自分に双子の兄がいることを知ったのは三年前の春でした。
当時僕は齢九で、また大変貧しい家の生まれでしたので、色町の存在ばかりでなく、この世の中に、人形小屋と呼ばれる、少年ばかりを集めた遊郭があることなど知る由もありませんでした。
貧しいながらも両親は何とか金銭をやりくりして僕を地元の学校へ通わせてくれていましたが、今思えばその資金も遊郭に勤める兄の仕送りによるところが多かったのでありましょう。そうとも知らない僕はある日学校で、些細なきっかけから殴り合いの喧嘩をやらかし、同級生の腕の骨を折ってしまったのであります。彼の親はその日の内に僕の家を訪ね、この怪我にはこれだけの治療費が掛かるからという話をし、両親はその金額を必ず払うという誓約書に印を押しました。結局その件は僕が当然の罰を受け、また両親が先方の家に幾度となく謝罪を繰り返すことによって落着しましたが、僕の気に掛かったのは、あれだけの治療費をいかにして両親が期日内に払い得たのかという点においてのみでした。
その事件をきっかけに両親は僕に双子の兄のいること、彼が「百華(はっか)」という人形小屋で奉公しているという情報を遂にもたらしたのでありました。
それから三年の間、僕は、両親にも学校にも内緒で他人の家の小間使いのような仕事をして金銭を貯め、十二の誕生日の今日、晴れて故郷の地を発ち、兄の此処にいると聞く色町へ到着したのでありました。



銀 の 糸



色町では何もかもが僕のこれまで見知っている世界の物とはまったく違って見えます。あでやかな着物を身に纏った男女が、池を泳ぐ鯉のように優雅に通りを歩き、店先には人形のような客引きが僕のうぶを見抜いては、手ほどきを示唆して笑います。
「どうだい、うちで客引きの仕事をしてみないかい。あんた、格好は田舎臭いが磨けば光りそうだ」
赤鼻の男が僕の肩に手を掛けてきました。その仕草のまったく強引であり、なおかつ自然であること。初めての町で右も左も判別できない僕は初対面の男につい身の上を打ち明けてしまいました。
「僕は兄を探しに此処へ来たのです。僕たちは双子なのですが今まで離れて暮らしていたのです」
そう云いながら僕は胸元から小さな鏡を取りだして自分の顔を映しました。
「泣ける話じゃないか。それならますますうちに寄って行かないか。何だか放っておけないんでね。何しろうちの店にはお前と同じくらいの背格好の子どもがごろごろいるもんだから、有力な手がかりを与えてやれるかも知れない」
赤鼻の文句がまた実に親しげであったので僕は誘われるままに赤い布の下をくぐろうとしました。
その時です。
店の奥から女性達の、悲鳴とも歓声ともつかない声が上がりました。僕の手を引いていた赤鼻が何事かに気づいたように舌打ちをし「暫く此処で待ってくれ」と座敷を上がって行きますので、僕は仕方なく赤い布をくぐってすぐの場所で佇んでおりました。出入りする客が僕の方を物珍しそうにじろじろ見て行きますので、きっとこの着物がいけないのだろう、と大変に惨めな気持ちで赤鼻を待っておりますと、ようやく座敷の向こうに彼の姿が見えました。
赤鼻は必死に何事かを弁解しているようで、一人の男に縋るように来ます。女達が声を上げているのはおそらくその男の所為であり、僕もまた彼の容貌には、この町へ入って以来最大の驚きを覚えました。
彼は僕より五つほど年上に見受けられましたが、着崩した襟元から見える白雪の胸元が扁平でなければ、きっと気丈な女性に見えたに違いありません。
「茜、話を聞いてくれって」
赤鼻は謙った感じでそう呼びかけます。
背中で結った艶のある黒髪を揺らしながら、彼、茜は赤鼻を振り返ろうとし、その拍子に僕の姿を発見すると、大変驚いた顔をしました。
「おい、こいつはどういうわけだ。春海なら一月ほど前、河合先生の邸宅にお届けしたとばかり思っていたがな。まさか盗んで来たんじゃあるまいな」
疑われた赤鼻は、思いも寄らない、といった感じで声を張り上げました。
「いくら俺でもそんな汚い真似はしないぜ。仮にも色町に店を持つ人間として、そんな掟破りなことは断じて、な」
茜は僕の体をじろじろ見、何事かに気づいたように鼻を鳴らしました。
「ふん、確かにこいつは春海と違うようだ。一見したところ瓜二つだが、このおどおどした感じや気弱そうなところは、春海の態度とは到底思えない。然し何とも気になる顔形だ。これは私が貰い受けよう」
「待て、待て。いくらお前でも人の店の客を横取りするこたあ許されん」
「人の店の客引きを盗んでおいて云えた台詞か。だったら交換だ」
そう云うと茜は、赤鼻の後ろで申し訳なさそうな顔をしている少年に向かって紙切れを一枚押し付け、僕の手を取り店を出ました。杜撰ではありましたが此処に一つの交渉が成立したらしく、赤鼻は二度と、僕と茜を追って来ませんでした。

蝋燭の下で茜が何か書き物をしている間、僕はずっと、壁の絵や金箔の天井、屏風、そして茜の羽織る黒の内掛の蝶や、茜の色白で端正な顔立ちを飽かずに眺めておりました。
「さっきはとんだ悪党に捕まったな」
僕は茜が悪党でないという証拠を持ちませんでしたが、その声音につられて、先ずは助けてもらった礼を述べました。
「さっきはありがとうございました。僕はこういった場所に詳しくありませんので、勧誘と親切を見極めきれないのです」
「どうやらそのようだな」
「あなたのこともまだ信用していません」
それを聞いた茜は筆を置くと豪快に笑いました。
「ハ、ハ、ハ・・・。確かに私も得体の知れない点ではあの赤鼻と同じだな。然しこれだけは云わせてもらおう、私はあの男ほど賤しくはない。あいつはしょっちゅう人の店から客引きを掠め取る。ついこの間もこの店の二人に、自分の店へ来ないかと誘いかけていた。もちろんあいつの噂はある程度此処に住んでいる者なら知っていて当然だから、誰も耳を貸さないがね。然し、ごくごくたまに、奉公に出てきたばかりの初心者なんかは提示額に目が眩んで行ってしまう。あいつが提示通りの額を渡す気なんてさらさらないということなんて知らずに。・・・そういえば二日前にも」
また何か嫌なことを思い出したのか、茜が柳眉を潜めて語り出そうとしますので、僕は慌てて口を挟みました。
「・・・あの、此処は一体どういう場所なのでしょう」
「私の書斎だが?」
「いえ、そうではなく、この店の名は」
「百華だ。そして私が代表の茜だ」
百華、と聞いて実際僕は飛び上がらんばかりに驚きましたが、つとめて平常を装いました。
「・・・あの、茜は何を書いているのですか」
「先ほどの取引の書類だ。正式な文書はいつもいつも持ち歩いているわけじゃないのでね。・・・、お前は本当に春海にそっくりだ。春海には双子の兄弟でもいたのだろうか」
茜は煙管を吹かしながら僕を招き寄せ、顔や姿をまじまじと眺めました。時々、口の中に指を入れてきました。僕は大人しく時間が過ぎるのを待ちました。
「然し、この身なりじゃ客は付かない。屏風の裏から好きな着物を選んで着替えておいで」
「いえ。僕は此処で働くつもりはありません。ただ、兄を探しているのです。おそらく茜の知っている春海という少年が僕の兄ではないかという気がするのですが」
茜が黙っていますので、僕は話を続けます。
「僕は三年前の春まで自分に双子の兄がいることを知らされていませんでした。ある事件をきっかけに両親が兄の存在と、また所在を教えてくれましたので、いつか必ず会いに行こうと思い、十二になる今日までこつこつとお金を貯めてきました。そして今日やっとこの町へ来ることができたのです」
途中まで黙って聞いていた茜が不意にくすくす笑い出しました。僕は自分の何がおかしかったのか解らず、また茜の笑った顔が大層優しく美しかったのですっかり顔を赤くして口を噤む他ありませんでした。
「いや、ごめん、ごめん。おそらく春海は君の探しているという兄だろう。こんなに顔形の似ている人間は双子以外にあるまい。年も今日で十二ということだし、辻褄も合う。然し、それにしても、あまりにも様子が違うのでね。私の知っている春海、君の兄は、君のように丁寧な言葉遣いをしなかったし、そうやって正座もしなかった。最初は私も教育しなければならないと思って忍耐強く頑張ってみたが、客の方が春海の良さを先に知ったようでね、矯正の必要は無くなった。春海はすぐに百華の頂点に君臨したよ。まったく、あれは生来の才能だと思っていたら・・・ク、ク、ク、弟はこんなにもうぶな様子であるのがおかしくてね」
どうやら茜は笑い上戸のようであります。ますます顔を赤くした僕を見上げては、意地悪く何度も吹き出すのであります。
やがて茜は、春海が今は河合という富豪の邸宅へ出張に行っていること、二週間ほどそこに滞在して帰ってくることなどを話し、その間僕にこの店で寝食するよう望んだのであります。
一度は断ろうと思った願い入れでありましたが、所持金に余裕のないこと、また、此処にいれば確実に春海に出会えるという可能性を知り、遂に僕は茜の<審査>を受けることとなりました。
ところでその<審査>というのが思い出しても全身が火照るほど恥ずかしい内容で、僕は、自分にこのような場所が似つかわしくないことを感じ取らずにおれませんでした。とりわけ、鈴が響くまで体を揺らすことを強要された時には、いっそこの場で自害してしまいたい、とまで思いました。その度に、自分の片割れである春海に会いたいと願う気持ちの方はいよいよ膨れ上がり、自害の念など押しつぶされてしまうのでありました。僕は茜の云いなりになりながら、差し出された書類に書かれてある文字をよく読みもせず、自らの名前をそこに署したのでした。

二週間が経過しても春海の戻ってくる気配はありませんでした。茜は僕に訊ねられた時に限り、毎回違う理由ではぐらかしてきましたが、次第に僕の方も春海の帰りをさほど気にしなくなっておりました。というのも僕は百華において春海の再来の如くもてはやされ、客に困らず、今までになく豪奢な生活を手にしていたからであります。生まれの貧しい者でも素質によっては一夜で大金を獲得できる世界に飛び込むというのは、これはもう当人の人格の大変な変化を免れることはできません。僕は毎日違う着物を羽織り、昼も夜も淑女や青年、あるいは同年代の少年少女の相手をしながら日々を過ごしました。そうしていながらも、たまにふと、初めてこの町へ訪れた時の自分のうぶの心身を思っては、もはや二度と戻ることのないであろう故郷の風景に涙を零すのでした。

僕たち双子が遂に再会を果たしたのは、僕が色町を訪れて三年の月日が経過した頃の夜でした。兄の名前は春海ではなく、実際は秋彦と云ったのですが、秋彦は姿を忍んで百華に客として訪れ、そこで僕を見出したのでありました。
二人は初めて自分達が常に半身で生きてきたことを実感し、兄弟同士抱き合うことによってようやく一人前の充実感というものを理解することができました。
秋彦は、自分は河合の家に出張として行ったのではなく買い取られたのであること、今は河合の親切のお陰で故郷の実家に暮らしていること、そこで両親から僕が此処に自分を捜しに出ていることを聞き知ったこと、そして茜は百華の次代頂点を獲得する為、僕に契約内容を詐称して教えていたこと、等をすらすらと喋りました。
「ねえ、夏彦。これはおかしなことだよ。人形の僕に会いに来たお前がどうして今は人形になっているのだい」
秋彦は僕の身の上を哀れんで涙を流してくれましたが、困ったことに僕には彼の同情の有り難みがちっとも理解できないのであります。
「でもねえ、秋彦。僕は此処にいるととても落ち着くんです。自分の本当の故郷は此処であったかのような気持ちにさえなるのです」
「いや、此処はお前のいる場所じゃない。僕たち故郷へ戻ろう。そこで今度こそ父さんと母さんと、僕とお前で暮らしたら良いじゃないか」
それでも僕には故郷の長閑さよりも色町の喧噪の方が好ましく感じられました。然し、秋彦が僕の姿を見上げてさらに涙を流すと、今度は大層悪いことをした気持ちになり、やがては初心を取り戻したのであります。
「ね、秋彦。然し茜は僕を解雇しないと思います。僕は、死ぬか買い取られるまでは此処に住まわないとならない決まりになっているんです。一番最初に署名した書類の内容はそのようでした」
その時、障子の向こうを人が歩く気配がしましたので、僕たちは自然と声を落としました。
どうやら影は部屋の前を往復している様子であります。
「あれは、きっと、茜の影です」
うん、と頷いた秋彦は来る時に身に付けていた狐の面をしっかりと被り直しました。
この町では大人でも動物の面をして歩くことがあります。それは色町が現実世界と切り離された架空の遊戯場のように存在しているからであります。とすると僕や仲間の少年、また茜も架空の人物であるということになります。面を被った人間は色町で充分に欲望を満たし、明け方には現実の寝床へと帰って行くのであります。
「失礼」
来客の時間に茜が部屋へ入って来るというのは今までになかったことです。僕はふと、茜は狐の正体を知っているのではないか、という不安でいっぱいになりました。然し何食わぬ顔をしておりますと、茜は「高橋の先生がお前を買い受けることにしたようだ」と告げてくるではありませんか。高橋と云いましたら色町で知らぬ者はいないほどの大判振る舞いで有名な翁であります。
僕はつい狐の顔色を窺うような仕草をしてしまいましたので、茜に何事かを察知されたに違いありません。
茜は優美な手つきで僕の耳の下をくすぐるように撫で、こう囁きました。
「赦せ、夏彦。作戦が失敗に終わるということを。私がお前にそう教えることを」
その時僕は、またしても哀しい話を知りました。
茜は知っているのです。狐の面を被った秋彦が、いずれ僕を此処から連れ出そうとしていることを、そしてそれが失敗に終わることを。
「私も百華に縛られている。私も、かつて、失敗したのだ」
そう云ったきり茜は部屋を出て行きました。

「秋彦、茜は僕たちの作戦を知っているようでしたね。それにしても、茜も百華に縛られているとはどういうことだろう。此処は茜の店なのに」
茜の足音がすっかり向こうへ行ってしまってからようやく秋彦は面を外しました。鏡の中に何度も憧れた顔が目の前にあるという奇跡に僕は改めて気づき、呆気にとられる秋彦を何度も何度も呼んだのでした。
「何だ、夏彦。いきなり人が変わったように」
「いいえ、僕、今さらのようにじわじわと感動を覚えたのです。僕は、秋彦に会いたかったんだ。本当に、本当に、会いたかったんだ」
まったく何が僕をそのように、急にセンチメンタルな心持ちにさせたのかは解りませんが、僕は突然に九の子どもに戻ったように、ぼろぼろと大粒の涙を零しました。
まるで茜の指先が触れた箇所から悪い毒でも入ったように、です。
「・・・此処は演じる場所だからね。たがが外れたのだろう」
「ええ。でも、秋彦は、こんな所に、もっと長くいました。それでも、僕を他人のように思わず、こうして迎えに来てくれました。嬉しいのです」
秋彦は黙って僕の髪を撫でましたが、その仕草といったら、今まで僕の出会ったどの人の愛撫よりも温かく心地が良いのです。僕はふと、茜の忠告を忘れかけました。
「そういえば、茜の忠告の意味とは何でしょう」
「さあな。然し、高橋の先生は確かにお金持ちではあるけれど、鬼畜で有名だ。そんなところへ夏彦をやるわけにはいかない。早い所この町を抜け出そう。そして故郷へ帰るんだ」
そうと決まってからは僕は早くも百華への執念を断ち切ることができました。まるで此処へ初めて足を踏み入れたのがつい先日のことで、その日から今に至るまで自分はずっと此処を出たくて堪らなかったかのように、翌朝にはもう色鮮やかな着物を脱ぎ捨て、身軽な格好になり、秋彦の指示する通りに巣窟のような百華内部を駆け、いとも容易く玄関まで辿り着いたのでした。
此処まで来れば後は町を抜けて舟に乗るばかり、と思ったのも束の間、僕は誰かに肘を掴まれました。
「おっと、空が白む前から一体どこへお出かけだい。・・・や、こちらは三年前に買われて行った春海じゃないか。むむ、こっちか。ふうむ、さすがに双子というものは似ているな」
それはあの赤鼻でした。狡そうな目で僕と秋彦の顔を交互に見比べ、しかもその握力の強いことといったら、僕はまるで骨を砕かれるように感じました。
「茜さんに云いつけられて油を買いに行くところです。今朝は雲も厚く、部屋は日中でも火が必要でしょうから」
「ほう。買い出しなら、もっと下っ端に命じるもんじゃないかね。お前は百華の金蔓だ。朝っぱらから出掛けている暇などないんだと思っていたがね。それとも何だ、自分達の意思でどこかへ出掛けようってのかい。まったく、そんな身なりじゃないか」
僕は一刻も早くこの場所を去りたかったのですが、赤鼻がなかなか肘を離してくれませんので、また巧い口実も見つけられませんでしたので、秋彦の方をちらりと伺いました。そうしますとその様子がまた意味深に映ったのか、赤鼻が問いただしてきます。
「あんたら、逃げようってんだろう。そうじゃないか。え?」
答えない僕たちを見て赤鼻が笑います。
「今すぐ大声を出して茜を呼んでも良いがね、それじゃ此処で出会った甲斐がない。俺の方こそ今から油を買いに行こうと思っていたところだ。こんな偶然は、思し召しのようにしか考えられないからな。そうだ、お前達にはしばらくうちの店で働いてもらおうじゃないか。なあに、俺は茜と違って汚い手は使わないさ。一週間だ。一週間きりで解放を約束するから。ほんのちょっと、うちの店の利益を上げてからどうぞこの町を出てってくれないかね」
赤鼻はまだ何か喋ろうとしていましたが、ふと首の後ろの違和感に気づいて口を噤みました。彼の首もとを見ますと、その辺りの布がみるみる赤黒く染まっていきます。
秋彦が、隠し持っていた短剣で赤鼻を切り付けたのです。
「うわああああ!」
自分の受けた傷に動揺した赤鼻が取り乱している隙に僕たちは走りだしました。背後から赤鼻の叫び声が追いかけてきます。いや、赤鼻自身が追いかけて来ているのかも知れません。僕たちは振り返ることをしませんでした。そうするだけの時間も惜しかったのです。間もなく町の眠りが醒めるでしょう。すると、茜が事態に気づくのも時間の問題です。
「あそこにある舟を盗んで逃げよう。もうどこへでも良いんだ」
人を切った興奮に震えた声で秋彦が云います。僕は胸をどきどきさせながら頷きました。
波止場に寄せてある舟の一艘に乗り込むと、紐を解きかけます。色町は朝靄の中にまだ霞んでいました。その門をくぐって赤鼻が転がるように駆けてくるのが見えます。首の後ろから血が吹いており、大変気味の悪い動きで駆けてきます。
「早く、早く」
僕たちは何とかして紐を解き、舟をこぎ出しました。赤鼻は道の途中で躓いたのか姿が見えません。
僕たちは荒い呼吸をしながらようやく全身の力を抜いて船底に横たわりました。

「それにしても、茜の忠告は気に掛かるね」
薄く目を開けますと、厚い雲の隙間から無数の銀の糸が降っているように見えます。雲間から漏れた陽の光でしょうか。僕はいまだかつてあのような光の漏れ方を見たことがありませんので不思議に思っていますと、糸はすうっと空気に溶けるように消えてしまいましたので、それからは気にすることもなく再び目を閉じました。
身を起こした秋彦がぼくを見下ろしながら喋ります。
「茜が百華に縛られていると云うのは、彼が将校や政治家を相手にするからだろう。今さら辞めるに辞められないのさ」
「茜はあの店をいたく気に入っているように見受けていたけれども、やはり不本意なのでしょうか。それに、そういえば、茜は年を取りませんね。僕が初めて彼を見たのは三年前のことでしたが、あの頃からちっとも変わらない。まるで永遠に成人しないかのようです」
すると秋彦が僕の知らない茜の生い立ちについて話し出しましたので、僕は随分真剣になってその話に耳を傾けました。
もっとも僕の注意を引きましたのは茜と赤鼻が双子の兄弟であるという点でした。
「まさか。美醜の権化のような二人が同一の親から産まれただって、とても信じられない」
「ああ、異母だよ。彼らの父も百華の出でね、道楽者で有名だったらしいが、たまたま同じ日に別の女が彼の子を出産したというのさ。それも双子と呼ぶのかしら」
もしも秋彦の話の通りだとすると、茜と赤鼻の、他には解らぬ確執、また互いを密かに慕い合う気持ちさえが想像されまして、秋彦が赤鼻を傷つけたことを僕の方が大変気の毒に思いましたが、当の秋彦は何食わぬ顔をして茜と赤鼻が双子だという話をいたしましたので、僕もそれほど長く罪悪を感じることなく、今はただ色町を無事に脱出できた悦びに満たされんと、秋彦の自分を撫でる感触に身を委ねてしまうのでありました。
どれほどそうしていたでしょう。霧の中から出た小舟が僕たちの乗る舟に擦れました時、ようやく僕たちは身を起こし辺りを窺いました。
ぶつかった舟は色町へ戻って行きます。
目を凝らしていた秋彦がふいにクスリと笑いましたので不思議に思っていますと、
「実に良いらしいよ、船上というのは。不安定な揺れが一興なのさ」
などと云いますので、僕もまた興味を引かれ、ゆっくりと遠ざかる舟を見やりました。するとそれまで俯せに寝ていた人物が上体を起こし、その目映いばかりの白雪の背が露わになりましたので、僕たちはさらに好奇心を刺激され、知らずの内にその舟の後をじわりじわりと追っておりました。
舟の通った後は水面が柔らかく盛り上がり、僕たちの追跡もその波紋にゆらゆらと揺れます。
「あの佳人に組み敷かれている幸運なお相手は、どうやら海軍の将校だね。早朝の逢瀬でああして体力を培っているというわけだ」
「そのようです」
「や、御覧。夏彦。あの佳人はどういうわけか茜に似ていないか」
その時、佳人がふとこちらを振り返りましたので、僕と秋彦は大層驚いて身を固くしました。その正体は確かに百華の代表、茜に他ならず、また情事の最中の彼の表情を見たことのある人形はおそらく秋彦を除いて此処におりませんので、特に僕なんぞは彼の瞳が滲んだように濡れているのや頬から鎖骨にかけてしっとりと上気している様などを見、不覚にもすっかり硬直してしまったのでありました。
「気づかれたね」
秋彦は僕よりはるかに落ち着いた様子で云います。
茜は長い前髪を鬱陶しそうにかき上げますと、僕たちを見てうっとりと微笑みました。その表情がまた何とも艶めかしく「自分は金に糸目を付けない人物でなければ相手にしない」と云っていた茜の言葉を思い出し、僕は心から納得したのでありました。
然し一方でその微笑みは、長い雑念の憂いからようやく晴れた一種の白痴特有の輝き、あるいは祈りの最中に神の御姿をすぐ隣に見出した狂信者のそれのように切なくありました。
「やあ、双子。素敵だね。お前達のあり方は、実に美しいよ。その舟の行き先は、かつて少年だった私たちが喉から手が出るほどに欲し、遂に得られなかった自由だ」
茜が僕たちへ向かって手を差し出しましたので、僕はその腕一本でもいただければ残りの人生に一度の快感の瞬間が訪れなくとも構わないと思い、誘われるように自ら手を伸ばしたのですが、彼の腕には、僕の先ほど見ていた銀の糸が無数に絡み付いているのでありました。糸は茜の腕と空を繋ぎ、あたかも反射しながら、いえ、光そのもののように煌めきながら、どこまでもどこまでも伸びていきます。五本の指すべては天と繋がれ、光の筋は毛細血管のように茜を包んでおります。
僕たちはふと顔を見合わせ、自分たちがもう故郷へ戻れないことを知りました。
戻らないから、戻れない。戻れないから、戻らない。
そのどちらでもあるような気持ちでした。
「赤鼻は、戻ろうとしたのかしら。だから醜くなってしまったのかしら」。僕はふと赤鼻を思い浮かべましたが、すぐに掻き消しました。
僕は自らの肘や指先、また秋彦の顎や目蓋から銀の糸がしゅるしゅると伸び、そのすべての先端が天上の光源に結わえられていることを悟ったのであります。
茜の舟が一際激しく揺れ、茜の笑い声が朝の海に、細波のと同じように違和感なく響いておりました。
僕は初めて、あたかも忘れた物事を思い出すような自然さで悟ったのであります。
そうでした。
人は皆、銀の糸を纏った、天の御人形なのでありました。
茜の艶やかな黒髪は、葬られた少年の自分を、永久に永久に追悼しているのでありました。