3 2  サ ニ ー 




多忙な時期が過ぎ、もうずっと仕事がない。こんなこともあるだろう。 おれの入った時期がたまたま忙しかったのかも知れない。
閉めっぱなしだったカーテンをひさびさに開ける。 南向きのこの部屋、晴れの日は眩しいからレースは必ず引いている。
数日間ずっと晴れだった。
晴れっぱなしだった。
もういやになるくらい晴れだった。
今日は恵みの雨が降っている。
昨日の夜から降り続き、今朝急激に気温が下がった。
そのせいだろうか。溜まった疲れが出たのだろうか。たぶんどっちもだ。
ソファで良い、と云い張るのを無視しておれの部屋のベッドに運んだ。
ソファが良い、と云われたらおれはたぶん無視できなかっただろうけど。
横顔のきれいなひとだ。
こんなにきれいなのに、どうして愛を知らないのだろう。
どうしておれはいまだ、教えてあげられないのだろう。
「うう……死なないでください」
そう思うのも無理はない。ただでさえ悪い顔色がますます良くない。曇りだからという理由だけじゃなく。浅く小刻みに息をしている。 髪の生え際の産毛が汗で貼り付いている。熱がある。見れば分かる。
おでこに当てた手の下で、瞼がぴくりと動いた。
「……死ぬか。ただの風邪だ」
「何か欲しいものありますか」
「ない」
どっか行けよ、の意味だろうが、台所で洗面器に氷水を張って戻ってきたおれを、鬱陶しそうに見つめる。
それは何だ、氷水です、何するんだ、タオルを濡らすんです、 雑巾じゃねえだろうな、あはは違いますって、何のために、熱を冷ますためにおでこを冷やすんです、ぼくの熱を冷ますのか、はい、
「何のために」
このひとは、誰かに看病されることの理由なんかをこんなふうに訊ねるのか。
笑ってしまう。
こんなことも知らないなんて。
「あなたのために」
少し期待したのに、ただうんざりしたように目を閉じる。
「今はね、便利なものが出てるんです。湿布みたいにおでこにぴたっとくっつけるやつ。 それだとずっと冷たいし寝返りをうっても落ちません。だけどね、おれはタオルがすきなんです。誰かの手で絞ってもらって、 誰かの手でおでこに載せてもらう。氷が洗面器に当たって立てる音とか、聞いているだけで安心するんです。 おれが小さい頃熱出したら母親が、」
「おまえの家の事情なんか聞いてない。出てけよ」
「でも、おれの部屋です」

猫だった。小さな黒い。大きい目の。三角の耳が片方しかなかった。ひどいことをする。その血が首の毛まで汚していた。ひどいことを、する。 おれは抱きかかえた。どこかの脚が弱っていたからうさぎが跳ねるような歩き方だった。 鳥みたいな声でぎゃあぎゃあ鳴いた。おれが撫でようとすると指を噛んだ。我慢して気の済むまで噛ませた。 家に帰り、千切った新聞紙を敷き詰めたダンボール箱に入れる頃にはおとなしくなっていた。名前はサニー。 雨の日だったから、サニー。うちは食べ物を扱う店だったから、親に見つかれば追い出されることは分かっていた。 夜はダンボール箱を抱えて眠った。目の先にキャベツの産地が書いてあった。 サニーは自分の置かれた状況が分かるのか鳴かなかった。箱の中でごそごそしていた。朝なんか来るな、と思った。朝が来れば、おれは学校へ行く。

「今まで風邪なんか引いたことありましたか?」
おれを追い出すことは諦めたように、ちゃんと返事が戻ってくる。
「ああ、放って置けば治った」
こんなことしなくても、という意味だろう。
「治ってないですよ。その時の風邪。病気ってのは、人に看病してもらわないとずっと治らないんです」
おまえのせりふはいちいちからだじゅうがかゆい、と云う。
「かいてあげます」
「触んな」

サニーはすぐに見つかった。学校に行っている間ばれないように、押し入れにダンボールごと隠しておいたのに。 あまり怒られなかったが、自分で捨ててきなさい、と云われた。 その頃の貯金は今の数日分の食費にも満たないが、ある分だけ握り締めて駅に立った。 路線図を見上げて、往復費を計算しながら、できるだけ遠くを探す。 キャベツの産地は六こ先の駅だった。知らない方角。初めて自分で切符を買った。 電車の中でサニーが鳥の声でぎゃあぎゃあ鳴かないか心配だったが、おとなしくしていた。 見慣れた景色はすぐに終わり、田園風景が始まった。サニーは時々穴から顔を出しておれの指を舐めていた。おれはできるだけ見ないようにした。「無駄だよ、サニー。どうせ捨てられるんだから」。サニーは構わず舐めていた。 その時、思った。どうして名前なんか付けてしまったんだろう、って。

指を交互に絡める。
噛み合うように作られているのだから。
「おれは、自分がやさしい男だなんて思ってないです。誰かを救えるなんて、ロクさんに会うまでは絶対思ってたんですけど、あと、会ってからしばらくの間も思ってたんですけど、もう思ってないです。 だけど、放っておけない性格で、放っておけばまた何かを失う気がして、うざったいって思われているのは 分かってるんですけど、どうしようもないので、だから、もう少しここにいて良いですか。救いたいって気持ちだけが、存在してるってこと、それだけは疑えないって、こと、汲んで……何か云ってください」
両手で挟んで封をする。
熱があるのはおれの方だ。
一体おれはこのひとをどうしたいの。
不器用なこのひとに何をさせたいの。
その時だった。
空耳かと思った。
「おまえだけじゃない。誰もやさしくない」。
驚かれることなど何も云っていないと思い込んでいる目がきょとんとおれを見ていた。
それでもやがて、何か分からないがとにかく何かこいつにとって都合の良いことを云ってしまったんだ、と気づいたらしく、そっぽを向く。
「抱きしめて良いですか」
「気持ち悪い。莫迦が感染する」

猫にそんな習性はないと云う。犬のような習性はないと云う。 それでもあれは。 学校の帰り道、車に轢かれた猫の死体を見た。家のすぐ近くだった。一つしかない三角の耳、 あれは、確かに、きみだった。六こ先の、キャベツの産地に置き去りにしたはずの、きみだった。

「汚い部屋だな。物が多くて、散らかっていて、無駄だらけで、無様だ。くさいし」
初めて気づいたように部屋の中を見回す。
「ひどいこと云う。これでも片付けたんですよ。ロクさんが息できるように」
呆れて首を振った拍子にタオルが枕元に落ちる。
「おい」
「おい、じゃないです」
「くそ……サン、」
「くそは付きません。何ですか」
「タオルが落ちたぞ」
はいはい。
絡めるよりもほどく方が緊張する。あたたかな手を布団の中へ戻し、洗面器にタオルを浸し、からんころん、音を立てる。
誰もやさしくはない。
雨が止まない。
雨が止まない。
呪文のように繰り返す。
雨は止まない。
雨は止まない。
奇跡の起こる部屋だから。
「分かり合える日なんてこないよ」
からんころん。
音を立てる。
「ぼくとおまえがみつめるものは、きっとずっとちがうよ」
さっきまでとは口調が違う。絞る手をやめて、おれはわざとタオルを離した。もう一度氷水に浸ってしまったタオルで、からんこらん、音を立てる。
「何がいけないって云うんです」
真面目だった。
ひどく真面目だった。
自分に云い聞かせるように、確かめるように。
雨音と呼吸。
それだけしかない。
本当に、それだけしかない。
互いの秘密を打ち明け合って、慰め合って、身を寄せ合うしかないと思っていた。
ずっと、だけどそれだけで良いと思っていた。
「それで、何がいけないんです」
冷えた手をおでこに載せる。
分かっているだろうに、目を開けない。
熱い。
繋がってしまったみたいに。
目の先で白い唇が微かに動く。
もう眠るのだろうな、と分かった。

「おまえは、それで、い……の……?」

その後すぐに安らかな寝息が続いた。
おれの手は熱い。このひとのおでこも熱い。だけどこの熱とその熱は違う。別々のもの。それぞれのもの。
寄り添えても交わることはない。
どれだけ寄り添っても。

タオルをきつく絞っておでこに載せた。

やさしいだなんて思っていない。
救えるだなんて思っていない。

「いい、それでも」

からんこらん、この優しい音を、知らないなら聞かせてあげたかっただけ。
あなたが眠りから目を覚ました時に、自分がいちばんそばにいたかっただけ。

051002



















翌朝(ベタっす)

すずめ 「ちゅんちゅん」

「……へっくち!」
「ん、お前何やってんの」
「見れば分かるでしょう。あんたの風邪うつ、……っくち!」
「ふうん。じゃあ、ぼく出かけてくるけど」
「ああ、ちょっ!おれは?ねえ、おれは?ロクさん、おい待てこら」
「何だよ」
「何だよ、じゃないっす。この風邪は看病してもらわないと治んないすよ。って、昨日云ったじゃないっすかあ」
「ああ、あれ」
「うっわ、何すか今の冷笑は。て、あ、すんませんすんません、カムバーック」
「何だよ」
「何だよ、じゃないっすよ。この風邪は看病してもらわないと治んないすよ。って、さっき云ったじゃないっすかあ!」

Happy happy the beautiful SUNNY day !