何かの間違いだろう?
初めて見た時そう思った。あいつは部屋に充満した光に眩しそうな顔をして壁に凭れていた。紫黒の髪、触ったわけじゃないから実際どうであるかは分からないんだけど、石を磨いたみたいな白い頬、血の気のない薄い唇。形は、まあ、あれだ、すごく良い。色も殆どないのにやたら俺を惹き付ける形だった。そう、俺は唇フェチなのだ。
チャコールグレーの眸がやけに際だつ。眠そうにしている所為か、潤いを孕んだその眼球は贋物の宝石みたいな光を放っていた。磨り硝子みたいに澄んでいた。後で知ったことだが、実はこの眸、疑いようもない漆黒だった。それが灰色がかって見えたのは、やはり一帯に溢れていた光の為だろう。
「こいつ?」
振り返ると、俺をここまで案内したハジメはおかしそうにしていた。
「こいつが、俺のパートナー?」
背丈なんか俺の頭二つぶんくらい小さい。ジャケットに隠れて見えないけど、体だって、かなり細くて。92に就いていることを疑えそうなくらい、綺麗な生き物に見えたのだ。いや、いや、そうじゃない。俺がこうも頭の中で疑問を反芻するのは、こいつの容姿云々じゃない。
こいつが、「手に負えなかった」?
この、我が儘そうな、ちっぽけな奴のことか?
頭では理解できても、いまいち実感が湧かなかった。




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92では自分のパートナー以外の構成員については知らされる機会がなく、組織の全貌に対してまったくの無関心者がほとんどなのだが(とは云ってもその無関心さは92に就くための必須条件であり秩序を保つために欠かせない事柄なのだが)、例外的に7の番号を持つナナセについて知らない者はいなかった。それは、ナナセのパートナーとなった者が尽くその役を下りていったことからだ。

92は政府公認の殺人業務であり、上層の徹底した秘密主義と管理の下に築かれている。人体のようなものだ。エリートの集う頭脳となる部分、資金という名の血を送り出す心臓となる部分、活動を円滑に進める足となる部分、そして実際に業務を行う手の部分。これらが一体となって、頭脳から発された意思の下に末端の四肢が具体的行動をとる。指先、すなわち俺達のやっていることというのは、「ツインで班を形成し協力して任務遂行に努める」ということ、名目上は。班は3人編成の場合もある。だがこれが、監視の役目も果たしていることを、俺達はなんとなく分かっている。

そうは云っても有志の集まりだからわざわざ混沌を引き起こす莫迦もない。仮にいたとしても指先同士で傷つけ合うくらいだろう。頭脳にとっては大した損傷にはならない。指先が、頭脳に衝撃を与えることは決してできない。その上指先には代替が存在するのだ。

そんな、使い捨てのキャップのような俺達は一介の公務員のように、与えられる役目を甘受している。システムの一部であるということ。社会的な孤立よりはずっとマシで。都会の真ん中で飢えているよりはずっと合理的で。理論上には可能なことだ。

大変なのは理性をどう書き換えるかという問題だ。理性。92が求めるのは理性の書き換えが可能な奴。していることは犯罪だ。それも一番罪の重い。そういった犯罪を任務として遂行するには、どこかで道徳の糸を切らないといけない。とはいえ所詮この糸、環境や教育が作用して張り巡らされた後天的なもの。素質のある奴は難なく切り落とす。そんな中でも、例えば切り方の分からなかったり、分かっていてもなかなか切れなかったりする奴は、92に向いていない。もっと別の生き方をできる。ちなみに、一度就いてしまったら転職はできない。入り口はあっても、出口はないのだ。最初の扉は、内側からは開かないようになってる。

まあ、人間は。いずれかの形で何らかの組織に繋がっていないと気もおかしくなる。そういった意味で、92は健在なのだった。今のところは。たぶん、これからも。需要がある限り、供給源であり続けようとするだろう。

俺は92に就いてから今に至るまで数人のパートナーと組んできた。いなくなった奴のことは思い出さないようにしているのだが、今ここで比較のために思い起こす。それでもやっぱりナナセは異質だった。愛嬌はある。らしい。コミュニケーションも一応、成り立つ。らしい。(この、一応、の程度が気になるところだが、しばらく置いておくとする)。任務遂行を妨害するような行動をするわけでもない。それどころか実績は、聞いたところによればかなりの高レベルを任されて完遂してきた程だ、問題はないだろう?それなのに、パートナーと長続きしない。一体ナナセの何がこれまでのパートナー達の負担になっていたのかという話だ。

ハジメは自分から説明しようとしない。だからこそ興味をそそられてこのポジションを申し出たあたり、俺も変わっていると思う。

ちなみに1の番号を持つハジメは2から10までの番号の構成員の、いわば取締の役にあたる。上層と、このハジメだけは2から10までの全員と面識があり、データを持っているということになっている。こういったふうに、12から20までは11の番号を持つ者が、22から30までは21の番号を持つ者が、という感じだろうか。

「こいつの母親、歓楽街の女王様で」
ハジメは俺といる時いつも、何か堪えきれないものを含んだような顔をしている。麻薬中毒者のような。これで頭は切れるのだからこの組織もほとほと恐ろしい。俺の云えたものではないが。
「それがどうした」
「いいや、べつに。知っておいて損はないだろう?」
どんな損だ。
悪質なハジメは無視して、ひとまず新しいパートナーに挨拶をすることにする。近付いて、手を差し出した。握手を望んでいたわけじゃなかったが、思わず手が出てしまったのだ。とにかく、動くところが見たかった。生きているのだという証明のようなものが欲しかった。
さっきから、あまりに、反応がない。
目はじっと俺を見ている。
「俺は、ハチ。あんたのことはこいつから聞いて、知っている。……今回の件については、その、残念だったな」
きっかけが欲しくて、前のパートナーの話を出したのだ。普通は、初対面でこんな話をしない。
(胸糞わるいな。瞬きくらい、して見せたらどうだ)。
密かに挑発的な視線で見下ろしていると、ナナセは、ふと、意外なくらいに愛想良く笑った。
これ以上の均整はないというくらい、ひどく整った顔が、幼く綻ぶ。
幼かった。
何も知らない者だけが浮かべることのある、あるいは何もかも失った者だけが浮かべることのある、ふっきれたような、すべてから解放されたような、それでいて僅かに縋るような色をも併せ持った笑顔だった。
たちがわるい。
「あなた。ハチ。名前、おぼえた」
もっと冷たい声を出すのかと思っていた。
予想は大いに外れ、うろたえた俺は再びハジメに笑われる事態になった。
「誰だって驚くんだよ。最初はそういうふうに。笑うと意外とかわいくて、びっくり、だろ。少し頭は弱いけど、相手の心理をちゃんと分かっている奴だぜ。たまに確信犯だから油断するなよ」
「黙れよ」
俺はナナセを見下ろしたままで、ハジメにそう云った。

「冷たい手だ。ぼくが怖いの」
睫毛が頬に影を落としている。
握り返された手から伝わる、体温の高さに、びっくりした。
これはもう、才能の類だと思った。抗えなくなる。その内のみこまれてしまうぞ、
直観がずっとそう鳴っていた。
歯車はたぶんもうこの時、カラカラと音を立て始めていた。

041029