「お前はいつか、自分を責めるだろうな」
やさしいにおいがした。
スーのにおい。
いつか、このにおいを思い出して泣くこともあるだろう。
「僕そんな記憶力ないよ」
大きなてのひらが髪を撫でてくれる。嬉しくて黙っておく。
「なあ。お前は莫迦だからちゃんと解ってくれないかも知れないけど」
「……ばか?」
「92なんてものは、どこにもないんだよ」
「そうなの?」
溜め息の間で、煙草の煙が揺れた。銘柄は知らない。だけど、目をつむってたって分かるよ。




7 4  致 死 量




「じゃあ92ってなに」
「イメージ。その共有」
小さなソファ。射し込む西日がひどく眩しいのを、スーが遮ってくれる。翳された手を掴んで、親指と人さし指の間から順序良く舐める。見上げると、困りきった顔をしていた。
「どう、僕の舌、」
「やめとけ」
「いいくせに」
「まだ洗ってない」
「これ、さっきの血」
「そうだ。ほら、こんなに汚れてる」
「いいよ」
「ナナセ、」
「僕は、いいよ」
別の結末も、あっただろうか。

「イメージ。共有。なに。さっきのはなし」
「虚構。フィクション」
この部屋の秒針はうるさい。刻まれていってる気がする。つま先から、頭のてっぺんまで。それでも、ひとつに溶けてしまえるのならいい。
「誰の」
「誰かの。そのように望む、誰かの」
もしも自分たちのやってきた事のすべてがどこまでも細かく誰かに仕組まれたストーリーだと云うんなら、僕たちの存在だってやりとりだって仕組まれたストーリーだと云えるんだ。どうだっていい。そんなことは、どうにだって解釈できるんだから、もうどうだっていい。
「もういい。……スーは、じゃあ、スーは僕たちをどう思う」
「どう答えたら、お前、安心する?」
「僕の答えた通りに云うつもり」
「気に入らないか?」
「野暮だ」
「はは」
スーはいつもの通り笑ったつもりだったんだろう。だけど僕は見落とさなかった。その目の中にあった予感。
この先にある結末を。
変えられない未来を。
ずっと前にもこんな孤独に襲われたことがあって、それが今も傷のまま癒えていない。云えば現実になるみたいで嫌だ。だけど。疑えないくらい、あざやかだったんだ。
「どうした、ナナセ、そんな目して」
「……こわい」
「何がこわい」
「いやだ。こわい。スーが、僕をひとりにしようとしてるのがわかる」
スーの顔が泣きそうに一瞬歪む。
「ナナセ、いきなり何云うんだ」
「分かるんだ。おまえ僕を置いて行く気だ。僕が寝ているあいだにいつのまにかどこかに行ってしまうんだ。みんなおんなじだ、僕だって、それくらい分かるんだ」
「どうしたんだ。いきなり。俺がお前を置いて行くって。そんなこと、」
「嘘なんかゆうな、どうせあたってるくせに。ほんとのことゆえ。そこの、ばか、」

「……ごめん」
スー。
「……ごめんな。ナナセ、赦してくれ」
いやだ。謝るな。認めるみたいじゃないか。
「俺は行かなきゃならない。ここにもういられないんだ。分かってくれるか」
ごまかそうとする、その肩を突き飛ばした。忘れられなくなるから嫌だ。やさしくするな。どんなふうに触れたって、僕はスーを恨むことなんてないんだ。知ってるんだろ、やさしくなんてするな。ずたずたにしていけばいい。憎ませてくれ。たとえ思い出すことがあったって、ただそれだけで済むように。
憎ませてくれ。
やさしい手とか思い出さなくて済むように。
「……わかんない」
何か染み込ませた布に突然鼻と口とを塞がれる。
抵抗しようとするとスーがそれを妨げる。
驚いて見上げた。
「動くな。傷つけたくない」
かなしい目。
フェードアウト。
天井が。
感触が。
ぬくもりが。
これ、なに。
「さよなら、だ。ナナセ」
いやだ。
「俺が、出て行くよ」
まって。
スー。
「誰かにちゃんと愛してもらえ。お前なら、だいじょうぶ」
そんな言葉で騙そうとしたって。スーしかいない。僕をちゃんと愛せるのも、僕がちゃんと愛せるのも、スーしかいない。それなのに。
致死量のやさしさを呑み込ませ、おまえは去って行こうとする。
致死量の思い出を吐き出すこともできない、僕は置き去りにされる。
「怖くないよ、ナナセ。毒じゃない。少しだけ、眠くなるくすりだ」
うん、ねむい。
だけど、
「これ……少しじゃ、ないぞ」
「眠いか?」
いつも同じふうに訊ねられた。
「うん、ねむい」
だけどこれがもう最後になる。


頼る人もなくて、お金をくれるのなら誰だってよかった。ネオン街をさまよった。そして拾われた。ゆう通りにすれば、大人たちはお金をくれた。何だってした。服なんか脱いだ。求められればスカートもはいた。あいさつくらい簡単にキスもした。そしてそれを売った。髪の色だって声色と同じように変えた。くすりも飲んだ。他人にもなりきって返事した。体がもたなくなれば注射だって打った。知らなくていいことまで知った。そのうちだんだんと覚えていった。誉めてもらえる。認めてもらえる。気付いてもらえる。僕のそこにいることに。笑えばもっとかわいがってもらえた。さみしいとゆえばもっとお金をもらえた。僕は喜んで玩具になった。ずっと、居場所だけ欲しかった。そうだ、本当に欲しかったのは、お金なんかじゃない。


スー、おまえは僕の。
やっと見つけたと思った、約束の場所まで、うばうんだ。
「……スー」
「うん」
「……スー?」
「呼ばなくたって、ここにいるよ」
「おまえのことだいすきだ」
泣いている。
泣いているのは、僕だけだと思った。
だけど。
「おまえ、ぼくに何も望まなかったから」
「やめろ」
「だって、ほんとのこと」
「お前ね」
「ふふ。……そうだ、スー。いいこと教えてあげるよ」
「ああ。何だ」
「おまえは、な、これまで僕をおいていったパートナーの中でも、ちょう、ちょう、ちょう、」
「ひきょうな奴だ、だろ?」
「……そ、だ」

この日二人は同じことを泣いた。
どの道を選んでも僕たちはここに辿り着いたということ。
これが、運命。
スー。
僕もこれからは運命に従うことにするよ。
だけど、スー。
今。
とても。
こわい。
さみしい。
ここは。
さむい。
息ができない。
深すぎる、
深すぎるんだ。


いやだ、
ひとり、
こわい、
また、
ひとり、
だれか、
たすけて、
くるしい、
だれか、
たすけて、
さみしい、
みつけて、
ぼくを、
だれか、


だれか、





ハチ、

050118
これが「82」の冒頭につながる。