頬杖をついたまま眠りに落ちようとしていた。誰かに揺すられて目を開ける、ゆっくり。
「見てみろ」
これは夢かも知れない。
雪原が広がっていて、大きくカーブを描いた後方の線路が地平線までずっと続いている。列車はやがてトンネルに入った。白い雪原はそこで遮断され、窓は黒い鏡になった。





J o u r n e y





1 to the north with a man

鏡越しに男の姿があった。
目覚めた時、自分が誰なのか何をしていたのか、分からなくなっていることなんてしょっちゅうだ。だからあまり気にせず、おそらく僕のことを知っているだろう男の肩に頭を寄せた。
「毛布もらおうか?寒いなら」
肩を通して伝わってくる、体温のような声がとても心地よい。顔を見ずに、返事もせずにおいた。そうしたらもう一度その声が聞けると思った。
「さむいの?」
闇の中へ列車はどんどん進み、そのままどこへも出られないんじゃないだろうか、出口なんてものはどこにもないんじゃないだろうか、と思う。窓に映る二人をもう一度見た。(誰だろう、この男?)。知っている気がしないでもない。列車が揺れる。そのたび二人も揺れた。窓の中の自分の前髪が伸びた、ような気がして、左の耳に軽くかけた。鏡を見ることはあまりない。ごくたまに知らない人にゆわれる。「きみ、お母さんの名前は?」。知らない。お母さんは僕が六つの時に、ガの群れが、とゆって自殺した。くすりによる幻覚だと思う。最期の言葉が「ガの群れが」。僕は自分の本当の名前を知らない。いつからか誰かが僕のことをナナセと呼んだ。
ナナセ。
いい名前だ。呼ばれると自分のことだと分かる。名前は、あればべんりだ。なければいいのにと思うのは、自分の名前を呼んでくれる人がどこにもいない時。
「いいや、俺じゃなくて、お前のことだよ」
ここで二つのことが分かった。
男は自分を俺とゆう。
男は僕をお前とゆう。
「寒くないか?」「気分は悪くないか?」「ホットコーヒーを頼もうか?」
僕はすべての質問に首を横に振った。
この人は僕に対してどうしてこんなに優しいんだろう。
「ねえ」
「何だ」
「僕の名前を呼んでみて」
「どうして」
「何かが分かるかも」
男は少し間を置いた後で、僕の名前を正しく発音した。
「合っているか?」
くすぐったい感じがして僕はつい、ふふ、と笑った。僕の名前は実は人によって幾種類もの呼び方があって、男の場合はその中でも特に僕の気に入る部類に属した。
懐かしい。
僕は遠い過去のいつか、ずっと、この声に呼ばれていた気がする。完全には思い出せない、だけど、遠い、いつか。
「もう一度呼んで。すごく気に入った」
男は僕がせがめば何度も僕の名前を呼んでくれた。だけど何故かその途中で涙をこぼしていきなり僕の指にキスをした。列車が停まるまでずっと指にキスをした。



2 to the east with a girl

僕たちは駅員のいない駅で降りた。
あれ、と思って顔を上げた。そこに男はいなかった。僕の手を引いていたのは、この雪の中ハイヒールを履いた少女だった。歩けるのだろうか、と思っていると少女はちゃんと歩く。すごく幼くも見えるし、それよりずいぶん大人にも見える。そんなことを考えているうちに、低い穏やかな声で名前を呼んでくれた男のことを僕はすっかり忘れた。
「あなた今までいくつ悪いことをしたかしら?」
その声は、とても似合っていた。何に?もちろん、彼女に。その、彼女を形作っている熱だの肌だの、それらすべてに。とても良く似合った。
「分からない」
「覚えてないの?」
「ちがう。分からない」
「それって、どういう意味」
少女はいつの間にか煙草を取り出していて、それに火を点けるところだった。
「わるいこと、って、なに。それが分からないから、分からないの」
「あなた何も知らないのね」
「たぶん」
「それって、大切なことだわ。いつもあいされたいのなら、いつも何も知らずにいることだわ。たとえすべてを知っていてもね」
「そうゆうもの?」
「ええ、たぶん」
無責任だと思って、少し笑った。
「笑うとお母さんにそっくりね」
「知ってるの」
「すごく」
「すごくって、どのくらい」
「このくらい」
「どのくらい」
「このくらいよ」
「きれいだった?」
「とても」
「誰かにあいされた?」
「ええ、とても」
「誰かをあいした?」
「さあどうかしら。うふふふ」
小さな駅を出ると、少女はもうどこにもいなかった。煙草の煙も消えていた。



3 to the south with a boss

高い空を見上げた。誰かの気配がして、ふと振り返った。改札口の方に、覚えのある後ろ姿があった。顔を覗き込んで、やっぱり、と思った。ハジメの立ち方には特徴があるからすぐ分かる。
「よう。俺の7番。こんなところにいたか」
髪の毛をくしゃくしゃされる。
やがて僕はハイヒールの少女を忘れた。
「僕ここから帰りたいんだんだけど」
「へえ。お前が」
「うん。列車で来たんだ」
「誰と」
「忘れた」
「お前いつもそうだな。誰でも信用する。どこにでもついてく。何でも云うことを聞く。そのくせ自分から棄てて行く。これだからやっぱり女王のDNAだ」
「何ゆってるの」
「まあいいさ。それで、どこに帰るんだ」
「どこにって」
「帰る場所なんか、あるのか?」
僕は少し考えた。それから少し考えた。
帰る場所。
帰る場所。
僕の、帰る場所は。
「ないね」
「だろ?」
だったら、とハジメの手が僕の手を取った。
「俺と来いよ」
眼鏡越しに冷たい眼が少し笑っていた。そうか。ハジメはたまに眼鏡をしてたっけ。
「お前の手と足に釘を打ってやろう。もう迷子にならずにすむようにな」
「なんのこと」
ハジメの言葉は時々本当に意味不明だ。それでも僕はハジメについていく。これはもう改めることのできない習性だ。ずいぶん前からこういう感じ。
「ハジメ、ここで誰か待ってたんじゃないの」
「お前を待ってたんだ」
どうせ出任せだろう。まあいい。
果たして駅の裏には駐車場があって、そこに黒のセダンが一台停まっていた。獰猛だけれども主人に忠実な犬のように。
ハジメが鍵を回すのを見ていて、それはハジメにとても良く似合う車だと思った。
「かっこいいね」
「だろ」
「この車」
「……俺今すごく傷ついた」
無視して助手席に乗り込む。この雪でちゃんと走れるだろうかと思って、窓を開けると、いつの間にか雪はすべて溶けていた。溶けていたというよりは、最初からそこになかったみたいに、アスファルトは灰色に乾き、線路脇には雑草の緑さえ茂っている。
「さあ飛ばしましょうか、7番ちゃん。お前にはこんな平和な田舎なんかよりもっとずっと危険で汚い都会がお似合いだ」
ハンドルを握る手は大きい。綺麗だけど、やっぱり、男のものだと分かる指。骨格の違いだろうか。近くで見たことは何度かあったけど、初めてのような気分になるのは、この空間の狭さのためだろうか。車内にはハジメと僕の二人の空間だけ広がっている。あたりまえのことなのにちょっとでも考え出すとどこまでも奇妙な気がしてきた。
どうして。
どうして。
僕はどこへ行くの。
「7番ちゃん」
「うん」
「お前すごくかわいいからさ」
「うん」
「そんなに見つめられちゃあさすがの俺も運転に集中できないわけ。なんで指ばっか見んの。指ファックされたい?」
「ファックって?」
「またまた」
ハンドルから両手を離したハジメがアクセルを強く踏む。まだ冗談の範囲で、それを分かっているから、二人ともおかしい。道路を飛び出していきそうな直前でハジメがまたハンドルを器用に切る。犬は犬だから抗議めいたタイヤの音をさせながらも主人の命令に忠実に従う。
「お前いつもそんなか」
「そんなって?」
「お前、俺のこと嫌いか」
「すきだよ」

車はハイウエイに乗っていた。夜の中を滑るように飛ばして、人工的な光の瞬く街へ下っていく。太陽は沈んでいて、いつからかずっと時間感覚が狂ってる。
「眠いか。ナナセ」
「ううん」
「いいか。眠いんだったら眠いっつっとけ」
「眠くないよ。僕が眠そうに見える」
「いいや。もう夜の10時まわったからさ」
「ふふふ。子どもだって起きてる」
黒のセダンは光の中に突っ込む。
ストロボライトみたいな目映さを通り抜けると、いきなり僕はあの部屋の前にいた。



4 to the west by catbus

「すごい。猫バスみたいだった」
「あ?何バスだって?」
「ううん。ハジメは知らないからいいよ」
「俺が何を知らないって」
「もういいってば」
「ほら。礼は」
何のことだか分からず、ひとまず笑ってみた。
「おい。スマイルなんかどこの店でも無料なんだよ。俺が云ってんのは、」
「あ、」
その時ちょうどドアが開いて、今のパートナー二人のうちの一人が出てきた。
「おかえり。ナナセ。今日は早かったね」
「うん。ただいま」
ロクはハジメを一瞥すると面倒なものでも見たように心底げっそりした顔をした。
「……なんか横に面倒なのくっついてんな」
「お。俺の6番ちゃん」
ロクはハジメとあまり関わりを持ちたくないらしい、「誰がお前のだ」とぼそりと呟いて階段を降りて行った。



5 to sweet home and the end of this journey

カーテンがない所為で、外の光が部屋の中をぼんやり明るく照らしている。ソファで眠る影に静かに近づいた。
「……ハチ」
シャワーを浴びたばかりなのか髪が少し濡れてる。鼻を近づけるといいにおいがした。悪戯をできそうな気がして楽しくて笑った。
「ハチは寝てる」
テーブルの上に残っていたお菓子を少し摘んで食べた。それからもう一度、ハチに向き直って、シャツも何も着ていない裸の胸にまだ冷たい耳をわざとくっつける。心臓の音をたしかめる。狸寝入りならドクドクしてるんだ。
「今度は寝てる。それに、ちゃんと生きてる。うん」
そういえば背中にタトゥーがあったな。
思い出して、ハチをひっくり返そうとしていると、ハチが目を覚ました。
「ナナセ?」
「ただいま」
「……うん、お前何してる」
「ハチの背中見たいんだ」
「あ?」
「背中に羽があるでしょう。あれ見せて」
ハチは少し酔っているかも知れない。だからロクは出て行ったのに違いない。僕はそう解釈した。
酔ったハチは笑いながら僕を抱え上げソファに乗せた。軽々と。
「ナナセ」
「うん」
「……ナナセ」
「ここにいるよ」
「さっきまでいなかったのにな」
「ちょっと出かけてた」
「うん。そうみたいだな。おかえり。お前、外のにおいがする」
「ハチ、犬みたい」
「犬でいい」
「僕、旅に出てた」
「旅か?」
そこでハチが笑ったのが分かった。僕の口が旅とゆったのがおかしかったらしい。
「長い旅だったよ。いつまで続くのかと思った」
「そうか。それで、今は?」
「うん?」
「今もまだ、旅の途中か?」
ハチの目がその時だけまっすぐに僕を見ていて、なんだ酔ってるんじゃないのかと思った。ハチは答えを待っている間ずっと、僕のやっぱり少し伸びていた前髪を耳にかけたり梳いたりしていた。
ああ、スーか。
どうして今思い出すんだろう。列車で隣にいた男はスーだ。僕を呼ぶあの声は、間違いない。あの頃僕が一番に探すのはスーだった。スーにとってもそれはたぶん同じで。だけど、今スーはどこにもいない。今僕が一緒にいるのは。
「どうだ、ナナセ?」
そして、これからも、一緒にいたいと思うのは。
もうスーではなくて。

「ううん。旅は終わったよ。疲れたから、もう帰って眠ろうと思ったんだ」

「それがこの場所で、そこに俺がいたわけ?」
「うん」
「そうかそうか」
ハチがなんだか嬉しそうにへらへら笑った。
やっぱり酔ってる。
それか、寝惚けてる。 ハチは僕にソファを譲って、自分は床の上に眠った。そのにやけた顔を見ながら僕も横になった。ソファはハチのおかげでぬくもっている。「ハチさむくない?」。「ちっとも」。旅は終わった。なんだかずっとおかしな旅だった。これが夢だとしてもそうじゃなくても、明日の朝ちゃんと目を覚ましますように。そしてハチが、おはようってゆってくれますように。僕もハチにそうゆえますように。
おやすみ。
「おやすみ、ナナセ」
「うん、おやすみ、ハチ」
おやすみ。おやすみ。僕の長い旅。

050131