午前5時過ぎ。
ソファの上。
耳をすます。
たぶん雪。
積み上げられた音楽。
毛布を頭からかぶって身を縮める。
ああやっぱりもどってきた。
足音がだんだんと近づいてくる。
「早くここにおいで」、嬉しくて、でも哀しくて。
涙がこぼれる。
もうなにものこらなくてもいい。




8 7  happy tic




寝たふりをした。
「ハチ。ねてる?」
<ガシャン!>
睡眠中の人間を気遣う心があるとは思えない。
鍵を何度もなくすこいつのために(ていうかそのなくした鍵を毎回作ってやってる俺のために)付けた。多すぎる飾り。いくらなんでもちょっと大袈裟だったか。
だけどこいつを相手にする時は心得なきゃいけない。こいつは6歳児なんだと想定しなきゃならない。物はすぐなくす、出したものは片付けない、一度着た服は二度と着ようとしない、大人しく云うことを聞いているかと思えば適当に相槌打ってるだけ。
「へただね。ハチはへただ。すぐわかるよ。へただから」
「…………へたへた云うな」
笑いながらコートを脱ぎ捨てるナナセ。マフラーの端を掴まえて引き寄せる。どこで誰といた、なんて訊かない。そこまで踏み込むようならこの関係はとっくに終わってた。
「楽しかったか」
「お金もらった。たくさんもらった」
「そうか」
「そとになんか白いゆきみたいのがいっぱいふってたよ。ハチ」
「そりゃ雪だろ。……おい、冷たい」
第一にこのソファはベッドじゃない。
第二にこのソファは二人用じゃない。
「ハチが落ちそう」
いや、お前さえ割り込まなきゃ。
「落ちた。ハチ、落ちた」
「……落ちたんじゃない。お前に、」
「?」
「お前に落とされたんだ」
まだ冷たい頬をつねった。
「いひゃい」
「ん。何か云ったか。うわ、お前、ぶさいくだな」
「いひゃい、いひゃい、ひゃち」
わざと泣きそうな顔をするから、演技と分かっていて許した。
おきまりのパターン、確かめるみたいにテンポ良く。

「ねえ。ハチ。知ってる」
あれからまた少し眠った。太陽がちょうど目線の先までのぼっていた。だめもとで振ってみたケースに煙草が一本残っていた。火を点け肺いっぱい吸い込む。体なんか今さらもうどんななったっていい。
「何を?」
痩せたな。
少しずつ少しずつ体温を移す。
こんな時、誰にだって同程度に微笑む、こいつが悪魔でもいい。
「ロクのこと。ロクどこに行ったかな」
「さあな。新しいパートナー見つかったらしい、そいつのとこだろう」
「ハジメがゆったの」
「そうだ」
「じゃあ間違いない」
92で相互通信が許可されるのはパートナー間でのみ。たとえ過去に組んだことのある人間であっても、同じ班でなくなった瞬間から居場所を知らされることもなく、どこかで偶然に出会ったとしても他人のふりをしろというわけ。そうやって何度もリセットされる。
「じゃあもう会えないね」
「なんだ。さみしいか」
「さみしい」
さみしいかと訊かれて。
そうと答える。
こういうことなら、ナナセはちゃんとできる。

「こっちに来いよ」
かかえた頭は小さい。
これがずっと続くという確かな保証があったら、俺は何を差し出しただろう。
「ねえ。ハチ。ロクはね、」
もぞもぞ動くナナセの体から、煙草のにおいが微かにした。
俺のじゃない。
俺のじゃない、誰かの。
「ころしたんだって」
だから、さいごの煙草を缶の中に捨てた。人生で何本目だったろう。
「誰を」
「前のパートナー。どっちかがどっちかをしなきゃいけなかったんだって。92ではよくあることだよ。そのとき、ほんとは、ロクがころされる筈だったって。だけど、最後の最後で、相手が自分でしんだって」
「あのな。お前の話な。展開早すぎ」
「ほんとはあんまり覚えてない」
「……なるほど。だけど、それなら自殺だろ」
「ハチは、おかしいことをゆう。デュルケームを、読んだ?」
「何それ」
ナナセが少し笑った。声が聞こえたわけじゃない。顔が見えたわけじゃない。肩に押しつけられた頭が、心臓に重なった体が、少しだけ、揺れたんだ。
こいつは、よく笑う。
さいしょから、今この瞬間までずっと、いつも完璧な子どもみたいに笑った。

「雪はつもる?」
「つもらないだろ。ここじゃ」
「やだ」
「やだじゃない」
「つもる」
「ふうん。お前がつもるって云えばつもるの」
「うん。つもるよ」
「ふうん」
「ほんとだよ」

まだ降っているだろうか。それとも溶けてしまっただろうか。雪がどこにもないのを見たらこいつはがっかりするだろうか。自分のわがままがすべてには通じないということを初めて知って、おどろくだろうか。

「ねえねえ。ハチだったらすぐに選べる?」
拙く忍ばせた指で首筋の血管を柔らかく圧してくる。
ぞくぞくした。
忘れないよ。
お前、ずっと必死で探してただろう?
もうどこへいかなくてもいい、だろう?
さいごにここをえらんだ、だろう?
もういいのか?
もうじゅうぶんか?


あのきずぐちは、もうみたされた?


「どうするって、何を?」
「ころせってゆわれたら、ころせる?」
「誰が」
「ハチが」
「誰を」
「ハチかぼくか、どちらかを」
たぶんどんな答えを出したって、こいつは笑うだろう。俺はナナセを見上げる。薄い瞼にも、前髪にも、残酷な指の一本一本、その爪の一枚一枚、どこにだって、何度だって、やさしくキスできると思った。
「……そうだな、もし」
手を伸ばしたら、触れることができて。
名前を呼んだら、それが自分のことだと分かって笑う。
「もし、92がそれを要求してきたんだったら、俺なら、」
思ってもみなかった。こんな日が来るのなんて。
予想も。
してなかった。

「……選ばない。俺なら、どちらも、生かさない」

腕の中にナナセを抱いて、利き手の中に銃を持った。
何でも撃ち抜くバケモノみたいなやつ。
すべて理解したらしい、ナナセは夢でも見るみたいに微笑む。
少し震えていた。
「ありがと。ありがと。ハチ」
「お望み通りの、正しい答えか?」
「そうだよ」
「そうか、良かった」
耳の奥にしんしん積もる。
やさしい声。
ぬくもりと。
この日は誰の人生も狂わせない。
この星のどこも、汚しはしない。
弾を込める音に、ナナセの眸が怯えたように揺らいだ。
「お前、なんて顔してるんだ」
「こわい。銃口が見えなくて、こわいんだ」
「俺だけ見てろ」
「うん」
弾を詰め終え、空いた手で髪に触れてやった。
まだ少し震えている。
「ナナセ。分かるか。俺だ」
「うん。ハチだ」
「だいじょうぶ。いっしょだから、怖くないだろう」
「うん。こわくはないよ」
こいつは、今がいちばんきれいなんだろう、と思う。
その鮮やかさを俺だけが知ってる。
体をずらして、ふたつの鼓動をちゃんと重ね合わせる。
深呼吸したあとで、乾いた唇を舐める。
瞬きも忘れた。
初めて会ったときお前、と云おうと思ってやめた。
照準を合わせる。
小さくて薄い二枚の肩胛骨の真ん中より、ほんの少し右側に。
「うん。ハチだ。そこにいるのは、ハチだけだ」
「そうだろ。嘘じゃなかったろ」
「うん。うそじゃなかった」
誰かがアンハッピーエンドと笑っても。
どこかに天国があるなんて思ってない。
どこかに地獄があるなんて思ってない。
一週間ろくに寝もせず考えて、これ以上の結末なんて、みつけられなかった。
「だれかが、びっくりするかも。ぼくたち何も着てないから」
「うん。そうだなあ。へんだよなあ。……なあ、ナナセ」
「うん」
「お前どうして戻ってきた。せっかく猶予をあげたってのに」
真面目な気持ちでそう云ったのにやっぱりナナセは笑った。
ナナセの大きな黒い眸がこんなに近くですごく潤んでるのが可哀想で、すぐすむから、いたみなんかないから、そう宥めてあげたいのに、俺だって何もしてやれない。


「ぼくの家だから。ハチがいるから、ここはぼくの家だ」


笑ったその顔がいい。
両の親指に力を込め、ひといきに引き金を引いた。
弾は瞬時にふたつの鼓動を貫いて。
それから、この部屋には何の命もなくなった。

いつもよりずっと静かな朝。
雪はつもっていた。
雪は、つもっていた。

050127