいても良いよ。タロ」
煙草の煙はついに消えた。
でもタロは消えない。
明日も消えない。昨日も消えない。謎は消えない。理不尽は消えない。絶望も消えない。だけど、いつでも終えられるなら今じゃなくても良い。もっと世界がどす黒く見えた時でもきっと遅くない。ぎりぎりまで、行けるとこまで、行ってみよう。もしかするとそこには絶望以外の何かがあるかも知れないから。
例えば、光。とか。快楽。とか。楽園から吹くような風。とか。
「それとも、よそへ行くか?ぼくじゃなく、別の誰かの、いとしいひと、になるか?」
「・・・ヒミ、俺、先に謝っとく。ごめん!」
「え?」
「・・・後でちゃんと掃除するから。ごめんね。汚すね」
「え?え?」
椅子から立ったタロがテーブルに膝をのせて行儀悪くぼくを抱き締めたから、今朝の朝食は台無しになった。
「た、タロ!ちょっとテーブル回れば済むだろ!」
「激情の証明」
「何云ってんの」
「とにかく、毎年九月八日は、ヒミが正直になったよ記念日。に、しよう。お祝い、しよう」
タロの足は牛乳の入ったコップを倒した。氷も零れた。吸い殻の積もった灰皿を落とした。粉が散った。ああ、ああ。
「ぼくはずっと正直だ」
タロの引力に抗えないぼくはテーブルに手をつくつもりでシーザードレッシングの容器を床に落とした。ぶちまけた。無印のフォークを落とした。たぶん階下に響いた。ああ、ああ。
「へえ、ずっと正直だって?この、嘘吐き」
「うん。嘘吐き」
「おお、認めるじゃない」
「正直の証明」
「狡い」
「お前の行為とどっちが」
何かもう童話の国のカーニバルみたくめちゃくちゃな朝のこと、天使をやめて人になったタロは、ぼくの手のひらに落ちてきた。
「悪事の共犯者になろう」
三食のはじめに。
耳も傷も声も全部あげるから、舌も嘘も癖も全部ちょうだい。
今ここに生きているから、とてもお腹が空いたんだ。とってもとっても、お腹が空いた。

060908