そこには椅子があるという。向かい合って食卓を囲むための。
そこには大きな箱があるという。名前は浴槽。
そこにはやわらかい場所があるという。すきないろのブランケット。
どれだけ時間を隔てても自分をわすれないひとたち。
夢みたいなところ。




7 1   n i g h t




すぐ隣にわざと同じような恰好でしゃがみ込んだ怪しい俺のことなど気にも止めない様子で手の中の紙幣を数えている。無防備すぎる。それに、いくつだ。今頃アパートで俺の帰りを待っているだろうあいつと、あんまり変わらないんじゃないだろうか。うさぎ、か?毛足の長いマフラーに口元を埋めた真剣な横顔。小さな白い指先だけ袖から出しているものの、寒さのせいで思うように動かせないらしく、何度も最初からやり直している。
俺は指の間に挟んでいた煙草を口に銜えると、かじかんでいるその手から紙幣を取り上げた。
「やってやるよ」。
そいつはしばらく俺の横顔を眺めていたが、やがて、膝の上で組んだ腕の中に鼻先まで埋めた。「社長だって云ってた。だから、20枚、って約束だったの。ちゃんとあるかな」。
何のことを云っているのか。
「うん、確かに20枚あるな。だけど、これ半分インチキされてるぜ」
俺の告げた言葉にそいつは不平そうに唇を尖らせ、すぐに取り返してポケットに押し込んだ。まあいいや高い授業料だったと思って、なんて、どこで仕入れたのか手慣れた娼婦のようなことを口にする。
やがて、俺を見ながらうっとりと瞬きをした。
「この辺りで見かけたことはないな」
「そんなによく来るのか、ここ、お前」
「うん。あなたは、だれ。あなたは、遠い国のにおいがするよ」
「へえ、本当。特にどこが」
「もう少しちかづいてくれたらわかるかも」


自分の選んだ駒がそれぞれのポジションで自分の下した命令通り動いたとしても、計画通りにいかずたまにはミスだって犯す。当初の計算の段階からすでにあった歪みが命取りになったりもする。そうして生じた責任は一切が俺の上にのしかかってくる。これまでは自分一人のことだけ考えていれば良かったし、それでうまくいっていた分、こんな状況下では些細なことでも挫けそうだった。
これだ、って駒をまだ見つけられずにいる。いいわけのように聞こえるだろうか。
だけど、この街で。技術じゃなくて、そういうことだけじゃなくて、もっと、何か。言葉にならないような部分で目を離せないような存在を掴まえてみたい。俺がここへ来た理由は、何もない地点からスタートした場合に明らかになる自分の実力を試したいというのと、あと一つ、色んな人間を見ること、だった。誰だって良いわけじゃない。選ぶことはできないのだけど。だけど、あの街で偶然にも巡り合うことのできたチャンスと同じような出会いを、その時の脱力感さえ覚えるような感動を何度でも味わってみたいんだ。
だけど最近じゃネオンの街をぶらぶら歩いていたって気晴らしになるようなものは何も落ちていない。足掻くのはやめてここは大人しく家に帰るか、そう、思った。
その時だった。
くるりと踵を返した目の先に、さっきはなかった姿があった。とっくに不特定複数の誰かの手によって完成されたジグソーパズルの上に、一つだけ余ったピースのように、浮き上がって、俺の目に飛び込んでくる。奇抜と呼ぶほど突飛な服装だったわけじゃない。何が原因か分からない。確かにその時間帯と場所を考えればふさわしくない年代の子どもだったわけだが。近寄って、見下ろして、煙草の煙を吐きかけても反応しないし、隣にしゃがんで、しばらく見つめて、首を傾げても上の空だった。ただその瞳は異様なほど黒く大きく、空も海もきれいなあの街の猫をさえ俺に連想させた。


「帰る場所はないよ。住む場所も決まってない。寝る場所は色んな人のベッド。食べるものは、出されるもの何でも。ずっとそうやってる」
訊ねれば訊ねた分だけ答える。従順で無抵抗で、よっぽど化かされているような気持ちになる。
ずっと聞いていたくなるような甘い声だった。
「家出か。お前、いくつだ。名前は。住所は。きっと親が捜してる」
大きな目をじっと凝らして、そいつは俺のした質問の意味を考えている。
「ママのこと?ママはこのまえぼくがたべたの」
煙草の煙を宙に吐き出し、俺はその回答の意味を理解しようとする。
「うん?ヒントちょうだい?」
「ママはぶら下がっていたの。びっくりしてのみこんだよ。誰にも見つかったらだめだったから」
「びっくりしてのみこんだ、ねえ」
「ねえ」
俺の手を幼い手が握って、「本当はどこから来たの」と今度は逆に問いかける。
砂糖漬けにされていくようだよ。
お前の目は、お前の声は、まるで、狂ったように甘ったれている。
「どうしてここに来たの」
微笑んでいるのか泣きたがっているのか分からない。
ああ、相当やばい薬キメてんな、これ。
「どこ、に、いくの、だれ、と、いくの」
親指と中指で作った輪にさえ通せそうな上肢をたどる。
めいめいの個性を主張する毒々しいネオンの蛍光色を受けて、細腕に新しい注射の跡を見つけた。
望んだものなのか、望まずのものなのか、そんなことは関係ない。
もう目の縁いっぱいに涙を浮かべたそいつがすがるようなまなざしを向けてくる。わざとだとしたら、とんだ演技力じゃないか。

「気に入らなければひどくしてもいいから、ぼくを拾って」

ああ、ぽろぽろ零れてくるよ。
頭上のエキゾーストにできたほつれから。
おわらない夜が。
おわらない痛みが。
きれいになれない生き物のなきごえが。
無情なひとびとの上にもふりそそぐ。
やがてそれは、
その雫は、
いちばん脆い者の体にとどまって、
宿りながら潤すが、
ある日突然、堰を切ったようにあふれだすんだ。

「家、を探してる。そこは夢みたいなところなんだ、って、きいた」
「まだ名前がない。たまにママの名前で呼ぶひともいる。顔もそっくりだから」
「ぼくを今飼って、飼うって誓って、今じゃなきゃしんじゃう」

「ああもう、わかった、わかった」
アスファルトに押しつけて煙草を揉み消して、それだって「役作り」のためだったかも知れない痩せた肩に腕を回す。誰が誰を踏みにじったって、誰も誰をも救いはしない。
何の保証もないこの街の雑踏の中で、今また奇妙な物語が始まろうとしている。
いや、始めようと、している。
ちっとも懲りない俺が。

「家なんか俺がやる。名前もやる。ほら、お前は今から7番だ。だからもう、泣くな」

初めてじゃないだろうに、人に抱きしめられたことなんて今まで一度もなかったふうに哀しくしがみついてくる。その力は弱々しいけれど、問題なんてどこにもなかった、だってそこにはどうしたって冷たく突き放せない何かがある。俺の全身を甘い毒がくまなく侵していく。油断した俺がばかだった。こいつは、すべて分かって、俺の肩の上でやっぱりさっきみたいに何の罪悪も感じていない笑顔を浮かべているかも知れないってのに。悪戯を成功させた子どもの笑顔を浮かべているかも知れないってのに。確かめようともしない。疑おうともしない。俺は、ただ、求められた分に少しずつ上乗せした分の力で抱きしめ返したりしている。

綿毛のような脆い体を。

優しい声。
優しい手。
優しい俺。
不吉なほど不気味。
こんなの俺じゃない。
だけど、こいつにはきっと、誰も、優しくしかできない。

「これからもずっと大丈夫だ。だから、もう泣くな、ナナセ」

051108