旧い部品落としながら、新しい部品付け加えながら、歩いていく世界。ちいさな人間に意味などないのだとわかってる。でもそう単純にはすべてを棄てきれなくて、まだ何かを信じていたり期待してみたりする。こんな夜はだれがとなりにいればだいじょうぶ?




3  the sun




最近、一日が確実に朝からはじまっている。これはいいことだ。92に入ってからこんな生活初めてだ。「ん」。夢の中から続いている。隣の部屋からずっと音楽が流れている。
「めずらしく早起きしたみたいだな」。とは云え、あの人の眠りのひどく浅いことをおれはもう知っている。そもそもあの部屋にはベッドがない。一度だけ覗いてみた、フローリングの上に黒いソファと白いテーブルが、無味に、妙にさっぱりと置かれていた。あの人はずっとソファの上で寝る習慣を持っている。おれは睡眠場所に関してベッドのソファより優れていると思われる点を延々と語ったことがあるが、その時もむげに拒否された。眠ること自体が嫌いなのだと云う。こんな仕事を長くしているとそうなるものなのだろうか。
それにしても、部屋のつくりはほぼ同じだろうに、雑然と散らかったおれの部屋とあの部屋とじゃあ大違いだ。あっちの部屋の方がはるかに広く見える。生活に最低限必要な物以外を持とうとしない人だ。とにかく無駄が嫌いなのだ。そんなあの人が最近になって唯一、生きていくのに最低限必要と思われるもの以外の何かを部屋に持ち込んだ。
それがあの音楽。
思考を邪魔しないくらい静かで単調な。
「音楽でもないとやっていけないのかな」
ひとは寂しすぎるとおかしくなる。おれたちは仕事柄、おかしくならないといけない。(まあそれは一般人の立場から見た客観的な意味でのおかしさにあたるが)。だけど、そのために、寂しくならなければならない必要なんて、あるか?あの人は極端だ。多くを我慢しすぎる。自分を過信している。分かっているんだろうか。100ccのバイクは100ccでしか走れないんだ。誰にだって、限界ってもんが、あるだろう。
「ん、それともおれが単純なだけか」
ぬくぬくしたベッドの中で考える。
あの人はこのあたたかさをまだ知らない。

おれはあの人が考えていること、思っていること、感じていること、正確に推し量れるほど頭よくないしあの人をまだ知らないし92に対してはもっと無知だ。あの人は他人には物を訊ねるくせに自分のことを話そうとしない。だけど92で経験の浅いおれと、おれの知らない92での過去をたくさん持つあの人とじゃあかかえる意識や負担の総量もまるで違うし、同じ線上に立とうとすること自体が適切ではないかも知れない。
にしても、
「ああ……今日も笑ってくれないかなあ」

朝食は、おれがつくる。小さい頃から、料理人だった父親の真似事をして料理はまあ得意な方だった。それに、料理人にとってこんなに気持ちの良い客はいない。爽快なくらい食べっぷりがいい。
「誰も取りませんよ?」
ねえ、そんなあわてなくても。
おれが「今までろくなもん食ってねえな」という見解に至るに十分なくらい食事に夢中になっていた目が、初めておれの存在に気付いたようにこっちを見る。ベランダから射し込む午前の光に照らされて茶色の目がさらに薄く澄む。その色を見るのが好きで、おれはいつもこの位置に座っている。
「うん知ってる」
素っ気なく云ったあと、ボトルを手に取る。水だけはいつもペットボトルに入ったものしか呑まない。
色々とルールの多い人だ。
「そういうお前。ぼくの正面でいつまでもアホづら曝してないでさっさと食べたらどうだ」
「あれ、気付いてたんですか。じゃあそろそろいただきます」
そこでおれもようやくフォークを握る。
おれが視線を落とすその瞬間を待っていたみたいに、「昨日の」と彼が云う。「はい?」、タイミングを分かっていたから、少しおかしくて笑いそうになるのを必死でこらえる。おれ、まじめに!

「もう二度とあんなことするな」
「何すか、あんなことって?」
「誰かを庇って自分が怪我するような真似だ。死なれたらこっちが迷惑だ」
機嫌が悪く見えたのはその所為か。
思い込みでもいい。
一度だって触ったことのない頬が。
指が。
「怪我って、ほんのかすり傷ですよ。ほら、包帯だって大袈裟なくらいな」
おれを心配して、眠れなかった。
「知ってる。でも、実弾だ」
ああ、この人、きのう寝てないのか。

「だけどあの時はああでもしないとですね。ロクさん、その目の前にあるおいしーい朝ごはん、二度と食べれませんでしたよ」
「おいしくなんかない」

云わない。
この人は、云わない。
だけど分かってる。おれがちゃんと、分かってる。
初めて見たとき、あの目に殺されるかと思った。
だけど今なら、分かる。
この時間も何も、無駄なんかじゃない。
いつか、教えてあげます。
溶けない氷はない。
明けない夜はない。
あなた一人がずっと苦しむべきだという運命じゃない。
いつか。

「だけど、誰でも、じゃないですよ。おれがあの時とっさに、体はっても守りたい、と思ったのは」

一瞬だけフォークを落としそうになる、のを、あわてて持ち直す。
おもしろい。
「女でも吐くぞ、今のせりふ。ぼくは謝らないからな」
「ははは。そういう意味じゃないですよ」

ずっと空が暗い日にも信じてる。きみに届く、太陽のひかり。その瞳に張った氷を必ずいつか溶かす。叩き割るという手段じゃなくて。笑い合えたらいい、毎晩毎朝いつもいっしょにいることはできなくても、いつか心の底から笑い合えたらいい。すべてを共有することはできなくても。いつか。いつか。
おれが強く願うこと、そこに理屈なんかありません。

050320